2021年6月25日金曜日

日本でGAFAMを超えるビジネスはどうすれば生まれるのか!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 現在のITの世界は,GAFAMに席捲されています。
 そこで、GAFAMはどうして生まれたのかを分析し、
 これからの日本がGAFAMを超えるようになるには
 どうしたらよいかを検討してみましたので、
 その内容をご紹介いたします。
ねらい:
 日本はもう一度、その存在感を
世界にアピールしたいものです。
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このタイトルについて真剣に考えてみました。
経済産業省のある課にも提言しました。
そうしましたら、5月2日に当課長から次の返信をいただきました。
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システム企画研修株式会社 代表取締役社長 上野様、

先日はご丁寧に提言と著書をお送りいただき、有り難うございました。
連休中に勉強させていただきました。

デジタル化がMustとなる中で、デジタルを支える技術や産業の存在が、
経済や社会の基礎条件となっている。
デジタル産業を日本で活性化させる「目的・ねらい」が、
個別のビジネス論からインフラ論や国家論に大きく変化しつつある、
と考えております。

GAFAMの要素は日本には少ない。
一方で、日本には、過去の経験を教えていただける、
立派な先人が沢山おられます。
戦後から数十年で「Japan as No.1」まで持って行った
先人の気概と知恵に学ばせていただき、良き日本を実現できるよう、
精進してまいります。

メールでの御礼の非礼、お詫び申しあげます。
コロナのため、なかなか意見交換もやりにくい状況ではありますが、
引き続き、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
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これから、この提言をどう受け止めていただけるのか分かりませんが、
提言をした事実を記録するために、この項を設けました。
解説文としましては、若干こなれておりませんが、
ご容赦いただきたくお願いいたします。

なお、この内容は、経済産業省に提言した内容を若干修正しています。
(たとえば、当初は予算規模を数千万円としていましたが、
現案では数兆円になっています)
それと、文体が不統一です。
これは元のWORD文書をこのFacebookのエディタに移しますと、
どうしても体裁を同じにできない点があるのです。
(本当に腹が立ちました)これもご容赦ください。
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デジタル時代に「超GAFAM」を実現する方法の検討

1.なぜ日本でGAFAMが生まれないのか


まずは、GAFAMを分析してみました。
事実の確認後、
分析は、
日本で成功した経営者の「私の履歴書」で抽出した成功要因である
「素質」「原体験」「運」「逆境」の切り口を使いました。
(後掲【GAFAM創業者の分析】をご参照ください)。

その結果,GAFAMの創業経営者に共通して言えることは以下でした。

1.ユダヤ系・ムスリム・キューバ移民などマイノリティ民族系が多い。

これは広い意味での逆境である。

2.学業成績優秀であるか、知識人の家庭に育っている。

3.幼くしてコンピュータとの縁ができている。例外はジェフ・ベゾス?

4.有名大学に進学し大学在学中から事業を開始している。

  大学中退者も多い。

5.独自のIT関係事業を創業している。

6.やはり「運」も多少影響している。


これを若干言い換えるとこうなります。

1)勝ち残りを目指す民族の血を持っている。

2)優秀な素質を持った人材である。

3)幼少時のコンピュータとの縁にも支えられている。

4)若くから人生の成功を目指して活動している。

5)独自のIT関係事業を創業している。


この点について、一般的な日本の状況と対比してみました。

GAFAMの成功要因

日本の状況

1)勝ち残りを目指す民族の血を持っ  ている。

民族間の競争心は存在しない。

 階級組織間の競争意識もない。

2)優秀な素質を持った人材である。

○優秀な素質を持った人材は多い。

 島正博氏のような発明家やノーベル賞受賞者も多く存在する。

3)幼少時のコンピュータとの縁にも         支えられている。

○今まではあまりなかったが、現在および今後は誰でもコンピュータは身近になる。

4)若くから人生の成功を目指して創業している。

こういう文化がない。有名大学に入り、大手企業に就職することが多くの若者の志望である。

5)独自のIT関係事業を創業して   いる。

✖日本ではIT関係事業は、米国から持ってくることしか考えない。


この表については、こう解釈できます。

 

·         1)は前提条件で、どうにもなりません。

·         4)の背景にあるベンチャースピリットは、米国の「開拓者魂」の血をひいておりヨーロッパもかないません。

·         4)それに引き換え、現在の日本社会は安定指向で、夢にチャレンジする風土がありません。

·         5)IT関係の日本のビジネスは、システム開発ビジネスが中心であり、ここには創業者精神は育ちません。優秀な人材も集まっていません。

·         5)GAFAMは,IT関係ビジネスで成功していますが、それは時代が第3次産業革命の時代だったからです。これから,IT関係ビジネスの後追いをする必要はありません。これからの第4次産業革命のときには、その潮流に乗る事業が成功するのです。

