目的:
日経新聞「私の履歴書」に登場された有名人の
ユニークな体験を確認いたします。
その成功要因となった「原体験」を探ります。
ついでに、当社の分析もしてみました。
ねらい:
何らかの参考になさってください。
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【原体験】
7.小口配送の実現
氏は東大経済学部出身の「常識人」です。
この4事業はすべて「他人のやらないこと」には該当しています。
Ⅰ.松下幸之助さん 松下電器創業者
【原体験】
1918年 松下電気器具製作所創業。
創意工夫のソケット(二股プラグなど)が成功する。
⇓
「工夫すれば、売れるものが作れる」
【英断のあまた】
1.1923年 自転車用ランプの創業危機乗り越え
自転車用ランプに需要があると判断し
改良型の電池式ランプを考案した。
製品はできたが、自転車販売店が新しいものを受け入れてくれない。
そこで無料配布する決断を行った。
大阪中の小売店に2,3個のランプを置いて、
うち1個はその際点灯して
「30時間以上持ちます。
品物に信用が置けるようになったら売ってください。
その後安心できたら代金を払ってください」
と言って販売員が回った。
評判は次第に高くなり、2、3か月すると
小売店から注文が来るようになった。
(失敗すれば倒産というリスクを負っています)
2.1929年 世界不況の危機乗り越え
恐慌で製品の売上が半減し在庫の山となった。
この時以下の方針を出した。
「生産は即日半減するが従業員は一人も減らさない。
このため工場は半日勤務とする、
しかし従業員には日給の全額を支給する。
その代わり全員で休日も廃止してストック品の販売に努力する」
その結果は、
全員一致協力で2か月ばかりのうちに在庫は全部売り尽くし
工場の稼働を旧に復することができた。
これもすごい英断です。
3.1932年 生産者の使命を自覚
その日5月5日を創業の日とした。
その使命は「この世の貧しさを克服することである。
この世に物資を満たし、不自由をなくるのが務めである」
素晴らしいコンセプトです。
4.1945年終戦の後 公職追放を逃れた
当初、対象のA級に入れられた。
戦争中に、持ち前の創意工夫魂で軍の要求により
木製の船や飛行機を作ったことがその理由である。
しかしこれは、従業員や取引先の社長擁護運動によって
解除になった。
その頃、お若いときの写真です。
自信にあふれた輝いているお顔です。
(出典:上掲書)
5.1952年 フィリップス社と提携成立、合弁会社設立
この際、
フィリップス社が高額の技術指導料を要求してきたので、
逆に経営指導料は払ってもらう、と要求し、
決裂寸前の交渉を粘り腰で成功させた。
言いなりにならずに、スゴイ判断力ですね。
6.1953年 中央研究所設立
自らの考案、労作にあらずして本当の考案はあり得ない、
高い自主技術を持つべきだ、という考えのもとに設立した。
この研究所は専門の機械製作工場を持った。
俗に言われた脱「マネシタ」ですね。
7.1964年 事務用コンピュータ制作から撤退
それまで十数億円の研究費をつぎ込んでいたが、
事業の将来性を客観的に評価してギブアップした。
高校3年のときには
短距離選手として県大会に出場するまでになった。
「自分でやろうと考え、
決めたことであれば何とかできるようになるものだ」
【経歴】
1)高校時代 生徒会長
2)大学時代 自治会の書記長(親のクレームで1年間のみ)
3)同 株式投資で小遣い稼ぎ
【英断実行の数々】
1.ヨーカドー人事課長時代の革新
1)採用に苦労し
各部門の幹部社員が採用活動に関わる仕組みを作った。
これによって、会社内の連携ができるようになった。
2)自己申告制度、スキルのセルフチェック制度、
週休2日制度などを
他社に先駆け1960年代後半に導入した。
2.労働組合の結成を行ったが組合本部と交渉し組合費を下げた。
「会社から組合費を下げさせた初めての男」
として郎組む関係者間で有名になった。
3.忙しくても安易に人を増やさない方針を貫く
