2022年2月22日火曜日

石原慎太郎さんの死を悼む!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 石原慎太郎さんのご冥福をお祈りいたします。
 氏の生と死に対する考え方を確認していただきます。
ねらい:
 どのように生と死に向き合いましょうか?
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石原慎太郎さんは2月1日、89歳でこの世を終わられました。
(2月1日は、月もお隠れになっている朔月(新月)の日でした)
誠に残念なことです。心からご冥福をお祈りしたします。
石原さんは天才的スーパーマンでした。
敬愛の念を込めてさん付けで呼ばせていただきます。

石原さんのように右脳優位な芸術的才能を持っている人が、
どうして左脳能力も必要とする実務の世界で
成果を挙げることができたのだろうか?と思います。
ご承知のように、氏は、都知事を4期14年、国会議員を27年、
運輸大臣にもなっておられます。

そういう「両刀使い」の方は珍しいです。
2022年3月の日経新聞「私の履歴書」登場の宮田亮平氏も
芸術家としての才能をお持ちでありながら、
東京芸術大学の学長や文化庁長官をされています。

石原さんは、その両刀使いでもスケールが違いますね。
亡くなる直前まで執筆活動をしておられたというのですから、
「バケモノ」に近いですね。

おそらく、都知事のときには細かいマネジメントは行わず
(それは副知事たちに任せて)、
自分は直感でこれという方針を出されていたのでしょう。
直感は右脳の力です。
中小企業のための銀行を作れ(新銀行東京ができた)
などもその類でしょう。
残念ながら、その銀行は優れた指導者に恵まれなかったために、
都のお荷物となり、他の銀行に吸収合併されました。

そんな石原さんを偲んで以下の2書を読みました。
2冊とも、この2月10日に幻冬舎文庫から刊行されたものですが、
「死という最後の未来」は、2020年6月、
「老いてこそ生き甲斐」は、
2020年3月に原著は刊行されたものです。

おそらく幻冬舎が、文庫本としての出版の準備をしてあり、
石原さんが亡くなられたので「それいけ!」と
奥付の日付だけを直して出版したのだと思います。
しっかりしてますね。











前著は曽野綾子さん(石原さんの1歳上)との対談ですが、
死に対する考え方で二人は好対照です。
石原さんは、「まだまだやりたいことがあるから死にたくない」
という意見であるのに対して、曽野さんは
「そんなに頑張らず、あるがままを受け入れたらいいじゃないの」
という意見です。

第1章 他人の死と自分の死
第2章 「死」をどう捉えるか
第3章 「老い」に希望はあるのか

と分かれていますが、お二人のこれまでの人生経験の事実と
そこで感じたことを、延々と意見交換するのです。
当然ながら、お二人は「そういう面もあるのか」と受け止めますが、
基本的スタンスは平行線のままです。
それはそれでいいでしょう。読者が学べばいいのです。
幾つか抜粋でご紹介します。

その1
(石原)ジャンケレヴィッチっていう、
ソルボンヌ大学の倫理学担当教授が書いた「死」という本があって、
いつも机の上に置いてあるんです。
愛読書なんだけど、今のところこの本がいちばん死について詳しい。
あらゆる角度から分析していて面白いんです。
「死は人間にとっての最後の「未知」である。
老衰は死に向かっての生育だ」という一節があって、
僕はその示唆にいたく感激したんですよ。

上野注:別項「”不死”の講義」が死について徹底的に研究されています。

ただ、現実に自分の体の自由がきかなくなって衰え始めたら、
生育なんて暢気なことを言っていられないと感じ始めた。
老いの先には必ず死がある。だから正直、
今、非常に混乱し、狼狽しています。

(曾野)私はね、抗わないんです。
わからないものは、わからないまま死ぬのが、
人間的でいいだろうと思ってるから。
(石原)偉いですね。
僕は執着が強くてダメだな。まったく多情多恨の人生というか、
悔いもまだまだ山のようにある。

その2
(曽野)できれば死というものを、他人であれ自分自身であれ、
この世から去るべき時が来た、と淡々と捉えたい。
(石原)しかし、若くして死んでいった人たちなどは、
無念だろうと思いますね。
特攻隊のこともそうだが、病や、何か突然のことでこの世を去る、
理不尽というか、不条理というのか。
裕次郎だって、まだまだ若かった。

(曽野)その人にとって理不尽でない死なんてないかもしれませんね。
私は今日死んでも「理尽」だけれど。
私には子供の頃から聞いていた、
人間の一生は「永遠の前の一瞬」という言葉が、
いつも胸にあるのですよ。
よくても悪くても大したことはない、よくても喜ぶな、
悪くても深く悲しむな、生きていても有頂天になるな、
自分の一生は失敗だと思うな、
「永遠の前の一瞬」なんだから、と。

その3
(石原)僕が結婚して最初の子供を持った時、
(同居していた)親のおかげで助かったことがたくさんあるんですよ。
(その事例の説明省略)
(曽野)それこそ、昔の人の知恵ですね。
今どきのヘンな情報よりも役立ちます。

(石原)つくづく年寄りが蓄積してきた経験の大切さ、
尊さを思ったものですよ。
これは老いた親たちにとっても、
一つの生きがいになると思いますね。

日本の家族構成はほとんど核家族になっているでしょうが、
今、見直してもいいのではないでしょうか。
住宅事情や価値観の問題など多様なことはわかりますが、
老人を疎外していくかのような社会傾向は問題ですし、
老いの知恵を生かさないのは勿体ない。
(曽野)老いてこその知恵、というものがありますからね。

注:私も、かねてから3世代同居の賛同者です。(2012,5,6)

「老いてこそ生き甲斐」は、前著対談物の3か月前に刊行されたものです。
こちらは「邪魔」されることなく石原さんの自説が開陳されています。
第1章 「老い」の定義
第2章 親しい人間の死
第3章 長生きの是非
第4章 肉体的挑戦
第5章 執着の断絶
第6章 過去への郷愁
第7章 人生の配当
第8章 老いたる者の責任

どの章も石原さんの熱い思いが伝わってくる内容で、
お読みになりたいでしょう?
ここでは、第5章と第8章から一節ずつをご紹介します。

【執着の断絶】
人はよく物事についての執着をあきらめるのは
人生にとって役立つことだ、
などと言うが、私はそうは思いません。
それは一時の安息を与えてくれるかもしれないが、
所詮人生途中の道の中で立ち止まることでしかありません。
いや後退し、停滞することでしかありはしない。

時間の経過とともに人生は常に前に流れ進むものなのだから、
物事をあきらめ停滞することは一種の敗北でしかありはしません。
どんな些細な事柄でも
一歩二歩前を目指して進もうと努めるところに生き甲斐が生まれ、
いつも次の段階を目指し、
それへの到達を願い努めることで活力が保たれるのです。
散歩の距離を後わずか百メートル延ばそうとすることで
筋肉が刺激され、体力が増してもくる。
後もう一歩と努めることが人生を引き延ばすのです。

【老いたる者の責任】
世の中にはさまざまな別れがありますが、
男と女がある限り、その出会いと結びつきは人生の公理です。
(中略)
私は最近、女がらみで自分の老いをつくづく感じさせられました。
所は、京都の花街の先斗町で、ある人の招きでのお座敷でのことです。
主客の私と招き主の下正面に座った芸者を見て、
思わず息を吞みました。
今まであちこちの座敷でいろいろな芸者を見てきたが、
あんなに居住まいの良い綺麗な相手は見たことがなかった。
まさに固唾を吞みながら彼女に見入っていました。

そしてやがて宴会は終わったが、
気づいてみたら
私はついに彼女の名を質すことなく終わっていたのです。
そう気がついた時、私の体の中を何か薄ら寒い風がすうっと
吹いて過ぎるのを感じていました。
何でこの俺はあの素晴らしい女の名前も聞かずに終わってしまったのか
と、自分を咎めるように思い返していました。
あれは私の老いがもたらした抑制、
と言おうか、あきらめからきた抑制でしょう。