 


2.ではどうすればよいのでしょうか。

1.これまでの日本社会一般の価値観はこうでした

  • 有名大学に入り、大手企業に就職することが多くの若者の志望」になってしまったのは、終戦10年以降に敗戦からの復活がほぼ終了して、平和安定指向の社会になったからです。
  • 基本的に農耕民族系であり、過去踏襲文化が底流にあることも影響しています。
  • 大多数の国民のその価値観を「変える」ことは、ほとんど不可能でしょう。


2.日本社会の新しい価値観をつくる

  • そこで、価値観を「変える」のではなく、新しい価値観をつくるのです。

  • 野球選手が活躍し有名になれば、野球を目指す少年が増えます。
  •  サッカー選手が活躍し有名になれば、サッカーを目指す少年が増えます。
  •  体操選手がオリンピックで活躍すれば、体操選手を目指す少女が増えます。
  •  YouTuberが稼ぎを上げると、YouTuberを目指す人が増えます。
  • 「鬼滅の刃」が大成功すると、漫画家を目指す少年・少女が増えているのではないでしょうか。

  • というように、新ビジネスの成功例をたくさん作れば、新ビジネス創業を目指す国民が増えるでしょう。
  • その成功物語が多くの国民に知られるようになれば、これまでの若者たち、その親たちの進路判断基準が変わります。
  • 日本にも多い優秀な人材が有名校志望ではなく、個性・適職を目指すようになるはずです。


3.国が新規性ある事業の創業支援制度を大々的につくる

·         国民の新しい価値観をつくるために、国が「新規性ある事業の創業支援制度」を大々的につくればよいのではないでしょうか。

·         予算としては、兆円規模を想定します。

·         コロナ対策で数兆円の予算を使っているのです。国の将来を賭けるのですから、そのくらいのことはすべきです。

·         この制度の対象審査では、成功の可能性よりも事業の新規性を重視します。

·         10に1つが成功すればよいと考えます。




4.その制度でどういう事業の創業を支援するか

·         GAFAMが実現したのは、

  基本的には個別のサービス提供(アプリケーション提供)ではなく、

  その基盤になるシステムや機器(インフラ)の提供です。

【GAFAMのビジネス対象】

企業

提供しているモノ

Apple 

マシン

Microsoft

OS,OAソフト

Google

情報検索機能(検索エンジンと検索用の情報収集)

Facebook

SNS(サービス対象は個人である)

Amazon

ECビジネス 必要なものの入手ができる。

AWS 法人の仕事に対する基盤提供である

 

·         これからは、第4次産業革命あるいはSociety5.0の時代です。

·         上記の第3次産業革命の成果である基盤技術をベースにして、人間の「生産」活動を直接支援する領域のデジタル化(AI,IoT化)が進展します。

·         そこでは、以下の領域でAIやIoTを活用して具体的な作業支援をするシステムの提供も必要であり有効ですが、その開発が楽に実現できる基盤システム(「メタシステム」)を提供する方が価値があり、そのビジネスは大発展すると思われます。

 【人間の生産活動のデジタル化方向】

  「こういうことができたらいいな」の実現です。

生産活動

デジタル化方向

1.作業(事務・肉体労働)

自動化(IT、ロボット)進展

2.点検

自動化(センサ、ロボット、AI)進展

3.分析

多数の論文・報告書の解析、難解文書の解読(AI)

4.ドキュメント作成

企画書・計画書・設計書・仕様書・設計図・報告書の作成支援(AI、関連情報検索)

5.対人関係業務

営業・教育・指導・診察・治療・介護・相談・カウンセリング・接客等の支援(AI、有効情報検索の絞り込みが決め手)

6.マネジメント業務

指示・統率・育成支援(部下情報を基に継続的に「経営書」的ガイド提供)

注:ロボットにはドローンを含む。

 

  • 1.2.の領域は、これまでも取り上げられておりその延長で進展します。

  •  3.の領域は、専門家の仕事です。初歩的な文章解析が始まった段階です。
  • 3.の一部ですが、現在は不可能と思われている現行のレガシーシステムを自動で新アーキテクチャに作り変えるということも、少し先でしょうが、AIの進歩でできるようになるのではないでしょうか。
  • これができれば、「2025年の崖」などという問題は過去の話」になります。