人が増やせば仕事の工夫改善をしなくなる。
4.コンビニ事業開始に対して社内外での反対を押し切った
これは有名な話で鈴木敏文さんというと
このことしか知らない人も多い。
反対理由のほとんどは「大規模なスーパーが苦戦しているのに
小規模な店が成り立つわけがない」という規模の論理でああった。
市場の変化に対応するのだ、ということで押し切った。
5.サウスランド社とのハードな交渉成立
セブンイレブンの米国本社サウスランド社と決裂覚悟で交渉し
有利なロイヤリティ条件を引き出した。
(交渉は「腹をくくる」必要があるという信念)
6.出店地域を絞るドミナント戦略
ドミナント戦略は、知名度向上。物流効率の点から選択した。
この貫徹は厳しかったが方針変更しなかった。
トップとしての役割の最たるものは、
ものごとをいかに徹底させることができるかの徹底力にある
7.小口配送の実現
当時の物流は
スーパー向けが中心で大ロット(ケース単位)であった。
これではコンビニには不適合である。
そこで、メーカ、流通業者に小口化を要請した。
(上野注:時代の流れの小口化を拒否した問屋はその後衰退した)
8.共同配送の実現
当時、1店に対して1日70台の納品車両があった。
荷受け作業も大変であるし、近隣の交通受胎も招いていた。
そこで共同配送を強く要請した。
1970年に日本初の牛乳の共同配送が実現した。
その後、共同配送は進展し、納品車両は1日9台にまでなった。
9.おにぎり・弁当の販売
「そういうものは家で作るのが常識だから売れるわけがない」
と反対されたが、商品の工夫をし(海苔のフィルム巻きなど)
大成功した。
10.発注端末の導入
発注の効率化のために、
メーカと交渉し専用端末を開発してもらい導入した。
11.売れ筋把握のためにPOS導入
米国で生まれたPOSはレジの省力化が主目的だった。
それに対して、売れ筋の早期把握を目的にPOS化を進めた。
12.仮説検証の推進
(これも鈴木さんの功績として著名ですが)、
「漫然と発注するな。状況を考えて発注せよ。
その結果どうであったかを常にフォロせよ」
を徹底的に指導した。
13.FC会議の開催
1人で7-8店舗の指導を担当するOFC(店舗経営相談員)2300人、
各ゾーンのマネジャー、本部の商品担当マネジャーなど
合計3千人が隔週1日間集まって、情報交換・研究会を開催している。
タイムリーな状況対応が必要である、という認識からである。
この会議の運営に年間30億円のコストがかかっているが、
それ以上の効果があると考えている。
「このご時世に」という意見もあるが、
「考え方や価値観を共有するには、
フェイス・トゥ・フェイスのダイレクト・コミュニケーションに
勝るものはない」との考えである。
対面型のコミュニケーションを重視するセブンイレブンの
取り組み姿勢は社会に一石を投じていると思います。
Ⅲ.小倉昌男さん 宅急便創業者
氏は東大経済学部出身の「常識人」です。
まだ若い81歳で亡くなっています。
【原体験】
1945年6月陸軍予備士官学校で、
1945年6月陸軍予備士官学校で、
農業学校の校舎を借りて宿舎とした際。
「炊事場と厠を作れ」と命じられた。資材は与えられない。
2.1986年 路線認可訴訟
3.小型サイズ運賃認可
4.郵政との信書判定訴訟
「炊事場と厠を作れ」と命じられた。資材は与えられない。
途方に暮れていると下士官が、近くの河原や山から石や土を、
近くの農家から竹竿とわら束をもらってきて、
あっという間に完成させた。
「何でもできないことはない。やればできる」と確信した。
これが小倉氏のその後の挑戦精神を形作ったものと思われます。
【主な経歴】
1)1949年から4年間肺結核で療養。
「何でもできないことはない。やればできる」と確信した。
これが小倉氏のその後の挑戦精神を形作ったものと思われます。
【主な経歴】
1)1949年から4年間肺結核で療養。
まさに死ぬ思いを乗り越えた。
2)1971年 46歳でようやく社長就任。
2)1971年 46歳でようやく社長就任。
父社長の老がいを認識した。