あの出来事を思い出すと、昔よく聞いた田畑義男の十八番、
落胆した剣の達人・平手造酒を歌った
「大利根月夜」の文句を思い出す。
「愚痴じゃなけれど、世が世であれば」と。

名前さえ聞けば、後で見番に聞いたら置き屋もわかるし、
後は1人でどこかの座敷に上がり
彼女を呼んで差しでデイトも出来たはずでした。
がしかし、私は彼女の名前も聞かずに終わり、
その余韻は未練というよりもっと索漠として、
どこか砂漠に独り取り残されたような気分でした。
つまり老いへの潜在的な自覚が私を引き止めたということでしょうか。

こう書きながら、私はあの出来事を自分がどう捉え、
どう納得しているのかが分かりません。
分かりたくもない。まだ未練はある。
あるがそれをどう捉えても、自分がどうもしないのは分かっている。
第一今さら一人で京都に出かけるのも億劫だ。
これが老い朽ちる崖っぷちの心境なのだろうか。
しかしそう悟ってあきらめることは、
自分にはとても許されない気もしてなりませんが。

(上野:その気持ちはたいへんよく分かります。
よくもそういうことを正直に書けるな、しかもたいへん上手な文章で、
さすがだと感心します)

性愛に関して男と女の立場は宿命的に異なっています。
女は50を過ぎると生理が止まり妊娠出産の能力を失いますが、
男は80過ぎて精液を保有していて相手を妊娠させる能力があります。
とはいっても高齢になれば性的な欲望や関心は誰しも減退しますが、
それでも異性への関心は保持されてはいます。
それがなくなったら生きている張りもなくなることでしょう。

私の後輩で老人ホームを舞台にした小説で
ある文学賞をとった者がいましたが、
彼に聞くと、どんなに高齢の老人たちでも
その施設に今までいた人よりも魅力的な老人が新規に入ってくると、
男も女もその異性の老人に殊更関心を示し、
新来者は大もてするそうな。

それは滑稽でも醜くもなく理の当然のことで、
人間に二つの性が備えられている限り、
人類の存続と繁栄のために当然かつ必要なことに違いない。
いくら老いても、老いた相手に関心を抱くことは
恥ずかしいことでも醜いことでもありはしません。
それは良い刺激にもなるし、ある種の生き甲斐にもつながります。

上野注:同感です。日本最高齢になられた田中カ子さんが
「お好きなものはなんですか?」という質問に対し
「そりゃあんた、オトコだよ」と言って
インタビュアを煙に巻いたという話があります。

この章ではこの後、老いたる者は、
短命の人に代わってその責務を果たすべきである
と例を挙げて主張されています。

そのように生に執着のあった石原さんの最期はどうだったのでしょう。
なんと言われたのか、分かっていません。
しかし、あるテレビ番組で石原良純さんはこう言っていました。

(死の3か月前に余命宣告を受けました)
ところが「医者に俺の何が分かるんだ」と思い、
最後はずっと怒ってたもんね、
「なんで俺が調子悪くて寝ていなくちゃいけないのかって」

あくまで生に強い執着のある石原さんらしいですね。
でも最後の最後の言葉を知りたいものです。

2022年2月21日月曜日

「日経・日経センター緊急提言」について

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 日本の医療の在り方についての緊急提言を確認します。
ねらい:
 これに限らず、
 「眠れる日本」(ユデガエル日本)は
 早く目覚めてほしいですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2月21日の日経新聞第1面トップに、
「日経・日経センター緊急提言」
保健医療 政府に指揮権を デジタルで危機に強く
という見出しの提言記事が載りました。

内容項目は以下のとおりです。






























主要な点は以下のとおりです。
1.全国の医療データを可視化せよ
2.医療イノベーションを行い
  治験の効率化や早期承認を実現せよ
3.コロナを普通の感染症扱いにせよ
4.病床確保のためのガバナンスを強化せよ
5.医療有事の司令塔を新設せよ
6.社会保障の負担・給付改革に着手せよ

これらはいずれも、これまで有識者たちがこうすべきである、
と言っていることで、目新しいことではありません。
分かっていてやっていないことなのです。
ということは、
これを断行できる体制を作ることが一番必要なことで、
提言は、「これらを実現するための強力な体制を作れ!」
ということであるべきだと思います。
それは岸田総理に向けた提言なのです。

日本の企業のDXが進まない、と言われる傍らで、
どんどん改革を進めている企業もあります。
それらの企業はトップが先陣を切っているのです。

私のこれまでの50年のコンサル経験でも、
改革は「トップの強いリーダシップ」によってのみ
実現しています。
トップにその気があれば、あらゆる対策を講じます。
その結果が、旧態依然の眠れる組織を動かすのです。

どちらかと言えば日和見の総理大臣に
この提言は届くでしょうか?
それでなければ、この提言は自己満足に過ぎない、
ということになります。
下手をすると、「当たり前のことではないか」
で終ってしまいます。
結果を見守りましょう。

2022年2月20日日曜日

「”不死”の講義」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「不死」についての人類の取り組みの研究書をご紹介します。
 これまでの不死への取り組みの4類型を知っていただきます。
ねらい:
 皆さまは死についてどうお考えですか?
 参考になさってください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このテーマ名は、
「ケンブリッジ大学・人気哲学者スティーブン・ケイブの「不死」の講義です」
という日経新聞読書欄の案内で購入した本の書名です。
 

本書の序にはこう書かれています。
これは、生と死、そして文明と人類の進歩についての本だ。
本書の目的は、以下の事実を示すことにある。
私たち人間は、他のあらゆる生き物同様、
果てしなく生を追求するよう駆り立てられているが、
生き物のうちで唯一、私たちだけが、その追求の過程で
目覚ましい文化を創出して瞠目すべき芸術品を生み出し、
豊かな宗教伝統を育み、
科学の物質的業績と知的業績を積み上げてきた。

そのすべては、
「不死」を手に入れるための四つの道をだどることを通して
成し遂げられてきた、というのが私の主張だ。
(上野:そうなんですか!)
本書の最終的な目的は、
これらの道のいずれかによって不死が実現しうるかを問い、
その答えが私たちの生き方に与える影響や意味合いについて
考えることにある。

「歴史は実例によって教授する哲学である」と、
古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスは書いた。
私の専門は哲学だが、
本書では歴史の実例も幅広く引き合いに出したし、
人類学から動物学に至る多くの学問分野や、
その間にあるものの見識も利用した。
(上野:著者の見識もスゴイものです)
専門外の領域へと分け入るときには、
そこでの統一見解におおむね従うよう心掛けた上で、
必要に応じて自分独自の主張を打ち出すこととした。

「不死」という壮大なテーマに対して包括的な主張を重ねるのが
不謹慎であることは承知している。
また、大昔から込み入った議論が続いているこのテーマについて、
端的に、そして簡潔に記すという目論見自体、
受け容れられないという方もいるかもしれない。
それでも、本書に刺激を受けて、
さまざまな知識の細道をさらにたどってくださる読者が
一人でもいることを願っている。

そのとおりです。
こんなテーマをどうやってさばくのだろうと思いますね。
引き続き、冒頭部分でこういう記述がされています。
これまでの「不死」の探求には4つの道があったというのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第1の道は、私たちの本能に直接端を発している。
他のあらゆる生き物と同じで、
私たちも死を避けようと懸命に努力する。
永遠にーー物理的に、この世でーー死を避けるという夢は、
不死のシナリオのうちでも最も基本的なものだ。
この最初の道は単に、「生き残りのシナリオ」と呼ぶことにする。
人は衰弱して死ぬという基本的事実を前にすると、
このシナリオには期待が持てそうになく、論外にさえ思える。