  • .~6.の領域は、これまで部分的にAI化が行われていますが、もう一歩踏み込んだ作業支援を行うようにするのです。その場の状況等を把握してその時点で適切な情報を提供することなどが期待されます。

  • 究極の自動化はまだまだで、最後は人間が頭で考えるだけで、安全にモノができたり、活動を助けてくれたりするようになるのでしょうが、そこへ行くまでに、人間の業務を助けられることがたくさんあります。

  • 「新規性ある事業の創業支援制度」では、上記3.から6.の基盤技術やシステムを開発する事業を支援の主対象にします。
  •   後掲【人間の生産活動のデジタル化方向の例示】をご参照ください。

  • 幸いなことにそれらの事業は、緻密な日本人が得意な領域である可能性があります。

 5.人間の生産活動のデジタル化方向の例示

前掲生産活動の

3.分析

多数の論文・報告書の解析、難解文書の解読

【文書の構造化・要約・論点の抽出等を行う】

  • 大量文書について、Google、J-STAGE、CiNii、Google Scholar、図書館情報などを、テーマ等に基づき検索する。絞り込んだ対象の文章を解析し、歩翻訳、内容の構造化、要約の作成、論点の抽出、等を行う。
  • 特定の1論文・1書籍について、同様の解析を行う。
  • システム内のプログラムソースについて、その解析・翻訳等を行う。
  • 部下からの報告について、継続的解析・要約作成・指導点の抽出等を行う。

 

前掲生産活動の

4.ドキュメント作成

企画書・計画書・設計書・仕様書・設計図・報告書の作成支援

【各種ドキュメント作成をAIが主導的に進める】

  • 初めに「何をつくる」かを担当が指定する。
  • 「何をつくる」をAIが受け止める。
  • 担当とAIのやり取りで完成させていく。
  • AIは適宜気を利かせて検索をして情報提供をする。
  • AIはこれまでの蓄積から「こうしたら?」とかのアドバイスも出す。

例は、

1)欲しい家の条件を詰めていき、家の設計図が作成される、

2)イベント企画の粗い条件をだんだん絞り込んでいって、

     イベントの企画書を完成させる。

3)部門の来期事業計画を、要求条件の指定に基づき作成する。 

     要求条件は粗いものからだんだんに追加していく。

4) 法案の原案作成も可能かもしれない。

 

前掲生産活動の

5.対人関係業務

営業・教育・指導・診察・治療・介護・相談・カウンセリング・接客等の支援

【対人対応時に、AIが有効なアドバイスを与える】

  • キーワード音声入力で、もしくは「状況」によって、AIが情報検索する。
  • それをARで表示する。「違う」とか「次」とかに対応してくれる。
  • 情報検索の絞り込みの知恵が決め手である
  • 本人の行動へのアドバイスもしてくれる、「少し休んだら?」とか。
  • 介護や接客はロボットの併用も必要である。

 

前掲生産活動の

6.マネジメント業務

指示・統率・育成支援

【マネジメント方法をガイドする「経営書」的内容を、状況に合わせて適時・的確に提示する】

  • 部下の条件を入力する。
  • システムが部下に関する情報を収集・蓄積・分析し、継続的にフォロする。

 システム内の情報の自動収集 

  部下からの相談情報

  部下のデスクワーク記録

  部下のウェアラブル(スマホ)GPS記録

  • 自分の気づき情報も入力する。
  • システムから適宜、部下に対する指導・フォロガイドが示される。

 


2021年6月24日木曜日

「北の宿から」から「天城越え」まで

【このテーマの目的・ねらい】
目的: 
 大女性歌手の演歌をなんとなく分析してみました。
 便乗して少し思い出話をしました。
ねらい:
 歌詞のメモとしてくださればと思います。
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別項で、小林亜星さんの追悼をした際に
「北の宿から」が私の心に「宿って」しまいました。
なぜか、北の延長で「津軽海峡冬景色」が登場し、
石川さゆりさん縁で「天城越え」が宿りました。
これらの曲は、紅白歌合戦でよく聴きました。

なんとなく、口ずさんでいるうちに、
その歌詞が気になり調べてみました。

いずれも「女ごころ」を女性歌手が歌った演歌ですが、
時代の変遷を感じました。
1970年代の「北の宿から」と「津軽海峡冬景色」は
未練を残している女性が身を引く「謙虚な」
「悲しい女性」の「物語り」です。

あなた  死んでもいいですか
「女ごころの 未練でしょう あなた恋しい北の宿」
「さよならあなた 私は帰ります」
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色
という悲しい言葉が出てきます。
そういう女性が男性の願望だったのでしょうか。