3)1973年 オイルショックがあって社員を千人減らしたが
組合員の整理はしなかった。
【信念貫徹の実績】
1.1975年 周囲の反対を押しきって宅急便事業開始。
米国視察でUPSからヒントを得て将来性を確信した。
1.1975年 周囲の反対を押しきって宅急便事業開始。
米国視察でUPSからヒントを得て将来性を確信した。
従来事業の低落で起死回生の一手であった。
しかし、父を含む全役員が反対した。
唯一労働組合が賛成してくれた。
結局スロースタートで事業開始した。
2.1986年 路線認可訴訟
宅急便を全国網とするためには全国の路線が必要である。
路線トラックは運輸省の免許制である。
路線トラックは運輸省の免許制である。
それ以前国道20号線の認可にも4年かかっている。
1981年に申請した北東北路線が棚ざらしだったので、
1986年に運輸大臣を訴える行政訴訟を起こした。
この結果、公聴会が開かれ認可された。
監督官庁の期限を損ねることはしない慣習を打破した
画期的対応であると世間から評価された。
3.小型サイズ運賃認可
運賃も認可制であった。
10キロまでのSサイズと20キロまでのMサイズに加え、
2キロまでのPサイズを申請した。
認可が下りないので、マスコミに
「運輸省の認可が遅れているので、
Pサイズの発売を延期せざるをえなくなりました」
という広告を出した。
結局運輸省は、規制緩和の世論に押されて、
1か月後に認可を出した。
4.郵政との信書判定訴訟
郵便法第5条は、
「国家以外のものがはがきや封書などの信書を送達してはならない」
と規定している。
しかし信書の定義があいまいなので、
1952年の以下の大阪地裁判決がよりどころとなっていた。
「信書とは特定の人に対し自己の意思を表示し、
あるいは事実を通知する文書」
1994年、郵政は「クレジットカードが信書である」と言ってきた。
専門家の意見も取り込みマスコミで反論を繰り広げた。
郵政は立件しなかった。
しかし残念なことに、
小泉内閣で成立した信書便法案ではいまだに信書の判断は郵政当局が握っている。
【原体験】
寺田千代乃さんがお父上から聞かされていた言葉があります。
「男には一生に何度か決断が必要なチャンスが訪れる。
私はうまくつかめなかったがな」
【創業後の英断経営】
1.1972年 運送会社創業期の大ピンチ乗り越え
売上の7割を依存していた家主の不興を買い、
「3か月以内に出ていけ」と言われた。
その時、二人の働きぶりを見ていた近所のたばこ屋さんから
隣接地を借りることができた。
2.1973年 オイルショックの危機
営業努力をしていた立石電機から運搬の注文が1件来た。
これを契機に継続取引を獲得し、専用の箱型車両を購入した。
この箱型トラックが引っ越し業開始のきっかけとなった。
3.引っ越し専業の創業
当時の引っ越しは運送業者の片手間で、サービス精神は0であった。
そういう状況なので、
丁寧は引っ越しサービスは大きな需要があると判断した。
箱型トラックも武器になった。
4.社名と電話番号0123の獲得
社名のアートは電話番郷帳でトップに表示されることを狙った。
0123は覚えやすい番号は何か、から考えた。
この番号の獲得(譲り受け)に奔走した。
4.テレビCMの開始
1口3000万円であった。
清水の舞台から飛び込むつもりで賭けた。
これが成功した、
その後は専業として
次々とサービスを拡充強化していることはご承知のとおりです。
まとめ+アルファ
以上4人の方の事業成功要因を拝見しますと、
以下の共通点があることが分かります。
1)直感的判断により、
2)他人のやらないことを実施し、
3)成功している。
他人のやっていない新しいことをやるのですから、
これはいけるという直感によるしかないのです。
大事なことはその直感的判断が当たっていて
「成功している」ことです。
私が尊敬申しあげている名経営者はあと二人おられます。
お一人は、言わずと知れた永守重信日本電産会長です。
日本電産は、永守さんが一から育て
一兆円を超すグローバル企業にされたこと、