ところが、この考えは、じつに広く行き渡っている。
ほぼあらゆる文化に、老化と死を打ち負かす秘密を発見した賢者や
黄金時代の英雄や辺境の農民の伝説が見られる。
じつはこのシナリオは、若さと健康を保ち、少しばかり長く、
1年、2年、あるいは10年よけいに生きようとする
私たちの試みの延長にすぎない。

食糧の供給や都市を囲む城壁といった、
身体的欲求を満たして安全を守る文明の側面は、
この道筋を行く第1歩であり、医療と衛生がそれに続く。
だが大半の文明は、単なる長生きをはるかに凌ぐビジョンを見せる。

病気や衰弱を永久に打ち負かす「不死の薬」の存在をほのめかすのだ。
このビジョンは、道教のようなさまざまな宗教や、
聖杯崇拝のような秘教・秘術を支えてきたが、
今日ほど広まっている時代はかつてない。

「科学の進歩」という概念そのものが、
科学は寿命を果てしなく延ばせることを前提としており、
定評のある多数の科学者や科学技術者が、
程なく大幅に延びると考えている。
(上野意見:
ここでは、死を避ける「不死」と長生きが混同されています。
今や不死を期待する人はいなく、
「長生き」が期待されているのではないでしょうか)

だが、「生き残りのシナリオ」にすべてを賭けるという戦略は危うい。
これまでのところ、成功率ははなはだ心もとないからだ。
したがって、第2の道が代替策を提供してくれる。
それによれば、たとえ死が訪れても、やり直しが利くという。
これが「蘇りのシナリオ」で、
私たちは物理的に死ななければならないとはいえ、
生前に持っていたものと同じ身体で物理的に復活できるという信念だ。

蘇るという希望は、
単に生き永らえようとする試み程基本的なものではないにせよ、
やはり自然に根差している。

自然界は冬に死を迎えるものの、翌年には勢いも新たに蘇る様子を、
私たちは見慣れているからだ。
春になると世界中の何十億という人が、この死に対する生の勝利を、
人間も蘇るという見込みとあからさまに結びつけ、
復活祭のような祝祭で祝う。

信者の多くは気づいていないが、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3大一神教もみな、
中心的教義として、文字どおりの物理的な蘇りを信じている。
これらの宗教が初期に収めた成功は、この信念があればこそだった。

だが、これらの古代からの伝統に加えて、別の形態の蘇りも、
神よりテクノロジーを信頼したがる人びとの間で人気が高まっている。
たとえば、いつの日か治療を施されて生き返ることを期待し、
有償で遺体を凍結してもらう人体冷凍保存(クライオニクス)は、
テクノロジーによる蘇りの新たな路線だ。
テクノロジーが急速に発展するなか、
なおいっそうハイテクの蘇りの形態も提案されつつある。
自分をコンピューターにアップロードし、
それから新しい身体あるいはデジタルアバターにリロードする
可能性がその一例だ。

とはいえ、来世では、たとえデジタル形式であってさえも、
かつての身体を継承したがらない人もいる。
物質界はあまりに当てにならず、
永遠性を保証できないと思っているからだ。
したがって彼らは、何らかの霊的存在、
すなわち「霊魂」として生き延びることを夢見る。
これが第三の道だ。

現在、地球上の人の大多数が、、
自分には霊魂があると信じている。
実に、イギリス人の3分の2、
アメリカではそれよりもなお多くの割合の人が
霊魂の存在を信じているという。
この考えは、キリスト教では今や支配的な信念となっているだけでなく、
ヒンドゥー教や仏教をはじめ、他の宗教でも中核を成している。

この「霊魂のシナリオ」を信奉する人は、
「蘇りのシナリオ」の信奉者とは違い、
この世に物理的に蘇ることにおおむね見切りをつけ、
何かもっと霊的なものからなる未来を信じる。
先の二つほどには自然に根差してはいないものの、
この信念も直感から生じる。

夢や神秘体験の中で、人間は身体を抜け出る感覚を久しく抱いてきた。
昔から多くの人には、霊魂や心はそれが宿っている肉体から分離でき、
したがって、肉体なしに生き延びられるように思えたのだ。

霊魂の概念は東洋でも西洋でももてはやされてきたものの、
この概念にも疑いを抱く人はいた。物質志向の人の場合には、
特にそうだ。
そのような人でさえ、おそらく最も広く普及しているシナリオ、
すなわち第四の道である「遺産(レガシー)のシナリオ」には
慰めを見出すことができる。

この考えは、物理的な身体の存続も非物質的な霊魂も必要とせず、
その代わりに、
もっと間接的な形ーー名声や栄光、あるいは遺伝子といった形ーーで
未来まで存続することを主眼としている。
名声と不死の結びつきは、古代世界では広く見られたし、それ以後も、
ギリシャ神話の英雄アキレウスがトロイアの戦場で
長寿よりも永遠の栄光を選んだ例に、多くの人が倣ってきた。

文化には
生きとし生けるものには欠けている永続性と堅牢性が備わっており、
したがって、永遠の生は、
文化の領域に自らの居場所を求めたのに劣らず、
名を上げようと躍起になっているように見える。
文化の中に位置を占めようとする競争は、相変わらず熾烈だ。

多くの人は、名望だけでなく、より具体的なもの、
すなわち子孫まで後に残す。
私たちの遺伝子は不滅だと言われてきた。
まさに生命の起源にまで、はるか何十億年も遡れるし、
運がよければ、遠い未来にまで続いていくだろうからだ。

あるいは、一部の人が主張するように、私たちの遺産は、
地球上の生命の一環――
個々の人間が死んだ後も末永く生き続ける超個体、
いわゆる「ガイア」の一環ーーであったこと、
さらには、発展していく宇宙の一環でさえあったことかもしれない。

本文では、ここに記述されていることが
詳細・具体的に記述されています。
4つのシナリオをまとめるとこうなります。
1.生き残りのシナリオ(永遠の生命の探求)
2.蘇りのシナリオ(いずれ蘇る期待、諸宗教)
3.霊魂のシナリオ(霊魂が生き続ける)
4.遺産(レガシ)のシナリオ(不朽の名声、子孫を残す)

著者は、この4つのシナリオはどれもダメでしょう、
第5のシナリオはこれです、と言っています。
それを「知恵のシナリオ」と称しています。

しかし、
「死すべき運命を受け入れて、死の必然性と共に生きる道を見つける」
「死を恐れずに生きる」「楽しめるうちに楽しめ」
とかのことばが出てきますが、
はっきり説明(定義)していないのです。
この第5の道は不死そのものの実現ではないので、
わざとあいまいにしているのかもしれないと思ってしまいます。

でも、それを実現する「戦略」3点は明確に示しています。
1)「自分」に対する執着レベルを下げる
 他者に共感し、他者により広く関心を持って関与する。
2)「明日死んでも後悔しない」かつ
 「明日死ななくても後悔しない」道を選ぶ
 毎日を今日が人生最後の日となるかのように目いっぱい生きる。
3)「不可避の死」からの副産物に感謝の念を持つ
 「不可避の死」のおかげで
 生物・人類が発展してきたことを認識し感謝する。

結局のところ、不死は実現できないので、不死を期待せずに、
「生」を大事にしましょう、ということです。

四つの道の研究は迫力があり、たいへん参考になりますが、
この結論は当然のことで、それほど新味があるとは思えません。

そもそも、現代では「不死」を期待している人はいなく、
「長生き」しかも健康での長生きを望んでいるのではないでしょうか。
それは、孫の成長をみたいとか、その結婚式に参加したいとか、
自分が楽しんでいる趣味をもっとしていたい、
とかの目的意識があるからで、
無目的の長生きを期待している人はいるのでしょうか。
いわゆる生き甲斐のない人は「もういつ死んでもいい」
と思っているのではないかと思います。

それと、第4の道「遺産(レガシー)シナリオ」は
必ずしも「不死」願望からスタートしているわけではなく、
単純に自分の「遺産」(名声、子孫)を残したい
という願望なのではないでしょうか。
したがって、これは不死の第4の道ではなく、
著者の言う第5の道同様
不死願望に代わる願望と考えた方が良いように思えます。