因みに、今回ご紹介している3曲の中で、
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
作詞家としての一番の名文句だと思われます。

それにしても、歌詞からすると、
1970年代の「冬の宿」には暖房も鏡もなかったようです。
今どきはそういう宿はありませんね。

その寒い部屋で、彼女はセーターを編んでいます。
私は「某彼女」に椅子のクッションを編んでもらいました。
50年過ぎた今も使っています。
今どき、編み物をする女性はいませんね。

因みに、両曲の作詞家阿久悠さんは、
2007年に70歳で亡くなっています。

青函連絡船は1988年まで運航していました。
1954年には、
台風による洞爺丸事故で千人以上が犠牲になりましたが、
青函連絡の代替案はないので、
その後も青函トンネルができるまで運航していたのです。

少年時代札幌に住んでいた私は、「本土」に来るために
何度か乗りました。
船底の3等船室には「息でくもる窓」はありませんでした。

その後、大学空手部時代の1950年代後半に、
北大での合宿のために同連絡船に乗りました。
その時には、
和道流空手の大塚博紀最高師範がお嬢様ともども同行されました。
お嬢様は上品な女性だったことが記憶にあります。
      その時の大塚師範とお嬢様

      その時の青函連絡船青森港

お嬢様は、その後どうされたのかと思っていました。
大塚師範のお孫さんが、大塚博紀三世を名乗っておられることからすると、
その母親であられるのかとも思います。

大塚師範は、1982年に89歳でお亡くなりになりました。
たいへんお世話になりました。
心からご冥福をお祈りいたします。

少し脱線しましたが、話を戻します。
1986年発売の「天城越え」になると、
本能に目覚めた奔放・情熱的な「強い女性」が登場します。
「誰かに盗られるくらいならあなたを殺していいですか」
何があっても もういいの
恨んでも 恨んでも 躯うらはら あなた山が燃える
というセリフが出てきます。
「強い」だけでなく、「怖い」かもしれません。


歌に出てくる天城山隧道。『伊豆の踊子』では、一人旅をしていた青年が、
旅の道中に見かけた旅芸人一座の娘に心を寄せ、このトンネルの脇にあった峠の茶屋で、
はじめてその娘と会話を持った場所として描かれた。

歌手の石川さゆりさんは、
「津軽海峡冬景色」の時が19歳、
「天城越え」の時が28歳です。
この間に結婚もされてますから、強い女性になられたのでしょう。

NHKの紅白歌合戦には、
1977年から2020年まで43回出場されています。
その間1983年に1回だけ欠場しています。
おそらくその時にお嬢さんを産まれたのでしょう。
毎年のように紅白を見ていたのですが、知りませんでした。

2007年の「津軽海峡冬景色」からは、
それと「天城越え」とを毎年交互に歌っています。
それまで、ほかの曲も歌っていたのですが、
視聴者の人気がよくなかったのでしょう。
石川さゆりと言えば、この2曲のどちらかを聞きたいのです。

2019年に紫綬褒章も受けておられますからすごい方ですね。

強い女性は「天城越え」の頃から始まったのでしょうか。
この歌の寿命が長いのは、
その後、バブル崩壊で男の立場が弱くなり、
女性が自己主張を強くするようになった面もありそうです。

別項でご紹介した、男の弱さを自嘲する「サラリーマン川柳」は、
1990年から始まっています。

YouTubeの再生回数をみると、前2曲は400万回台に対して
「天城越え」は1800万回です。
こちらの方が現代の感覚に合っているということなのでしょうか。

私は、この3曲の中では、
「津軽海峡冬景色」が最も心に響きますね。
皆さまはいかがですか?

以下に、3曲の歌詞すべてを掲載します。

北の宿から 1975年発売
      YouTube4,168,420 回再生(6/24)

阿久悠作詞 小林亜星作曲 歌:都はるみ

あなた変わりはないですか
日ごと寒さがつのります
着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿

吹雪まじりに汽車の音
すすり泣くよに聞こえます
お酒ならべてただひとり
涙唄など歌います
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿

あなた死んでもいいですか
胸がしんしん泣いてます
窓にうつして寝化粧を
しても心は晴れません
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿

 


津軽海峡冬景色 1977年発売  
      YouTube 4,370,287 回再生(6/24)

阿久悠作詞・三木たかし作曲 歌:石川さゆり

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)
海鳴(うみな)りだけを きいている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうな鴎(かもめ)見つめ
泣いていました
ああ 津軽海峡 冬景色