M&Aで50連勝以上されたこと、などが有名ですが、
私が特に評価しているのはこれです。
新入社員全員にトイレ掃除をさせました。
「現場を知れ、下層の仕事を知れ」という意図でした。
人がやらないことですね。
もうお一人は、SCSKの中井戸信英会長(当時)です。
氏は、残業削減と有休取得促進をトップ自ら先頭に立って
進められました。
「そんなことをしたら売上が減る」「お客様に迷惑がかかる」
などの反対を押し切ったのです。
結果は、売上は反って増え、
お客様からのクレームもなかったのです。
大英断です。
その結果を見て他社も追随するところが出ました。
これが10年近く前のことです。
現在盛んになっている「働き方改革」の先駆者です。
そこで、参考までに、私も自分の会社について
分析してみました。
私のはっきりした「原体験」はありませんが(これが問題!)、
「何事も必死で考えれば答えは出てくる(やればできる)」
と思っています。
前身の会社を含み、1億円以上の売上を上げているのは4サービスで
以下の状況です。
システム企画研修社(前身含む)の主要サービス状況
サ―ビス名 |
説明 |
開発・実施年 |
参画社または参画者 |
お客様数 |
売上 |
1.MIND-SA |
システム企画の方法論と研修 |
1984開始、2002無償公開 |
営業と講師、延べ約20人 |
約250社 |
約15億円 |
2.MIND-VIP |
部長が責任を持ち半年で改善成果を実現する支援プログラム |
1993-継続中 |
開発 1社、講師2人 |
15社41回 |
約2.5億円 |
3.超プロマネ養成研修 |
本格的プロマネ養成コース。 企業内研修も実施 |
1999-2010 |
2社+講師5人 |
85社・429人 +3社企業内研修実施 |
約2億円 |
4.ISトップフォーラム |
情報サービス業の社長様対象の研究会 |
1997-2010 |
開発1社講師多数 |
56社77人 |
約1億円 |
この4事業はすべて「他人のやらないこと」には該当しています。
1億円以上の売上は、当社としては成功です。
1番目の条件である「直感的判断により」は、あいまいです。
1.のMIND-SAは、
その直前にS社の要請でその原型を開発したものが
ベースになっています。
そこでの研修実施結果を見て
「これは他でもいけるのではないか」は直感です。
2.のMIND-VIPは、
その直前にR社社長から「次期を担う幹部の強化をしてほしい」
というご要求に応えて実施した研修が原型になっています。
これもその実施硬貨を見て
「他でもいける」という判断をしています。
なおこのプログラムは、当社の売上は2.5億円ですが、
1社で10数億円の改善利益を上げられたお客様もあります。
3.の超プロマネ養成研修は、
エンジニアリング会社出身のM社社長と、
「この業界のプロマネ力が低い」
という談義をしている中から生まれたものです。
両社の数人でどういう研修が必要かを検討しました。
4.ISトップフォーラムは、
MIND-SAユーザ会活動の延長で考案したもので、
類似研究会はありましたが「メンバは社長だけで代理出席は不可」
としたことが成功要因と思います。
ここでの各社社長様との緊密な信頼関係が、
その後の事業展開に大きく貢献しました。
この研究会構想は直感ではありません。
ということからすると、
いずれも純粋な「直感的判断により」は成立していません。
当社では主要サービスだけでも以下の数の開発をしています。
方法論・手法:17
研究会:4
研修:10 他にも20-30種あります。
その他:2
合計:33
上記成功の4サービスを除くと、
そのほとんどは
「直感的判断」で「他人のやらないこと」を構想しているのですが、
残念ながら「成功して」いません。
成功要因が不足しているのです。
成功例を見ると、すべてその背景を持って生まれています。
ということが今さらながらよく分かりました。
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