皆さまはどうお考えですか?
このテーマに関心のある方は、
ぜひこの414頁の大著をご研究ください。


2022年2月17日木曜日

「なぜか うまくいく人の気遣い100の習慣」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「気遣い」のガイド本をご紹介します。
ねらい:
 素晴らしい著作物です。
 ぜひ現物をご覧ください。
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著者の藤本梨恵子梨恵子さんは、年齢不詳ですが、こういう方です。
 カラーと脳の心理学をミックスさせた手法で、より良いコミュニケーションを伝授するカラーセラピスト。 カラーを通してのモチベーションアップ、人との良好なコミュニケーション法など、実践的セミナーが好評。 自称「芸人になりたかったセラピスト」として、楽しくユーモアに溢れた話術も人気。




気遣いのような、誰にも身近なテーマについて、
これだけのことを書けるのは素晴らしい、どうやって習得したのだろう?
と感心しました。
本書の構成はこうなっています。
第1章 気遣いの基本 1~12
第2章 話し方、聞き方 13~27
第3章 職場・仕事 28~44
第4章 ちょっとした気遣い 45~60
第5章 気遣いの心得 61~77
第6章 利休7則 78~85
第7章 気遣いの高め方 86~100

これを分類するとこうなります。
方針・原則論 第1章
心得     第5章 第6章
上位心得   第7章
ガイド    第2章 第3章 第4章

私は、気遣いのようなことは、学んでできるものではない、
気がつくかどうか、気が利くかどうかは、
考えることではなく感じることだから
「ニブイ人」「KYな人」には、教えてもムダだと思っていました。

しかし本書を読んで、
「気遣い」は「気がつく」とは別のものだという面もあることが
分かりました。
特に、上記の「方針・原則」はまさにそうですし、
(例:「気遣いは相手のためではなく自分のため」)
心得も頭で理解することができるものです。
(例:「気遣いは出し惜しみ厳禁」
   「降らずとも雨の用意」
なるほどそうか、と思えば改善も可能でしょう。
しかし、ガイドの習得は、なかなか難しそうです。
(例:「『はい、でも』ゲームをしない」
   「相手が言いにくいことを察する」
   「謝れる人になる」

私のこの「ご説」の利用方法のお勧めはこうです。
読んで「そうか」で終わりではなく
上記、方針・原則⇒心得⇒ガイドの順に、一つか二つずつを書き出して
頭において生活をします。
それが体得できたら、次の二つに進みます。

終るには何年もかかるでしょう。
でも、そのくらいの覚悟でやらなければ、
気遣いはできるようになりませんね。
ベストセラーだと言いますが、
何人が多少なりとも習得できるのでしょうか?
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それはともかく、100項目は一つずつが素晴らしい内容で、
よくこれだけ上手に書けるな、と感心します。
100番目の内容をそのままご紹介します。  

100 最後の気遣い
私には父との記憶が2つしかありません。
一つは、2歳の頃、
飼っていた柴犬にお水を私と一緒にあげたときの背の高い父。
もう一つは、死の間際の記憶です。
2歳のときに両親が離婚して、父が兄を、母が私を引き取りました。

そして私が高校生のとき、死期が迫った父と再会しました。
父は癌におかされ、病室のベッドに横たわって点滴をしていました。
180センチ近い長身の父はガリガリに痩せ、おむつをしていました。
私が病室に入ると開口一番、父は
「俺に恨みつらみがあったら、何でも言って見ろ」と言いました。
そのとき私は、首を振りながら泣いてしまいました。
自分の病気の心配だけをすればいい状況で、
私のことを気にかけてくれたからです。

もしかしたら、本当は
「なぜ、お兄ちゃんだけ引き取って、私を引き取らなかったの?」
など、多少の恨みつらみはあったかもしれません。
でも、父が死の間際に私を気遣った一言で、
今まで抱いていた思いはすべて消えて、
何もかにも許せていました。
だから、私にはもう優しい父の記憶しかありません。

病床で父は、「水が飲みたい」と言っていました。
でも氷しか口に含ませることができませんでした。
治療の影響で、水を飲むとあとから吐いたり、
結局、患者自身が苦しくなるからです。
私が病室を訪れて数日後、父はこの世を去りました。

数十年後、私も癌に倒れました。
そのとき、
体に不調があるときに誰かを思いやることの難しさを痛感しました。
私の病室の隣のベッドの人は、
抗癌剤の治療でかなり苦しまれていました。
だから、お見舞いに来る家族にも、看護師さんにも、
当たり散らしていました。
病院の廊下をリハビリで歩くおばあちゃんにも
「うるさい!」と怒るほどでした。
でも、健康な細胞さえ攻撃する抗癌剤の治療で、
死ぬほど苦しんでいるのだから仕方ないと私は思いました。

だからこそ、父が病に冒され苦しい状態で私を気遣って見せたことが、
尊いことだと感じるのです。
私もこの世を去るときがきたら、
周りを気遣い、感謝して旅立ちたいと思っています。

上野:素晴らしい心構え(気遣い)ですね!!

2022年2月14日月曜日

「日本語の大疑問」「うつりゆく日本語をよむ」

[このテーマの目的・ねらい]
目的:
 「日本語」に関する「諸問題」をご研究いただきます。
 「国語研」とは何かを知っていただきます。
ねらい:
 この際、もう少し研究されますか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本語をテーマにした新書版の図書が相次いで刊行されました。
国立国語研究所編の「日本語の大疑問」は21年11月25日刊、
今野真二清泉女子大学教授著の「うつりゆく日本語をよむ」は
21年12月17日刊、です。

日本語にも関心のある私としては、さっそく読んでみました。
この2書は、「日本語」をテーマにしていますが、
ほとんど異なる視点です。ご研究いただければ幸甚です。









この帯の「日本語、緊急事態?!」は誇大な表現です(岩波新書ともあろうものが)。




Ⅰ、日本語の大疑問
前者は、「日本語の大疑問」とありますので、
現代の日本語に対する問題提起をする書かと思いますが
そうではありません。
国語研に寄せられた国民から寄せられた疑問・質問に
答えたものなのです。
本書の「おわりに」に田窪行則「国立国語研究所」所長が
こう書かれています。
この際、国語研を理解いたしましょう。

本書は、国立国語研究所(略称 国語研)に寄せられた
日本語に関する疑問・質問に国語研の関係者が答えたものです。
(中略)
まず、最初にお話ししておきたいのは、ここで示されているのは、
ことばの正誤に関する裁定ではないということです。
みなさん方の質問には「AとBのどちらが正しいのですか」
「最近の若い人はAのような間違ったことばづかいをしている。
直すように指導してほしい」などと
ことばの裁定を求めるものが散見されるのですが、
国語研はそのような「正しい」ことばの使い方を決めるところでは
ありません。

国語研は1948年に国立の研究所として設立されました。
当初の目的は「国語及び国民の言語生活の全般にわたり、
科学的総合的な調査研究を行う大規模な研究機関の設立」でした。
設立当初は、日本語の共通語化・標準化のための基礎的研究が
その目的の一つに入っており、したがって、
日本語の共通語化・標準化のための言語政策にかかわるような調査も
その業務の一つであり、
「正しい日本語」「あるべき日本語」を裁定するような機関
と誤解されることもあったかもしれません。

しかし、設立趣旨にもあるように、
あくまで国語研の設立目的は「科学的な基礎研究」であり、
国語に関する規範を設定することではありません。
国語研は、国立機関、独立法人とその形態を変えて、
2009年に大学共同利用機関法人人間文化研究機構に移管され、
大学に属する研究者と共同して、
大学で行えない大型の共同研究や共同調査を行っています。
したがって、現在は
国民の言語生活を豊かにするための基礎資料を調査・収集する
というより、言語に関わる基礎的な科学研究、および、
その成果に基づいた応用研究を行うのが主な業務となっています。
(中略、以下結語)
国語研は言語にかかわる科学的基礎研究がその本務ですが、
その成果は究極的には当初の設立目的である
「日本人の言語生活全般を豊かにする」ことにつながっており、
本書によって国語研の科学的研究の成果の一部を
みなさん方と共有できればと思います。

