2020年10月2日金曜日

血液型による思考特性差の物理仮説骨子

【このテーマの目的・ねらい】
目的
 私が作成しました「血液型による思考特性差の物理仮説骨子」
 をご紹介します。
ねらい
 この仮説の検証にご協力いただける方を募集いたします。
 ご協力いただける方には、別途作成しております
 「血液型による思考特性差の物理仮説詳細説明」をご説明いたします。
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血液型による思考特性差の物理仮説骨子

2006年 3月作成
2020年10月編集


別項の「血液型ABO因子による大脳作動特性に関する論理仮説」
を証明するための物理仮説の骨子は以下のとおりです。

仮説のストーリ

事実

仮説証明要件


1.ABO血液型の発生原因は赤血球の表面の抗原(糖脂質)の差である。

この抗原は、H抗原、A抗原、B抗原の3種類である。

 


〇 


 


2.赤血球は、状況によって赤血球集合(連銭)を形成する。

 1)流速(遅いとできやすい)、
 2)アルカリ性、
 3)適度の浸透圧、
 4)温度(低下すると低下)、
 5)陽イオン強度(プラス)、
 6)年齢、性、ホルモン、喫煙 (プラス)

 免疫グロブリンが連銭の形成に影響を与えていることは、愛媛大学生理学教室前田信治教授(当時)が1986年に 実験により確認している。

  「Effect of immunoglobulin preparations on the aggregation of human erythrocytesEuropean Journal of Clinical Investigation 16

 



 


3.赤血球表面の血液型抗原の糖脂質の差によって、連銭のでき方に差があるのではないか。 

 ガラクトース  
  B抗原の先端に2個、H抗原の先端に1個ついている(確認済み事実)。 連銭形成力を持っている(仮説)。

 Nアセチルガラクトサミン 
  A抗原の先端についている(確認済み事実)。連銭形成力を持っていない(仮説)。

 

 


要検証


4.連銭は電荷を持っているので、これが移動すれば磁場を形成する(フレミングの法則)。

 

 


要確認


5.磁場が形成されると、脳神経細胞内の電流(思考)に力を与え、電流が既存ルートでない方のシナプスに流れる(既存ルートから外れる。フレミングの法則の適用)

 

 


要確認


6.B抗原が連銭を発生させやすいとすると,B抗原が作用する思考は飛躍が起きやすいということになる。

 A抗原は連銭を発生させないので、A抗原が作用する思考は飛躍が起きにくい。 

 H抗原で連銭が発生する場合は、どうなるかは確認が必要である。

 

 


追認


追認 


要検証

 


血液型ABO因子による大脳作動特性に関する論理仮説

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 上野が作成しました
 「血液型ABO因子による大脳作動特性に関する論理仮説」
 をご紹介します。
ねらい:
 別項の「血液型による思考特性差の物理仮説骨子」もご参照いただき、
 その物理仮説の検証にご協力いただける方を募集いたします。
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血液型ABO因子による大脳作動特性に関する論理仮説

2000年1月作成 
2020年10月編集 
上野 則男 
 上野は、性格にABO式血液型の血液型特性があるのはなぜだろうか、
という点を研究しています。
しかしながら、血液型が性格に影響を与えるのは、
以下の図のようにさまざまな要因の一つと考えており、
決して「血液型のみで性格が決まる」と考えているのではないことを、
お断りしておきます。

因みに、
血液型と性格ないし思考特性・行動特性に関連性があるという事実については、
故能見正比古氏などが研究されており、私もその事実が存在すると考えています。

性格とか思考特性自体は、
測定しても血液型との関係の客観的証明とはなりにくく、反論もあります。
しかしながら、職業と血液型との関係の事実は、
その一部が「統計的に有意である」(つまり何らかの関係が認められる)
となっています。
たとえば、
通常は運動の名選手はO型、B型が多いのに相撲の横綱・大関はA型が多い、
有力政治家はO型が多い、などです。
(能見正比古「新・血液型人間学」)