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が 指をさす
息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色

さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ 津軽海峡 冬景色

 


天城越え 1986年発売 
     17,902,170 回再生(6/24)

吉岡治作詞 弦哲也作曲 歌:石川さゆり

隠しきれない 移り香が
いつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗られる くらいなら
あなたを殺していいですか
寝乱れて 隠れ宿
九十九折り 浄蓮の滝
舞い上がり 揺れ堕ちる肩のむこうに
あなた山が燃える
何があっても もういいの
くらくら燃える 火をくぐり
あなたと越えたい 天城越え

口を開けば 別れると
刺さったまんまの 割れ硝子
ふたりで居たって 寒いけど
嘘でも抱かれりゃ あたたかい
わさび沢 隠れ径
小夜時雨 寒天橋
恨んでも 恨んでも 躯うらはら
あなた山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地を這って
あなたと越えたい 天城越え

走り水 迷い恋
風の群れ 天城隧道
恨んでも 恨んでも 躯うらはら
あなた山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地を這って
あなたと越えたい 天城越え


6/27追記

たまたま「北の宿から」と同じ1975年発売の似たような曲が
見つかりましたので、掲載しておきます。
こちらは、女性の気持ちを男性歌手が歌った変形です。
この女性も「旅」に出ます。

この中に登場する「大切な純情」は、
当時の男性の願望だったのかもしれませんが、
今やまったく死語ですね。

こうしてみると、
「天城越え」は演歌の中でまったくの型外れですね。

心のこり 1975年4月1日発売

なかにし礼作詞 中村泰士作曲 歌:細川たかし


私バカよね おバカさんよね
うしろ指 うしろ指 さされても
あなた一人に命をかけて
耐えてきたのよ 今日まで
秋風が吹く 港の町を
船が出てゆくように
私も旅に出るわ 明日の朝早く

私バカよね おバカさんよね
大切な 大切な 純情を
わるい人だと 知っていながら
上げてしまった あなたに
秋風の中 枯葉がひとつ
枝をはなれるように
私も旅に出るわ あてもないままに

私バカよね おバカさんよね
あきらめが あきらめが 悪いのね
一度はなれた 心は二度と
もどらないのよ もとには
秋風が吹く つめたい空に
鳥が飛び立つように
私も旅に出るわ 一人泣きながら



2021年6月22日火曜日

「忠犬タロー」はなぜ実現した?

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「忠犬ハチ公」を上回る「忠犬タロー」の物語をご紹介します。
 なぜそんなことになったのか、分析してみました。
ねらい:
 犬の忠誠心はすごいものですね。
  近所のワンちゃんを見直しましょう。
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「忠犬タロー」は、1981年に死ぬまで17年間、
飼い主を探しに毎日駅まで往復していたワンちゃんです。
私は最近この話を知りました。
忠犬ハチ公の主人求めが10年ですからそれを上回っている、
誠に涙ぐましい物語です。

2009年6月19日の朝日新聞DIJITALはこう伝えています。
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タローは石岡駅で誰を待っていたのだろう。
朝夕2回、決まって現れた。
待合室に座り、改札口を通る乗降客をじっと見ていた。
待ちくたびれると、同じ道をまた引き返していった。

茨城県石岡市立東小学校で飼われていた雑種犬。
1964(昭和39)年に、迷い込んできた。
しばらくして駅通いが始まった。

駅までは約2キロ。学校の正門を出て歩道橋を駆け上り、
車の多い国道6号を西へ向かう。横断歩道を渡って坂を下り、
交差点を右折、常磐線の踏切を渡ると駅が見えてくる。
赤と青を見分け、ちゃんと信号を守った。

先生や児童たちみんなに愛されていた。
たいていは職員室の教頭の机の下にいた。
登校時間になると、1年生の教室を順番に回る。
自分で戸を開けて入り、教室の隅で児童を見守った。
昼休みは校庭で「給食」。
好物のマーガリンと飲み残しの牛乳を子どもたちにもらった。

寄り道をして帰ることもあった。
駅前の定食屋とそば屋はなじみの店だ。
よく立ち寄ってはごちそうになった。
そんなときは帰りが夜7時を回った。

いまだったら、たちまち捕獲されて処分されるに違いない。
当時は高度成長期を迎え、人々が豊かになり始めた時代。
社会は寛容さを備えていた。

72年に校長として赴任した橋本千代寿さん(88)は、
タローとの8年間の思い出を大切にしている。
夏休みのある日、
「店の玄関にお宅の犬がいる」と駅前のスーパーから電話があった。
迎えに行くと、店内から流れてくる冷房の効いた風を受けて、
ちゃっかり涼んでいた。