最後の部分は「目的・ねらい」の観点からすると
こういう解釈になります。
当初は「日本人の言語生活全般を豊かにする」こと自体を
「目的」にしました。
終戦直後の混乱状況では、そういう必要性があったと思われます。
しかし、その後の学校教育等によって、日本語の使用法も安定し、
「言語生活全般を豊かにする」ことは、
国民自体に任せてくれ、大丈夫だ、ということになりました。
それで一歩引きさがって
「豊かさ」につながる基礎研究をすることを「目的」にしました。
豊かさの実現は「ねらい」として、国民に任されたのです。

ではどういう基礎研究をしているのでしょうか。
「国民の言語使用と言語意識に関する全国調査」では
「なんでやねん」の関西弁などの言葉・いい方が
どの程度日本で普及しているかなどを調査しているようです。


関西弁が普及してきているのは
テレビのお笑い番組(特に明石家さんまさん)の影響
と思われますが、それが分かってどうするのでしょうね。

それはともかく、本書の構成はこうなっています。
第1章 どうも気になる最近の日本語
  例 若者ことばの「やばみ」や「うれしみ」の「み」は
    どこから来ているものですか
第2章 過剰か無礼か?敬語と接客ことばの謎
  例 店員さんから
    「確認させていただいてもよろしいですか?」
    なんて言われると、目が点になります。
    日本語の乱れでしょうか
第3章 世界のことばと日本のことば
  例 日本語は難しい言語ですか
第4章 どちらを選ぶ?迷う日本語
  例 「それから」「そして」「それで」がどう違うか、
    その違いを教えてください
第5章 便利で奇妙な外来語
  例 外来語をカタカナで書くのはいつから、
    どのように始まったのですか
第6章 歴史で読み解く日本語のフシギ
  例 むかしの落書きにはどんなことが書かれているのですか

日本語にいろいろなことが起きていることがよく分かります。
どんな解説があるのか、一つご紹介します。
「若者ことばの「やばみ」や「うれしみ」の「み」は
どこから来ているものですか」
以下本書の解説
「従来用法とはちがう「-み」の登場」
ご質問の「ーみ」は、
Twitterなどのインターネット上の交流サービスにおける
若者の投稿にしばしば見られる、
次の1)~4)のような使い方ですね。
1)今年の花粉は「やばみ」を感じる。
2)卒業が確定して、今ととても「うれしみ」が深い。
3)夜中だけどラーメン「食べたみ」ある。
4)その気持ち分かる分かる!「分かりみ」しかない。
中略
疑問1 
やばみ」「うれしみ」などの「み」はどこから来ているのか

文法的にみると、この「み」は、
主に形容詞の後について名詞を作る働きを持つ「接尾辞」
(あるいは「接尾語」)と呼ばれるものです。
形容詞に「み」を付けて作られる名詞には、
「うまみ」「(恨み)つらみ」「深み」などがあります。
これらは「み」の従来用法とでも言うべきもので、
辞書にも載っています。

一方、1)~4)では、
従来用法の「み」がつかないはずの形容詞「やばい」「嬉しい」や
形容詞型活用の助動詞「たい」、
動詞の「分かる」に「み」が付いています。

1)~3)の語は本来、「み」ではなく、
同じく名詞を作る接尾辞「さ」を付けて
「やばさ」「うれしさ」「食べたさ」のような形で
名詞化する必要がありました。

この「さ」は広くいろいろな語につく性質を持っていますが、
4)の「分かる」には付きません。
このように、
本来のルールでは付かない語に「み」を付けてしまったのが、
ご質問の「み」の新用法であり、
そこがなじみのなさの原因なのです。

疑問2 
なぜ「うれしい」「食べたいなどをわざわざ名詞化するのか。
疑問3 
名詞化するなら、なぜ「さ」ではなく「み」を使うのか。

「『ネタ』としての面白さを表現する逸脱的用法」
まず、疑問2については、名詞化が持つ婉曲性から説明することができます。
個人の感情や欲求は、そのまま言語化して表に出すと
生々しさや主張の強さを感じさせることがあります。
これに対し、「うれしい」のような感情をいったん名詞化し、
うれしみ(がある、が深い、を感じる)のように
分析的に表現することによって、
自分から距離を置いた形で、婉曲的に表現する効果が生まれます。

大人世代でも仕事の際に、
「この日程は厳しいものがあります」のように、
名詞「もの」や「ところ」を使った婉曲表現を用いる
ことがありますが、
若者はそれを接尾辞「み」で行っていると言えます。

次に疑問3は、一つには、
若者ことばで重視される面白さや新鮮さが
動機として考えられます。
従来使われてきた「さ」ではなく、
わざと逸脱的な表現「み」を使うことで、
冗談めかした「ネタ」として自分の感情や欲求を
見せることができる、ということです。

ただ、この「逸脱」の度合いは、日本語の文法ルールから見ると、
実はそれほど大きなものではありません。
接尾辞「さ」と「み」が作る名詞にはもともと性質の違いがある
とされているからです。

「さ」による名詞化は、
「その状態の程度」(例:勝利のうれしさは計り知れない)か、
「その状態である様子」(例:彼はうれしさ隠さなかった)という
単純な意味の名詞を作ります。

これに対して」「み」による名詞化は「甘み」(=甘い味)、
丸み(=丸い形)、かゆみ(=かゆいという感覚)といった
特別な意味を表す名詞を作ります。
このような「み」形は、「(具体的な)感覚」を表すとされます。
つまり、単なる名詞化ではなく、
実感を伴った名詞化であるといいうこと。
「さ」ではなく「み」が勢力を拡大した理由は、
このような点に求めることもできそうです。

なるほど、そういうことですか。納得できるご説明ですね。
しかも客観的な解説をしているだけで、その是非は論じていません。

Ⅱ.うつりゆく日本語をよむ
こちらは、日本語自体の変化に対する問題提起ではなく、
日本語の使い方に関する問題提起が主です。
序章 日本語のみかた
第1章 壊れた日本語
 1.比喩は成り立っているか
 2.先回りする表現-理を超えた情
 3.解凍できない圧縮
第2章 「私」の時代の書きことば
 1.思考の器としての言語
 2.他者の不在-「共有」から考える
 3.あるがままを認めてほしいー匿名の時代
第3章 ことばの変化をみる
 1.「打ちことば」の領域拡大
 2.「書きことば」の「話しことば」化
 3.「場」の変化-「話しことば」の現在
第4章 「書きことば」の復権
 1.双方向的なやりとり
 2.公性の意識
 3.リベラルアーツを学ぶ
 4.「よむ」しかない
終章 「私」を超えて
 1.コロナ下のことばをよむ
 2.「私」を超えたコミュニケーションのために
 3.日本語が「壊れる」前に

本書の「はじめに」にはこう書かれています。
(赤字表示は上野が付けました。後のコメントのためです)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本書のタイトルを「うつりゆく日本語をよむ」とした。
言語は時間の経過とともに必ず変化する。日本語も例外ではない。
「うつりゆく日本語をよむ」というタイトルは日本語の変化を観察する
ということを連想させるだろう。
そういう面はもちろんあるが、気分はもう少し切迫している。
それが副題の「ことばが壊れる前に」だ。
「ことばが壊れる」はもちろん日本語のことについてだから、
こちらは穏やかではない。
中略
ところで、2020年9月25日に文化庁が令和元(2019)年度の
「国語に関する世論調査」を発表した。
「今の国語は乱れていると思いますか。それとも乱れていないと思いますか」
という質問に
「非常に乱れていると思う」と答えた人が10.5%
「ある程度乱れていると思う」と答えた人が55.6%で
この二つを「乱れていると思う」とくくると、
そう思っている人が66.1%いることになる。