私は「なぜそのような事実が存在するのか」を、探求してきました。
現在のところ、(注:2000年1月時点)
その根拠の論理的仮説を立てるところまできましたので、
それをここにご紹介します。
その先に、医・化学的仮説(物理仮説)が必要であり、
その仮説についても、8割がたでき上がったと考えています。

その物理仮説は、別項「血液型による思考特性差の物理仮説骨子」
に記載しています。
物理仮説が検証されますと、
この論理仮設も事実として認められることになります。

物理仮説の完成と検証をしてくださる科学者の方を探しています。
これができればノーベル賞級ではないかと思います。
有志の方は、ぜひご連絡ください。 ( ueno@newspt.co.jp ) 
 
 1.血液型ABO因子による大脳作動特性に関する論理的仮説の内容

仮説

仮説の内容

上野仮説1

ABO血液型思考特性は、A、B、Oの3因子で決定される。

ü  ABO血液型の差による思考特性の差は、表現型と言われるO型、A型、B型、AB型の4タイプで決まるのではなく、A、B、O の3因子で決定付けられる。

ü  各人はこの因子を一つまたは二つ持っており、二つ持っている人は二つの思考特性を持つ。

上野仮説2

ABO3因子の思考特性はこうなっている。

ü  ABO 3因子の大脳思考特性は、以下のとおりである。

1.A因子の大脳思考特性

ü  連続思考(大脳が連続処理をする)である。           

ü  その結果、表面に現れる思考・行動特性は、一般に言われているように次のようになる。

継続性・持続性、ステップ・バイ・ステップ、

段階的発展思考、堅実・着実、慎重、保守、

こだわり・固執、秩序重視

ü  基本的に、農耕民族適性である。

2.B因子の大脳思考特性

ü  飛躍思考(大脳が非連続処理をする)である。

ü  その結果、表面に現れる思考・行動特性は、一般に言われているように次のようになる。

アイデア性豊富、思いつき的、浮気性、

好奇心・探求心旺盛、自由・非拘束性指向

ü  基本的に、狩猟・採集民族適性である。

3.O因子の大脳思考特性

ü  (天然・自然)集中思考、動物本能指向である。

ü  その結果、表面に現れる思考・行動特性は、一般に言われているように次のようになる。

T字型集中、目的指向性大、割り切る、単純、

移り気、本能的、感情的、好悪峻別、勝負好き

ü  基本的に、ボス・親分向きである。

 

上野仮説3

個人の思考特性は3因子の組み合わせで決定される。

ü  個人の思考特性は、3個の因子の組み合わせで発現する。

ü  因子を1個しか持たない人は常に同じ思考特性を示す。

ü  2個の因子を持つ人は、2個の因子が混然一体となるのではなく、異なる因子が独立に作用する。すなわち、思考の瞬間をとってみると、3因子のいずれかが作用している。何らかのスイッチ機能で作動特性が切り替わるのである。

ü  どの因子が作用している時間が長いかで、A的だったり、B的だったり、O的だったりする 。

 

 

2.個人のABO血液型思考特性の具体的状況

個人の血液型

思考特性

OO型

ü  常にO因子が働き(天然・自然)集中思考、動物本能指向」である。

ü  集中する関心事は人により異なり、時間とともに変遷することもある。

AA型

ü  常にA因子が働き「連続思考」である。

ü  O因子を持っていないので、非天然・非自然 = 理性的、クールな面がある。

BB型

ü  常にB因子が働き「飛躍思考」である。

ü  O因子を持っていないので、非天然・非自然 = 理性的、クールな面がある。

AB型

ü  A因子とB因子が時により切り替り働く。

ü  状況により、A型思考になったりB型思考になったりする。そのウェートは人により異なる。

ü  B型で発想しA型で実現すると理想的。
しかしその切り替えは意識的にはできない。
好調だと良い切り替えパターンとなり、不調だと裏目になる。

ü  O因子を持っていないので、非天然・非自然 = 理性的、クールな面がある。

AO型

ü  A因子とO因子が時により切り替り働く。

ü  状況により、A型思考になったりO型思考になったりする(スイッチで切り替わる)。そのウェートは人により異なる。
通常はA型で、追いつめられたり、酔ってリラックスする(自然になる)とO型になる。