「犬はつないでおいて下さい」と保健所に2度、注意された。
「黙認してほしい」と嘆願した。保健所長は黙っていた。

主人を思って駅へ通っていたというのが地元の見方だ。
「そう思うと不憫(ふびん)でね。
そんな犬を鎖でつないでおけますか」。
橋本さんは保健所の指導に背いたことをいまも後悔していない。

橋本さんが退職した翌81年の夏、タローは死んだ。
20歳近いとみられる。
全校生で追悼式をして土浦市内の寺に葬った。

晩年のタローは一日中、職員室で寝ていた。
しかし、時間になると起き上がり、学校を出て行った。
駅通いは動けなくなるまで続いたというから、
最後まで「主人」が現れることはなかったのだろう。
    ◇
「その犬は多分、45年前に迷子になった愛犬コロです」。
行方市で住宅設備会社を営む成島亮子さん(50)から連絡があった。

コロは63年に生後4カ月で家にやってきた。
当時、成島さんは5歳。
自宅から200メートルの鹿島鉄道(07年に廃線)
玉造町駅で電車に乗り、
幼稚園のある11駅目の石岡駅へ通っていた。

玉造町駅への送迎は、
家業の陶磁器店で忙しい両親に代わって、コロがしてくれた。
毎朝、一緒に電車に乗り込んできた。
成島さんが座席に着いて、頭をなでてやると、
電車を降りて引き返していった。
帰りは駅の待合所で待っていた。

翌64年のある朝、頭をなで忘れたのか、
コロは電車を降りずに、石岡駅まで付いてきてしまう。
「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれた。
犬を乗せたことを怒られると思って首を振った。
コロは追い払われた。それが最後になった。

ショックで熱を出し、10日間寝込んだ。
父の良昌さん(85)は石岡駅周辺へ6回も捜しに行った。
コロは教室をのぞきに3度、幼稚園に現れた。
だが、園が捕捉しそこねてしまい、その後の消息はつかめずにいた。

その年、1匹の犬が石岡東小に迷い込む。
しばらくして、朝夕の石岡駅通いを始めた。
一方、成島さんは翌年に卒園すると、
石岡駅を使うこともなくなり、その犬を見ていない。

茶色いオスの雑種、垂れた耳、剛毛。
それに同小創立50周年記念誌に載った犬の写真。
「タロー」と呼ばれたその犬こそ、コロに間違いないと、
成島さんと両親は確信している。

コロは81年の夏に死ぬまで石岡駅に通い続けた。
ずっと自分を捜していたと思うと、胸が痛む。
「あの時、駅員にウソさえつかなければ」。
45年間抱き続けてきた自責の念にさいなまれる。
もっと捜せばよかったと、改めて思う。
「でも、コロがみんなに愛されていたとわかり、
救われる思いがします」
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その後、2017年4月に、東小学校の校長をしておられた先生の発案で
タローの銅像が石岡駅前にできました。
そのことを伝えた2017年6月28日の日経新聞電子版の記事は
こうなっています。
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ハチ公にも負けない、けなげな犬の物語を後世に伝えたい――。
茨城県石岡市で、離れ離れになった飼い主の女の子を捜すため、
1981年に死ぬまで約17年間も駅に通い続けた「忠犬タロー」の銅像を、
市民による顕彰会が今春、市内のJR石岡駅前に設置した。
顕彰会は「銅像が市のシンボルとなり、
地域活性化につながれば」と願う。
JR石岡駅前に設置された「忠犬タロー」の銅像(茨城県石岡市)=共同

顕彰会によると、タローは茶色の雑種。
子犬だった64年、
別の町から石岡市の幼稚園に列車で通っていた
飼い主の女児と石岡駅ではぐれ、市立東小に迷い込んだ。
同小で飼われることになり、児童にかわいがられる一方、
毎日朝夕、約2キロ離れた駅に行き、女児を待った。

駅への往復は81年7月20日に死ぬ前日まで約17年間、欠かさなかった。
有名な東京・渋谷駅の忠犬ハチ公が主人の帰りを待ち続けた
10年間よりはるかに長い。

タローのけなげな生涯を物語として残そうと、
東小で校長を務めたことがある佐藤信夫さん(77)が歴代校長らに相談し、
2012年に顕彰会を設立。
銅像を作るため14年8月からインターネットなどで寄付を呼び掛けると、
全国から500万円以上が集まった。