「あまり乱れていない」27.8%
「まったく乱れていない」2.4%の合計は30.2%であった。

平成14(2002)年度の調査では
「現在使われている言葉は乱れていると思いますか」という質問であったが、
「乱れていると思う」が80.4%、
「乱れていないと思う」が17.0%で、
平成14年度の時点で「乱れていると思う」と回答した人が
14ポイント以上多い。
「非常に乱れていると思う」も平成14年度の時点で13.9ポイント多い。

この数値は、
一見「じゃあ、令和元年度のほうが日本語がみだれていないんだ」
とみえるが、質問は「どう思うか」であるので
言語使用者がどう感じているかを聞いていることになる。
「どう感じているか」は感じなので「実態」とは異なることも当然ある。
筆者はこの数値は言語使用者が「実態」になれてきている
ことを示しているのではないかと思う。

現在の言語生活は多様化し、
後に述べるようなインターネット上の「打ちことば」を読む機会も多い。
そうした中で、さまざまな日本語にふれ、
「こうあるべきだ」という規範的な「心性」そのものが
緩やかになってきていることのあらわれであろうか。
しかしそうはいっても、70パーセントちかくの人が、
「共有」しているはずの日本語について
「乱れている」と思っていることになる。
中略
本書は現在の日本語が乱れているのでないですか、
という主張をしているようにみえるかもしれない。
しかし、それが述べたいことのすべてではなく、
やはりまずは「現在こうなっているのではないですか」
という筆者の観察を述べたいと思う。

「そういえばそうだ」と思っていただけた場合に、
「じゃあどうすればいいのだろう」という次の問いが生まれるだろうが、
それは日本語を使う人それぞれがそれぞれの立場、
考えに基づいて「どうするか」を考えていただければいいのだと思う。
「ぴえん」なんて語は認めないぞ、ということではまったくない
ということは一言述べておきたい。

日本語を観察し、分析する、そこまでが本書の役割で、
そこから先は日本語を使う人それぞれが決めること、
あるいは自然に決まっていくことだと考える。
本書では、「書きことばと話しことば」「表現の圧縮」「類推」「比喩」
などを観点として、できるだけ総合的に日本語の表現を捉え、
現在の日本語がどのような状況にあると思われるかについて冷静に、
穏やかに述べていきたいと思う。

そのとおり、多数の事象が紹介されていますが、
以下に、上野による厳しいコメントを述べさせていただきます。

【「はじめに」に対するコメント】
冒頭部分で「壊れる前に」という問題提起をしています。
かたや「本書ではまずは現状の観察をします」
どうするかはそれぞれが考えよ、と投げています。
そうなら「ことばが壊れる前に」
などと言う副題はつけないでほしいですね。
私から見ると、無責任な人文科学者の発言と思えます。

【筆者の観察ないしは問題提起】
これは、日本語のことばそのものの変化というより
そのことばの使い方が対象です。
その代表例がこれです。
これはたいへん興味深い指摘です。
しかし、あげつらうほどのことかな?とも思います。

1)比喩にならない比喩
 比喩は本来抽象的な事象を具体的な事象で例えることによって、
 抽象的な事象の理解を進めるというものであるに対して、
 以下の例は該当しない。
  孤独を守る心の殻。 孤独も心もどちらも抽象である。
  心が(棒のように)折れる。心は棒のように固いのか?
  心に刺さる。刺さってはまずいのではないか?
  骨太の心。心に骨はあるのか?
  メリーゴーランドのように「堂々巡り」。違わないか?

2)先回りする表現
 読者が「笑顔になれる」本を書くという、
 (観客やファンに)「勇気を与えたい」とスポーツ選手が言う。
 ニュース・報道番組にアナウンサーの思いが入る。
 (世界大会等で)「中国の壁が高い」は分かるが
 「打倒中国の壁」はおかしい。

3)解凍できない圧縮
 新聞記事の見出しで意味不明のものがある。
 「景気てこ入れ 総動員」 (何を総動員するのか?)
 「物価目標達成へ背水」 (背水の陣、だろう)
 「言葉に共感 向き合う人生」 (「人生に向き合う」であろう)
 「画面折りたたみスマホ 熱視線」 (熱い視線であろうに)

【書きことば、話しことば、打ちことば】
書きことばは、必ずしも特定の相手を対象としないために、
それなりの論理性や標準的表現法が存在する。
話しことばは、特定の相手が前提なのでその中での省略形で使われる。
その世界でどんどん変化していくことが自然に発生する。
書きことばが、話しことばの影響を受けて変化していく。
(筆者はこの変化を心配している)
書きことばが話しことばの影響を受けて変化している典型例が、
書名や記事見出しである。
旧来型の「○○の△△」の形から、話しことば系に変化してきている。
以下の例でも、「」の中に話しことばを入れている。













「打ちことば」は、メールやSNS等で使用されることばである
(おそらく筆者の命名)。
初めは、書きことばからスタートしたが、話しことば調に変化し、
絵文字の導入など一部打ちことば独自の発達もしている。
打ちことばが話しことばに影響を与えるという面も出てきている。
その影響が書きことばにまでおよぶということもある。

【マスメディア・テレビの責任】
テレビが、特殊な表現や言い回しを一般化することに「貢献」している。
日本語の「変化」を促進している。
「テレビという媒体が発信している「情報」全体がいわば、
(何でもありの)バラエティ番組化していないだろうか」とあります。

【「壊れる」とはどういうことか】
本書の章や項目見出しで「壊れる」ということばが出てきますが、
「壊れる」の定義はどこにも書かれていません。
内容をみると、言葉が担っている情報伝達機能が不十分な言葉遣いがある、
ということのようで、それが進むと「壊れる」という状態になることを
心配しているようです。
しかし、言葉は情報伝達の手段なのですから、
情報伝達ができない言葉が生き残るということは考えられません。
「壊れる」は、せいぜい感傷的な「昔の良き日本語が失われる」
ということを言っているような気がします。

【上野が意識している「壊れ」】
私は、むしろ「壊れている」のは、
以下のような、不整合的な見出しのつけ方です。
不整合は明らかに壊れているということです。
最近よく見かけます。
と、例示をしようとしたのですが、いざとなると見つかりません。
不整合ではなく、適切でないの例を以下に挙げます。
(不整合な例は見つかったら掲載します)

1)横表示の大見出し 英文有報「プライム」でも遅れ 
  縦表示の補助見出し 東証最上位、開示1割どまり
 (2022年1月23日 日経新聞)
 この「有報」とは何か分かりますか?有価証券報告書のことです。
 これは証券面ではなく、ビジネス面ですからね。先走りでしょう。

2)横表示の大見出し トヨタ、増産へ供給網備え 
  縦表示の補助見出し 部品大手、在庫増や値上げ受託
  (2022年2月10日 日経新聞)
 トヨタが主語です。
 したがって「部品大手」は「部品大手に対して」の意味かな?
 と思ってしまいます。なんか変だなと思います。
 これは、トヨタや部品大手「が」、在庫増や値上げ受託をしている、
 ということだったのです。

3)横表示の大見出し 休校・休園 収入減に苦悩 
  縦表示の補助見出し 保護者、育児で欠勤長引く
  (2022年2月10日 日経新聞)
  大きな見出しで、休校や休園でその事業者が収入減なのか、
  と一瞬思ってしまいます。
  記事を読むと、主語は「保護者」だと分かります。

4)横表示の大見出し 応援禁止 中国勢には歓声 
  縦表示の補助見出し 会場の招待客・ボランティア
  (2022年2月8日 日経新聞)
  大見出しでは、何を意味しているか分かりません。
  縦見出しでも「応援禁止」の意味が分かりません。
  「応援禁止なのに」中国勢には歓声、ということなのです。
  