BO型

ü  B因子とO因子が時により切り替り働く。

ü  状況により、B型思考になったりO型思考になったりする(スイッチで切り替わる)。そのウェートは人により異なる。
通常はB型で、追いつめられたり、酔ってリラックスする(自然になる)とO型になる。。


   < 参考 >




 


2020年9月29日火曜日

「性からよむ江戸時代-生活の現場から」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 江戸時代の「性」に関する研究報告をご紹介します。
 性=生と死で、たいへん重いテーマです。
ねらい:
 現代の生活がかなり恵まれていることを再認識しましょう。
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本テーマとなっている著書は、
沢山美果子岡山大学大学院社会文化科学研究科客員研究員(69歳)が
書かれたものです。
沢山さんは「日本近世・近代女性史」の専門家です。


ユニークなテーマですから、
「はじめに」でその出版意図を確認しましょう。
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(前略)
女と男の性の営みは、
人類がいのちをつないでいくための根源的な営みである。
そして性の営みにも歴史がある。
本書が対象とするのは、徳川幕府が開かれていた江戸時代、
特にその後期の18世紀後半から19世紀前半の時代である。

江戸後期は、性の営みやいのちの問題を考えるとき、
大きな画期をなす時代だった。

この時代に、人々のいのちを守る基盤となる
「家」が民衆のなかにも成立する。
家を子孫に引き継ぐために、
子どもと子どもを産む女のいのちを守ろうとする意識が高まり、
医者や産婆が各地域に登場する。
(上野:そうだったのですね)

一方、家を維持するために、子どもの数を減らしたり、
出生間隔をあけたり、時には、堕胎、間引き、捨て子をする、
など少子化への志向が見られる。

幕府や藩は、人々の出生コントロールへの意思を取り締まり、
人口を増やすために、妊娠・出産を把握し、
堕胎・間引きを監視する仕組みを作った。
(上野:この措置は人道上の理由ではなかったのです)
そうした中で、これら生活に根ざした資料が各地に残された。

ところで、資料をもとに論じる歴史研究において、
人々が日々生活し、生きていくことの根底にある
「からだ」と「こころ」がテーマになったのは1990年代、
「性」がテーマになったのは
それよりさらに遅く2000年以降のことである。

江戸時代の性というと、
おそらく、浮世絵や春画、文学に描かれる性愛あるいは吉原屋遊女
というイメージを持たれるのでなないだろうか。

確かに、江戸時代の性についての今までの研究では、
それらの性風俗を扱ったものが多かった。
しかし、本書が対象とするのは、江戸時代の村や町に生きた、
普通の個人の日常生活の中での女と男の性の営みである。

また、主な手がかりとするのは、
家や村に残された文書群や日記といった文字資料である。
民衆の女と男は、歴史の表舞台に出ることはなく、
彼ら自身が記録を残すことは稀である。

だがきやと善次郎の言葉が残された文書は、掘り出されること、
発見されることを待っている資料があることを教えてくれる。
本書では、一人ひとりの女と男の性のレベルまで降りて、
それらの文書を読み解き、江戸時代の女と男の性生活や性知識を探る。

そのとき、生きていくための性の営みをめぐる
女と男のドラマが浮かび上がってくる。
そして一見、生物学的衝動のように見える
女と男の性の営みにも歴史があることが見えてくるであろう。

きやと善次郎は第2章の主人公である。
本書では、交わる、孕む、産む、堕ロス、間引く、
といった性の具体的局面に沿って探ってゆく。

第1章では、
 妻との交合を克明に記録した俳人の小林一茶の性意識を、
第3章では、
 一関藩の医師・千葉利安の診療記録に見る出産と堕胎の現実を、
第4章では、
 出雲の町人・太助の日記や遊女の検挙記録から、
 家の女と遊所との地続きの関係を見る。