4月にお目見えした銅像は高さ約80センチ。
市内の彫刻家平田寿一さん(72)が残っていた1枚の写真を基に、
優しく前を見つめる表情を再現した。
佐藤さんの提案で、銅像は、
タローのそばに子ども2人を配置し「みんなのタロー」と命名した。

佐藤さんは「誰にでも愛されたタローを広く知ってもらいたかった。
これから地域を発展させる存在になってほしい」と話している。
〔共同〕
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この物語には感動しました。
ですが持ち前の分析屋根性が沸いてきて、
「なぜ、行方不明になった時に
コロ(タロー)を見つけられなかったのだろう?」と考えてみました。

最近使用している「成功要因分析モデル」を使いました。
大きなことの成功要因は、
「目的意識」「判断力」「技術力」「運」の4つです。
このどれかが欠けていると成功しないというのが、
目下の私の考えです。

本件の場合は、こうでしょう。
コロを探そうという「目的意識」は、家族全員にあったと思われます。

「判断力」はどうでしょうか?
電車で遠くまで行ってしまったので、
コロは嗅覚を頼りに帰ってくることはできません。
「駅で待つという習性からすると、
はぐれてしまった石岡駅にやってくる」
と思わなかったのでしょうか。
父親は、その多忙の中で6回、石岡駅周辺に出かけています。
その際に、どこに行ってそうかという想定をどうしたのでしょうか。
判断力は万全とは言えないようです。

石岡駅周辺にいると考えたとしても、
「技術力」を広く解釈して、
目的を達成するための実現能力と考えると、
両親は子供の送り迎えをコロに頼まなければならないほど
多忙だったのです。
父親は、その多忙の中で6回、
石岡駅周辺に出かけるのが精一杯でした。
もう少し行っていれば会えたかもしれません。
「技術力」は若干不足していました。

それよりも、最大の欠落は「運」です。
彼女は、コロと行き違いになった後、10日間は寝込みましたが、
その後も幼稚園に通っていたのです。
その時に、コロに会わなかったというのは、
なんとも解せない「不運」です。
コロが彼女の通っていた幼稚園に、
3回顔を出したのに会えずじまいでした。
父親が6回も探しに行ったのに会わなかったのも不運です。
そのようなチャンスが10回以上あったのです。

10日間寝込んだ後は、彼女は幼稚園に行っていましたので
毎日会えるチャンスがあったのです。
こんなについていない人たちは珍しいですね。

結局こういうことになります。

成功要因

本件

目的意識

判断力

〇やや不足

技術力

〇やや不足


こうしてみると、以下のような見方も出てきました。
コロは、迷い込んだ東小学校の多くの職員・生徒に可愛がられた
幸せな一生を送りました。
これがコロの「運命」で、
元の飼い主に見つからない「運」があったのです。
毎日の駅通いは、気分転換・健康法だったのかもしれません。

美談を台無しにして申し訳ありませんが、
コロは幸せだったということになります。

2021年6月21日月曜日

「軍神」の成功要因を探る!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 死と隣り合わせの戦争において、数々の危機を乗り越えて
  生き延びた「軍神」の「成功要因」を探ってみます。
 ビジネスの成功要因と同じで、
  「目的意識」「遂行能力」「運」でした。
ねらい:
 「目的意識」が諸行の根源であることをご確認いただければと思います。
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2018年1月当ブログで、9回の特攻出撃命令を受けながら、
不死身だった驚くべき特攻兵の実話をご紹介しました。
上野則男のブログ: 「不死身の特攻兵」 (uenorio.blogspot.com)

今回、米本土爆撃を成し遂げた唯一の飛行士藤田信雄氏の自伝
「我が米本土爆撃」を読んでみました。

両書とも、
上層部の不当な命令に従わない、
まともな日本兵がいたことが示されているのです。
素晴らしいことです。

「我が米本土爆撃」は、こういうことでした。

昭和17年4月18日に、初の日本本土空襲で
東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸が
B25の爆撃を受けました。

その「お返し」に米本土爆撃が計画されたのです。
敵に気づかれにくい潜水艦を利用し、
その潜水艦に収容している組立式の飛行艇を使うのです。

このイラストの出典は、
「アメリカ大陸爆撃物語」絵と文:原俊郎 2004年公開、です。










25の諸元等

乗員数

94

全長

108.7m

全幅

9.3m

排水量

2584トン

速度

水上23.6ノット、水中8ノット

安全潜航深度

100m

水上航続距離

速度16ノットで14000海里

エンジン

ディーゼル12400馬力、電動モーター(潜水時)2000馬力

魚雷発射管

艦首に6

積載魚雷数

17

その他武装

14センチ砲1門、25ミリ機銃4、それに零式小型水上偵察機

25の完成日

19411015日、三菱神戸造船所にて

25の主な所属

横須賀、第6艦隊、第一潜水戦隊

零式小型水上偵察機のイメージ(あだ名が金魚)
全長8.5m、二人乗り。



実現したのは、
第1回が昭和17年9月9日、オレゴン州の山林に焼夷弾2発
第2回が敵がさらに警戒している9月27日にほぼ同じ場所です。
敵が厳重な警戒をしている中での高リスクの作業です。