これらの対策であれば簡単です。心配しなくても大丈夫です。
上司・先輩が指導をすればよいのです。
的確なマニュアルやチェックリストも作れると思います。

2022年2月12日土曜日

「年寄りは集まって住め」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 高齢時に幸福な人生が送れる方法を考えましょう。
ねらい:
 「若い」時から準備しましょう。
 ご関心ある方は、ぜひ本書をお読みください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本テーマは、川口雅裕 NPO法人「老いの工学研究所」理事長の
著書のご紹介です。















上掲の女性は、風吹ジュンさんで、ご推薦だそうです。
私も本書の基本趣旨は大賛成です。

本書の構成は以下のように多岐に亘っていますので、
私の判断で、適当なまとめをさせていただきました。
第1章 高齢者たちの姿や声に学ぶ
第2章 現代の高齢者たちは、どのような人たちか
第3章 高齢期の幸福について――健康、お金、親子関係・・・
第4章 高齢者が集まって暮らすことによる価値
終章  幸福な高齢期に向かって

【上野の本書まとめ】
1.高齢者に関わる調査結果
 2020年 65歳以上の人口3,763万人
       単身高齢者 737万人
       夫婦のみ高齢者 1,521万人
(1)一般社団法人日本老年学的評価研究機構の調査
  (日本全国20万人を対象にしている調査)
 1)11年間にわたる追跡調査で、
  「趣味の会やスポーツの会へまったく参加しない人」
    約30%死亡
  「週1回以上参加している人」
    約20%死亡
 2)「誰かと一緒に運動する」ことで
   抑うつ状態になる人の割合が下がる
 3)65歳以上の約2万人を対象にした調査
  「よく会う友人の種類の数が多いほど
   歯が多く残っている」

 4)自立高齢者を対象にした10年間の追跡調査
  「家族やそれ以外の相手からのサポートを
  受けられる状況にあった高齢者は、そうでない人よりも
  10年後の要介護リスクが10%以上減少していた。

 5)自立高齢者を対象にした5年間の追跡調査
  週3回以上交流の機会を持っていた高齢者は
  5年後に要介護認定を受けた割合は7.7%
  週2回以下の場合は14.0%

 6)これらの調査を統括した代表の近藤克則氏
  (千葉大学予防医学センター教授)の意見
  「どこに住んでいるか」によって
   健康寿命の平均値が大きく異なる」
  「周囲に人がたくさんいるところで、関りを持ちながら
   暮らしていくことが重要だ」
  「自然と出歩くようになり、
   人と会うような生活ができる街に住めば、
   健康でいられる可能性は高い」

(2)2018年神戸大学・同志社大学教授の共同研究
  (幸福感と自己決定―日本における実証研究)
  幸福感は「健康」「人間関係」に次いで
  「自己決定度」に影響を受ける。

(3)老いの工学研究所の2021年調査
高齢者は若い世代よりも同世代との交流を望んでおり、
その傾向は女性ほど顕著である。


 










交流の相手は「趣味の仲間」「近所の人」「子や孫」の順である。












 

2.健康長寿の指導原理
(1)幸福長寿の方程式(筆者提唱)

幸福長寿は、身体のみでなく、精神的・社会的に良い状態をいう。
安全な家の必要性
 「高齢者の事故の77%は家の中で起きている」
 2018年の消費者庁調査 家庭内事故の死者数
 (参考:交通事故死は2,600人)   
  転倒・転落 8,800人
  不慮の窒息 8,000人
  不慮の溺死および溺水 7,100人
  (体操の小野清子さんの例もそれに該当。
  98歳まで健康な1人暮らしをしていた私の祖母も
  自宅で骨折してから施設暮らしになってしまった)

(2)幸福の4因子(慶大前野隆司教授)
  1)やってみよう!(自己実現と成長)
  2)ありがとう!(つながりと感謝)
  3)なんとかなる!(前向きと楽)
  4)ありのままに!(独立とマイペース)

(3)デンマークで提唱された「高齢者福祉の3原則」
 これが本書全体の結論的指導原理でもあると思われます。
 さすがデンマークです。
 1)生活の継続性
   できる限り在宅でそれまでと変わらない暮らしができること
 2)自己決定の尊重
   高齢者自身が生き方や暮らし方を自分で決定し、
   周囲はその決定を尊重すること
 3)残存能力の活用
   本人ができることまで手助けするのは
   能力低下を招くのでしない。

3.老人ホーム・介護施設の問題点
 1)収容力に制約がある
  誰でもすぐに入れるわけではない。
 2)入所者の自由・自己決定権が制約される
  集団生活をするのでルールに従って
  (いいなりな)生活をしなければならない。
  (上野注:上記指導原理からしてこの点は致命的欠陥)
 3)施設の経営として介護度の高い方が収入になるので、
  入所者の健康を増進させようという動機付けが起きない。
      ⇓
  デンマークでは、1988年に「老人介護施設」の新設禁止となった。

  この点は、国の補助制度もある「サービス付き高齢者向け住宅」
  でも同じこと

4.筆者の勧める高齢者向け生活拠点の例 中楽坊
 1)分譲マンションである
  そこで暮らす高齢者の強い当事者意識や主体性がある。
  自治会がある。
  当然ながら自室にキッチンもあり、自立生活ができる。
 2)ライフアテンダントが常駐している
  余計な手出しはしない。
  「近くにいる娘や息子のような存在で、何かあれば手助けする」
  緊急時にも頼りになる。
 3)体操会やサークル活動なども行われている
  「仲間と一緒に楽しむ」風潮がある。
 4)中楽坊の状況
  ①「自由」だけど「自分勝手」ではない。
   一緒に旅行に行ったり、遊びに行ったりする仲間ができている。
  ②「人生の最後まで自立し、家で終わりを迎える」実現例
  ③「いいコミュニティは、高齢者に自信と勇気を与える」
   60代単身女性入居者の例 仲間を意識できて感激した例
  ④病院で亡くなった入所者の遺体をエントランスで見送った例
  ⑤コロナで故郷に戻れなかったライフアテンダントの成人式を
   入居者有志がしてあげた例。

【上野意見】
1月29日の日経新聞には以下の情報がありました。
1)福井・滋賀では60代に婚活支援をしている。
2)多くの自治体で、3世代同居の家づくり支援をしている。
  (上野大賛成)
3)江戸川区ではシニア単身女性向けシェアハウスが誕生している。

そこで私は、
このようなシェアハウスを作ったらよいと思っています。
1)1フロアに10室(LDK)×数フロアとする。
2)高齢単身者専用とする(男女不問)。
  日本の737万人が潜在的対象。
3)当然ながら、部屋への行き来は自由とする。
  男女の交流も期待する。

4)各フロアにゆったりした共有交流スペースを設ける。
  てんでに好きなことができるようにする。
  他のフロアの共有スペースに行ってもよい。
5)1階は家族や友人が訪問できる公開スペースとする。
  2階以上は通常のマンション等と同じ入居管理方式とする。

6)全体で利用できるゲートボール等のスペースも作る。
7)屋上に露天風呂ができればなおよい。
8)ここで亡くなる人がいても、
  お祓いをして次の入居者が気にならないようにする。

9)入居者のニーズ変化を想定し、
  できれば20年で建て替えができるような造りとする。
  (旧式マンションのゴーストタウン化の轍を踏まない)
10)国や自治体の補助も活用する。
11)室料は10万円程度を目標にする。

12)多数の入居者の状況を伝える動画(YOU TUBE等)を公開し、
  広告費(協賛金)を集め、入居者に還元する。
  入居者たちは、その資金をここでの生活の充実に使用する。
13)これが成功すれば、高齢者先進国日本の良きモデルとなる。
  