それら個々の局面を重ね合わせてみたとき、
どのような江戸時代の性の全体像が浮かび上がるのだろう。
第5章では、その全体像を描き出すことに挑戦するとともに、
近代への見通しも示してみたい。

一人ひとりの女と男の性の営み、生殖、性愛をめぐる
具体的経験に焦点を当てる試みは、
現代に生きる私たち一人ひとりが持つ、
性をめぐる常識や通念を問い直す豊かな手がかりを
与えてくれることだろう。
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こうして説かれますと、「性」が興味本位の対象から、
客観的な研究対象として別物になっていくのです。

以下に、
「性」に関するテーマごとの本書の要点をまとめてみました。
実際の内容は、典型的人文科学書として、
詳細な生データが記述されています。
ご関心ある方は、本書をご参照ください。

1.性交
1)小林一茶の場合
 小林一茶は52歳で28歳の菊を妻に迎えた。
 一茶の日記では、結婚2年4か月後このように激しく交合している。
 文化13年8月
  8日晴 菊女帰る 夜5交合
  12日晴 夜3交合
  15日晴 3交
  16日晴 3交
  17日晴 墓詣 夜3交
  18日晴 夜3交
  19日晴 3交
  廿晴 3交
  廿Ⅰ晴 4交
 この年4月14日に長男が誕生したが5月11日に生後8日で死亡している

 次の子作りに必死だったのであろう、
 しかしそれだけでもなかったようだ、と著者は推察しています。

2)貝原益軒の「養生訓」
 好ましい(この位で慎め!)回数をこう述べていることが紹介されている。
 20代 4日に1回
 30代 8日に1回
 40代 16日に1回
 50代 20日に1回
 60代 1月に1回、または、精をとぢてもらさず
 当時は精液を漏らさないことが養生の基本と考えられていた。

3)少し脱線
 俗説で「九九の法則」というのがあります。
 20代は、29-18なので、10日に8回(ほぼ毎日)
 30代は、39-27なので、20日に7回
 40代は、49-36なので、30日に6回(大体週1)
 50代は、59-45なので、40日に5回
 60代は、69-54なので、50日に4回(10日に1回程度)
 
 貝原益軒のよりだいぶ多いのです。
 これが標準だと言われているのですが、酒の席などで話題にすると、
 ほとんどの人はそんなにしていないと言いました。

2.妊娠
 妊娠しやすい時期についての認識はあったようです。
1)元禄5年(1692年)に初版本が出て江戸時代を通じて流布した
 「女重宝記大成」には、「月候(月経の兆候)すでに尽きんとする
 28・9時(日)が、子を孕むべき佳き時也」とある。
2)明和9年(1772年)の「神秘天命伝」には
 「すべて、子を身ごもるといふ、月水(月経)の後の、
 7日に、はらむものなれば、14日を過ぎてことを行えば、子なし」
 とある。

3.中絶・堕胎
 避妊の方法がなかった時代はどうしても、妊娠が多くなる。
 当時の食糧事情では多くの子どもを育てることはできなかった。
 そのためどうしても、堕胎の要求が強かった。

 幕府・各藩は、人口の減少を防ぐために、
 堕胎をとりしまる「赤子制道役」を農民の中に設けた。
 
 一関藩の狐禅寺村の文化7年(1810年)の
 「子供4人以上生育者書上」(赤子制動役の記録)によれば、
 この年、戸主156人、総人数800人の村で
 子どもが4人以上いる家は1軒もない、となっている。