この米本土攻撃は、「成功」はしましたが、
期待した大規模な山林火災は発生せずに、
米国に対して精神的ショックを与えただけに終わりました。
















それにしても、どうしてそんなことが実現でできたのでしょうか。
そこで、その成功要因を整理してみました。
「不死身の特攻兵」の成功要因と合わせてみました。

「軍神」

佐々木友次陸軍伍長

藤田信雄元海軍中尉

紹介書名

「不死身の特攻兵」

「我が米本土爆撃」

1,目的意識

「多くの敵艦を沈めることが目的である」と認識していた。「特攻を成功させる」ことを目的とする軍の認識とは不一致である。

この考えを通せたのは、佐々木伍長の上官である陸軍の特攻隊万朶隊隊長の岩本益臣のおかげである。

軍の考えは、まさに「手段の目的化」そのものである。

「防御体制の厚い米本土を爆撃して一矢を報いる」目的を上司と共有していた。

その目的からすると、危険でかつ戦争の国際規律に反する都市を攻撃する必要はなく、人の住んでいない森林を攻撃目標とした。

 

2.技術力

10回の出撃命令に対して、成功して帰還した場合が2回

 (それでも、上官は「なぜ帰って来たのか。今度は帰ってくるな」と言った)

操縦の難しい小型の艦上航空機(零式小型水上偵察機)での技術が認められ、初の米本土攻撃の任に指名された。

その航空機で何度も敵軍の攻撃をかわしている。

3.判断力

判断で引き返した場合が2回

 (上官には、「命が惜しいのか」と叱責された)

敵に爆音を捕捉されないための飛行方法を工夫している。

攻撃を完了して母艦に帰還する際にそれを見つけるための試行錯誤などを的確に行っている。

4.運

事故等で出撃不能または引き返した場合が6回、

昭和17年2月豪州偵察飛行の際、敵軍に発見されたが現地指令の優柔不断さによって攻撃を免れた。

昭和19年9月9日の米本土攻撃の直後に敵機3機の襲撃を受けたが被弾せずに済んだ。


この表の補足説明をいたします。

まずは、「目的意識」です。
目的意識からすべては始まります。

佐々木伍長が、目的は
「敵に被害を与えることであって、敵に突っ込むことではなかろう」
と考えたのは、まったくそのとおりです。

この考えを通せたのは上官である岩本益臣隊長のおかげです。
岩本隊長は、「特攻」に反対し、独断で九九双軽を改装して、
操縦士が手動で爆弾を投下できるようにしました。
岩本隊長は、幸か不幸か軍律違反に問われる前に
敵軍のグラマン攻撃で戦死されてしまいました。

この岩本隊長の断行がなければ、
いかな佐々木伍長でもあっさり特攻死するところでした。
この点も、佐々木伍長の「運」であったのかもしれません。

藤田中尉の方の目的は、軍の上官の意向によるものです。
上官に含まれる高松宮殿下のご意向も
大きかったのではないかと推察されます。

「敵に衝撃を与え一矢報いることが目的だから、
敵の迎撃により成功の可能性の低い都市部を攻撃する必要はない、
防御体制の弱い山林を狙おう」と考えたのです。
素晴らしい目的思考です。

目的意識が立派でも、その遂行能力が優れていなければ、
目的は達成できません。
遂行能力の一つは「技術力」です。
その点で、二人とも飛行機の操縦技術は抜群であったのです。

遂行能力の2番目は「判断力」です。
技術力がいくらあっても、それを活かす判断力が優れていなければ、
何によらず相手に勝つことはできません。
その点で、二人とも優れた判断力を示されています。

成功するためには、「運」がついていることも必要です。
日経新聞の「私の履歴書」に登場する「成功者」はほぼすべて、
実力だけでなく、運にも恵まれています。

このお二人もかなりの「運」に恵まれています。
「運」がなければ、お二人とも海の藻屑となっていました。

ということになりました。
ご関心ある方は、ぜひ、当書をお読みになってご確認ください。