このような施設を、入居者の自立意識で運営するようにします。
前掲、中楽坊のようになれば理想的です。
何とか賃貸方式でできないものでしょうか。

2022年2月7日月曜日

「南極の氷に何が起きているか」

[このテーマの目的・ねらい]
目的:
 南極の氷が溶けつつあることとその影響について
  確認いただきます。
ねらい:
 まだ先のことと考えますか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本テーマは、杉山 慎 北大教授の
「南極の氷に何が起きているか 気候変動と氷床の科学」
(中公新書)のご紹介です。

自然科学書です。
たいへん興味深い内容でいっぺんに読んでしまいました。
以下の内容が記述されていました(順不同です)。
雑駁な要約です。ぜひ、本書でご確認ください。

1)毎年の残雪がどんどん積み重なって、やがて雪が氷になる。
  氷が十分に厚くなれば、自らの重みでゆっくりと流れ出す。
  これがいわゆる「氷河」である。
  南極氷床は、このような氷河の一種である。

2)南極氷床の面積は日本の約40倍で、
 氷の厚さは平均2千メートルで、
 場所によっては4千メートルを超える。

3)南極氷床が全て融けて海に流れ込めば、地球の「海水準」は
 約60メートル上昇する。

4)それによる日本への影響は、国土の17%を失う。
 5メートルだとしても以下のような地域が海面下になる。
 その面積は国土の3%に過ぎないが総人口の16%が生活している。 











5)氷床が融けて海に流れ込めば、海水の塩分濃度が低下して
 生態系に大きな変化を与え、気候変動にも影響を与える。

6)2021年に公開されたIPCC
 (国連の気候変動に関する政府間パネル)の報告書では、
 南極で失われる氷が主原因になって21世紀末までに
 海水準が2メートル近く上昇する可能性も否定できない、
 となっている。

7)実績としては、海水準の上昇は
 1900年から2018年までに18センチである。

8)近時(2004年~2010年)の海水準上昇原因は、
 温暖化の影響による山岳氷河の融解とグリーンランド氷床の融解が
 約4分の1ずつで、南極氷床の影響は約10%でしかない。

9)南極の氷の底は、陸部分の温度(零度より上)によって融けていて
 「氷底湖」となっている。巨大な氷底湖もある(250km×900m)。
 その影響は未知である。

10)氷床の周縁部は、氷が氷山から滑り落ちてきて 
 海に張り出している「棚氷」となっている。
 図:棚氷とは







 









図:棚氷の動き

図:棚氷の増減




図:棚氷の融けるメカニズム













11)南極氷床による「海水準」上昇原因は棚氷の減少による。

12)今のところの予測では、21世紀は南極の氷床融解による
 「海水準」上昇の影響は大きくないが
(内陸氷河・グリーンランドの融解の影響が大きい)
22世紀になると大きな変化が発生する可能性がある。























目下のところ、正確な予測は難しいが、
地球温暖化が影響を与えることは間違いなく、
人類は、温暖化防止に努力すべきである、
という筆者の主張がむすびです。

「生き物の死にざま」

[このテーマの目的・ねらい]
目的:
 多くの動物たちのそれぞれ「スゴイ!」「ユニークな」
 「最期」のあり方についてご関心を持っていただきます。
ねらい:
 ぜひ、本書のご一読をお勧めします。
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本テーマは、
稲垣栄洋静岡大学大学院農学研究科教授の著書のご紹介です。

これは理屈抜きで面白い、興味深い本です。
このような内容が書かれています。29が最後です。
2.子に身を捧ぐ生涯 ハサミムシ
3.母なる川で循環していく命 サケ
4.子を思い命がけの侵入と脱出 アカイエカ
6.メスに食われながらも交尾をやめないオス カマキリ
8.メスに寄生し、放精後はメスに吸収されるオス 
                 チョウチンアンコウ
9.生涯一度きりの交接と子への愛 タコ
15.餌にたどりつくまでの長く危険な道のり アリ
16.卵を産めなくなった女王アリの最期 シロアリ
27.ヒトを必要としたオオカミの子孫の今 イヌ
28.かつては神とされた獣たちの終焉 二ホンオオカミ
29.死を悼む動物なのか ゾウ

この中から一つだけですが、タコの部をご紹介します。
ご覧のように、文章も分かりやすく「お上手」なのです。
ぜひ、ご関心の向きは、ぜひ本書をお読みください。
文庫本で本体価格750円です。
(前略)
タコの寿命は明らかでないが、
1年から数年生きると考えられている。
そして、タコはその一生の最後に、一度だけ繁殖を行う。
タコにとって、繁殖は生涯最後にして最大のイベントなのである。

タコの繁殖はオスとメスとの出会いから始まる。
タコのオスはドラマチックに甘いムードでメスに求愛する。
しかし、複数のオスがメスに求愛してしまうこともある。
そのときは、メスをめぐってオスたちは激しく闘う。
(中略)
この戦いに勝利したオスは、あらためてメスに求愛し、
メスが受け入れるとカップルが成立するのである。
そして相思相愛の2匹のタコは、抱擁し合い、
生涯でたった1回の交接を行う。

タコたちは、その時間を慈しむように、その時間を惜しむかのように
ゆっくりとゆっくりと数時間をかけてその儀式を行う。
そして、儀式が終わると間もなく、オスは力尽き生涯を閉じてゆく。
交接が終わると命が終わるようにプログラムされているのである。
(上野疑問:交接できないオスはいつまでも生きているのだろうか?)

残されたメスには大切な仕事が残っている。
タコのメスは、岩の隙間などに卵を産みつける。
他の海の生き物であれば、これですべてがおしまいである。
しかし、タコのメスにとっては、
これから壮絶な子育てが待っている。

卵が無事にかええるまで、巣穴の中で卵を守り続けるのである。
卵が孵化するまでの期間は、マダコで1か月、
冷たい海に棲むミズダコでは、卵の発育が遅いため、
その期間は6か月から10か月にも及ぶと言われている。
これだけの長い間、メスは卵を守り続けるのである。

まさに母の愛と言うべきなのだろうか。
この間、メスは一切餌を獲ることもなく、
片時も離れずに卵を抱き続けるのである。

「少しくらい」と
わずかな時間であれば巣穴を離れてもよさそうなものだが、
タコの母親はそんなことはしない。
危険にあふれた海の中では一瞬の油断もゆるされないのだ。

もちろん、ただ、巣穴の中に留まるというだけではない。
母ダコは、ときどき卵をなでては、
卵についたゴミやカビを取り除き、
水を吹きかけては卵のまわりの澱んだ水を新鮮な水に替える。
こうして、卵に愛情を注ぎ続けるのである。

餌を口にしない母ダコは、次第に体力が衰えてくるが、
卵を狙う天敵は、常に母ダコの隙を狙っている。
また海の中で隠れ家になる岩場は貴重なので、
隠れ家を求めて巣穴を奪おうとする不届き者もいる。

中には、
産卵のために他のタコが巣穴を乗っ取ろうとすることもある。
そのたびに、母親は力を振り絞り、巣穴を守る。

次第に衰え、力尽きかけようとも、卵に危機が迫れば、
悠然と立ち向かうのである。
こうして月日が過ぎてゆく。

そして、ついにその日はやってくる。
卵から小さな赤ちゃんたちが生まれてくるのである。
母ダコは、卵にやさしく水を吹きかけて、
卵を破って子どもたちが外に出るのを助けるとも言われている。

卵を守り続けたメスのタコはもう泳ぐ力は残っていない。
足を動かす力さえもうない。
子どもたちの孵化を見届けると、
母ダコは安心したように横たわり、力尽きて死んでゆくのである。
これが、母ダコの最期である。
そしてこれが、母と子の別れの時なのである。

なんとも感激的な母の愛の行いですね!!
こういうことは、親から教わっているわけではないので、
遺伝的継承でしょうが、その仕掛けはどうなっているのでしょう。
不思議なことです。
他の動物たちの前掲の行為も同じく不思議なことです。

人間にはそのような遺伝的継承として何があるのか
考えさせられます。