 堕胎の方法は、服薬やごぼうなどの「さし薬」が
 巷で実行されている。

 産まれた後の子殺しも行われ、「戻す」「間引」と言われた。
 これらは取り締まられるので、
 「死胎(死産)」「半産(早産)」と偽っていた。

4.出産
 江戸後期の出産の10-15%が死産
 産後死と難産死は21歳ー50歳の女性の死因の25%以上

 出産は命がけの大仕事であった。
 江戸中期から、
 これを助ける医者(藩医、町医、在村医)が数多く養成された。
 
 産婆も多くいた。
 文化8年(1811年)から同14年までに、
 藩から褒賞を貰った一関城下の8人の産婆が取り上げた赤子は
 652人を数えた。

 難産は医者、通常分娩は産婆というすみわけが行われていた。

5.幼児の生存率
1)出生児の20%近くが1歳未満で死に、
  5歳までの幼児の死亡率は20-25%

2)小林一茶の子ども3男1女はすべて夭折している。
 長男 発育不全で生後8日亡
 長女 疱瘡のため1歳2か月で亡
 次男 生後96日で窒息死(母の不注意)
 三男 下痢による衰弱で1歳9か月で亡
 哀れなことです。
 
 母菊は7年間に4人の子どもを産んだが、
 結婚後9年の37歳で死んでいる。
 菊の死や子どもの病弱は、一茶から梅毒がうつったせいだという説もある、
 とのこと。

6.江戸時代の平均寿命
 18世紀は30代半ば
 19世紀は30代後半(出典は鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」)
 とあります。
 
 いろは出版刊の「寿命図鑑」によると、
 各年代の平均寿命はこうなっています。
 旧石器・縄文時代 15歳
 弥生時代     10代~20代
 飛鳥・奈良時代  28-33歳
 平安時代     30歳
 鎌倉時代     24歳
 室町時代     15歳
 安土桃山時代   30代
 江戸時代     32-44歳
 明治・大正時代  43-44歳

 80歳代になった現代とは大違いです。
 平均寿命が下がっている時代は、飢饉と疫病です。
 室町時代はなんと15歳だったのですね!!

7.性売買
 上野注:著者は「売春」「買春」という言葉を使わず、
 より客観的な性売買という言葉を使っています。

 江戸時代初頭、幕府は町人からの願い出を許可する形で、
 大都市の3か所の遊郭、吉原(江戸)、新町(大阪)、島原(京都)
 を公認した。

 その後、江戸後期には、半公認の遊郭=遊所が全国各地に広がり、
 天保期ごろには遊所の番付の印刷物が市販され、人気を呼んだ。
 番付表には全国201か所の遊所が記載されている。
 それ以外にも数多くの遊所が各地にあった。

 公認の遊所からは、幕府・藩は冥加金を取っていた。
 それに対し、「隠売女」(茶屋などで売春する女性)はかなり多く、
 公認の遊所の営業を危うくするということで、取り締まりが行われている。
 その取り締まりで検挙された女性たちは、公認の遊所に入札された。
 入札額の例では、
 最低が17歳女の2両2分、最高は25歳女の70両2匁である。

 この表は、著者が文献から整理した文政12年(1829年)から
 天保11年(1840年)までに検挙された127人の明細の一部です。
検挙された女性の年齢はこうなっています。
12歳・14歳の女性は「お手伝い」をしたので検挙されたのです。
15歳から20歳までが多く、最高齢は42歳(二人)です。
 よく知られている、遊所から逃げ出したがつかまり、
 厳しい折檻を受ける例も紹介されています。

 隠売女の料金の例では、
 客から2朱(500文)を取り、仲介者と本人が折半していた。
 小林一茶が利用した最下層の隠売女の夜鷹の場合は24文であったので、
 その20倍である。

 隠売女は、都市最下層の借家住まいの貧困家庭の娘が多く、
 養女に出された先で遊所に「奉公」に出されるという形も多かった。 
 
 生活苦の解決と男性の欲求解決が一致したビジネスであったのです。
 全般的に重い話で憂鬱になります。

まとめ
本書の提示している事実や意見をまとめてみます。

1.性に関する研究の歴史
歴史学においても、1980年代末に、
性の問題は人間という存在の根源に関わることが指摘され、
1990年代後半には、
日本近世史でも性や身体に関わる問題が取り上げられるようになる。

しかし性と社会や国家との関係を追究することが
歴史学の重要な課題であるとの提起が、
主な歴史学研究の機関紙でなされたのは、
ようやく2000年代になってのことである。

この記述を整理するとこうなります。

1980年代

性と社会の関係の研究の発端

1990年代

性と社会の関係の研究の出現

2000年代

性と社会の関係の研究の本格化


2.性の社会における位置づけの変遷
現代の部分は、
著者の主張は物足りないので上野意見として作成しました。

性の社会における位置づけ


近世

ü  厳しい生活環境の中で、祭のときなど比較的おおらかな性関係も存在した。

ü  民衆の女と男の性の営みは、人々の生きる砦である「家」を、夫婦がともに働いて維持しつないでいく生きる営みと、切り離せないものであった。


江戸時代後半

ü  性が家を母体として人口を維持する生殖のための手段として、幕府・藩から規範化された。

ü  それ以外の性は規範外となり、遊所が隆盛を極めた。


近代

ü  恋愛・婚姻・性・生殖の一致の規範化が進められた。婚姻内の夫婦の性を正当なものとし、「純潔」を重視する価値観が広められた。それにより、性売買、婚姻外の性交、婚姻前の性交への罪悪視を強めた。

ü  夫婦の性関係については、「男性主導」(女性は受け身という意識)となっていた。

ü  性は家庭の中に閉じ込められ、秘すべき事となった。したがって、一般で口に出すことはなく、研究対象にもならなかった。

ü  しかし一方で、女工など働く女性たちには、自由奔放な性の世界も存在した。


現代

(上野意見)

ü  性は秘すべきこと・抑えるべきことという建て前的意識が多くにあるが、「自由主義」の下に実態は「自由恋愛」の状態となっている。

ü  女性が要求することは恥ずかしいという意識で、自分の欲求を抑えている女性は満足を得ることができない、という状況を生み出している。こういう女性たちは機会があれば、不倫をする。

ü  女性を満足させることができない、性的に未熟な男性は自信をなくし性から逃げるようになる。「草食系男子」はその類である。

ü  性は、衣食住に並ぶ重要な生存要素である。これには相性があるので、相性の良い人と結ばれることが人生の満足につながる。その意味で婚前交渉を否定すべきではない。特に、女性だけに「純潔」を求めるのは論外である。

ü  性教育はこうあるべきと思う。「セックスは、人間の生活として非常に重要な行為である。したがって男女が共に満足することを目指すべきである。それには男女はどうしたらよいか、を教える」(中学3年に実施)


2020年9月26日土曜日

工藤秀憲氏「システムエンジニア奮戦記」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 工藤秀憲氏の新著をご紹介します。
 日本のシステム開発ビジネスの来し方が分かります。
ねらい:
 これからは、システム/ITの世界で
 日本の得意分野を作って行きたいですね。
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工藤秀憲氏は、
NECで事業本部長、
米国子会社社長などを務められたビジネスマンです。

ところが、由富 学というペンネームで「鮮光の虹」という
素晴らしい小説も出版されている「文武両道」の素晴らしい方なのです。
私のブログでもご紹介したことがあります。

上野則男のブログ2014.2.23
IT経営者が素晴らしい小説を発表!!」

私が、過去に工藤氏から教えていただき、
強烈な感銘を受けたことがあります。
それは、こうです。

米国ではシステム開発の請負契約はプログラム作成のごく一部でしか
行われない。
「仕様の決まっていない上流工程で請負をするなどは自殺行為である。
日本人はバカか」と米国の業界人に言われた、
ということです。

なるほど、それはそうだと思いました。
日本の発注側は、責任転嫁で
初めから請負契約で金額を確定したがります。
それだと、「こんな家を作って」というだけで
請負するようなものですからね。

その後、経済産業省のシステム開発における契約書ガイドでも
 要件定義は委任契約とすべき
 外部設計も委任契約が好ましい
となりました。

その工藤さんがご自分の自叙伝のような内容で書かれたのが、
当テーマ名の著書です。
多数の実名入りのため、これまでの出版社では出してもらえず、
Amazonからの出版となったそうです。

この内容は、
システムエンジニアの奮戦記といったような軽いものではなく、
NECのシステム開発ビジネスの、あるいはNECに限らない
生々しいシステム開発ビジネスの実態レポートです。

帯には、以下のようなサマリーが記載されています。
 味の素、日清製粉、帝人,DIS、よつ葉乳業、大和紡績、三共、
 丸善石油、協和発酵、メルシャン、タイ石油などの
 情報システム開発での苦難と人情の物語

 NEC西垣元社長、金杉元社長の改革と悲喜こもごもの思い出
 随所に散りばめられた情報システム開発のノウハウ
 熱血システムエンジニアが経験した歓喜と挫折

そのとおりなのですが、登場人物がほとんどすべて実名なのです。
そのため、開発プロジェクトで、あるいはビジネス運営で
誰がどう言ったかというような裏が分かり、
現実のビジネスとしての生々しさがよく伝わってきます。

私が知っている会社や存じ上げていた方が登場すると、
そうだったのか!と大変興味深く読ませていただきました。

本書は以下の構成です。
いずれも読んでみたくなりますね。

第1部 情報システム提案とシステム開発
 社会への旅立ちと技術蓄積--三共株式会社
 コンピュータ事業創業の試練--メルシャン株式会社
 味の素事件顛末記ーー味の素株式会社 
 
 痛恨の失注ーーエスビー食品株式会社 
 栄光と試練ーー株式会社日清製粉
 飛躍の発端となったプロジェクトーー丸善石油株式会社
 
 ハードとソフトの価格分離ーーサービス時代へ
 策士恐るべきーータイ石油公社
 因縁のコンピュータ導入始末記ーー協和発酵工業株式会社
 
 失敗プロジェクトの火消し--NECソフト出向
 PKG専任スタッフへの異動ーー西垣専務との出会い
   注:PKG=パッケージ
 乾坤一擲の賭けーーダイワボウ情報システム株式会社

 稀代の傑物との出会いーーよつ葉乳業株式会社
 関西文化との触れ合いーー大和紡績株式会社
 
第2部 情報システムの変革と企業経営
 米国企業との業務提携--OTを使ったPKG開発
   注;OT=オブジェクト指向技術
 新しいIT活用の潮流ーーネオダマとクラウド事業
   注;ネオダマ往時の流行り言葉
     ネットワーク、オープンシステム、ダウンサイジング。
     マルチベンダーまたはマルチメディア
 苦難のPROTEAN経営初導入ーー帝人株式会社

 民需統括とアウトソーシング事業ーー事業本部施策とBCP事業
 堅忍不抜の大改革ーー西垣社長の経営と薫陶
 生涯の恩師との顛末ーー金杉社長の経営

 NECソフトの活動と会社設立ーー金杉社長の恩情
 いたる所に青山ありーー経営者への道

この中から、その一部をご紹介します。
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【西垣の指示と実践】
西垣は、業務システム開発は客の言いなりになれば
規模と費用は限りなく増加する者だという本質をわきまえていて、
客の言いなりにはならなかった、

良い例が、血液検査で日本一の会社のシステム開発だった。
このシステム開発は、私が最も信頼するSEである鈴木真一課長が担当したが、
3度のやり直しとなった。
最初は、お客の要求する機能どおりに作成したが、
完成後現場に適用してみると機能不足で使用に耐えなかった。

(上野注:おそらくこの「お客の要求」は
現場をよく知らないシステム部門が作成したものだったのでしょう。
こういう齟齬は多くの企業で頻繁に発生しています)

2度目はIT部門が参加し、
豊富な機能を盛り込んだが現場の運用がついて行けず、
3度目の作り直しをすることになった。

(上野注:今度は理屈先行のシステム担当が
「理想的な」機能を考えたのでしょう。
それをそのまま受け入れたNEC担当は、残念ながら経験不足です)

この間、鈴木は粘り強く耐え、3度目にチャレンジしようとしていた。

この状態に、客先の常務はNECの指導力に疑いを持ち、
部長の私では話にならないと判断し、
西垣専務に直接面談を申し込んだ。
NECに詫びを求め、3度のシステム開発はNECの責任であることを
確認する目的のようであった。

西垣は突然のお客からのアポに、状況を確認するために私を呼んだ。
私は上記のシステム開発の状況と、
鈴木が信用できるSEであることを説明した。

その後,NEC本社で、西垣は先方の常務と面談した。
先方常務は
「弊社のシステム開発は3度のやり直しで大変困っています。
何とか対応をお願いしたい」と申し出た。

西垣は謝る様子も見せず、
「システム開発がうまくいかないのは
弊社だけの責任ではありません。
お客様が果たすべき役割をしっかり果たしていただかないと
うまくいかないのです」と即答した。

(上野注:そのとおりで、
失敗したシステム開発での訴訟が何度か起きていますが、
発注側の責任が追及されたこともままあります)

先方常務は、詫びを入れてくれると思っていた思惑が外れ、
返す言葉もなく沈黙した。
後は、プロジェクトの話にならず、そのまま帰っていった。

このように、西垣はお客であっても無条件に詫びることはなく、
是々非々で反論することを恐れなかった。
その後半年して、3回目のシステム開発は無事終了したが、
先方常務は他社に転職したことを私は鈴木から聞いた。
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巻末の「おわりに」で、
日本の進むべき道についての思いを披歴されています。

その一部は、菅内閣のデジタル対策で実現されようとしている
時宜に叶った的確な内容です。先見の明ですね。
全文ご紹介します。
        <おわりに>
本著の中で紹介した情報システム開発は思い出に残るものばかりで、
失敗の瀬戸際まで追い詰められ、
ぎりぎりで辛うじて成し遂げたプロジェクトが大部分である。

一方、順調に完成したプロジェクトはこの何十倍もあったが、
その内容や印象は殆ど記憶に残っていない。
その意味では、SEとは因果な商売だと思う。

残念ながら、日本のIT産業は業務の効率化が殆どで、
米国のイノベ-ティブなIT活用に比較して非常に遅れている。

日本人、日本企業は、目標が決まっていて
地道に努力すれば勝てる産業分野においては優位に事業展開できるが、
ITの様に変化が激しくスピードが決め手になる産業は、
米国の圧倒的に有利な状況が続いている。 

これは、
米国のIT産業はベンチャー企業がイノベーションを引き起こし、
日本では大企業、大組織が中心の事業だから、
変化への適応力やスピードが比較にならないほど遅いことに原因がある。

更に、米国のファンドを中心とした投資は、
金額の大きさや意思決定のスピードで日本を遥かに凌駕している。
日本的な逐次投入ではなく、
失敗を恐れず集中投資を仕掛けることを躊躇(ちゅうちょ)しない。

現在、日本企業は年間IT費用の80%を運用と保守に使っており、
米国のIT産業とは全く異質な産業になっている。

そのため、日本では
市場規模の大きいレガシーな業務システムの開発・保守・運用に携わる
SE、プログラマーが圧倒的に多い。

その影響もあって,日本のIT企業は
米国発のクラウド、AI、ビッグデータ、IoT等の潮流に乗り遅れないように
取り組んではいるが、全ての領域において後塵を拝している。
それは、日本が保守事業から抜け出せないことが、大きな理由の一つである。 

これまでの日本の業務システムは、お客特有の機能が豊富に組み込まれており、
このシンプル化が国や各企業にとって大きな課題である。
何故なら、この豊富な機能を理解しているSEが少なくなっているからである。

日本の業務機能が豊富な理由は、
業務機能の70%を占めるエラー処理・例外処理が緻密であることと、
管理帳票が多いことに原因がある。

業務機能を米国流にシンプル化するには、
顧客企業の発想の転換と、これを指導するSEの役割が重要である。

人材の流動が少ない日本では、
ベンダーSE、顧客企業SEという固定的な役割で生涯を過ごす人が多く、
IT業界の発展を大きく阻害している。

本来、IT業界はベンダーと顧客企業SEの人材の流動化が、
一番必要な業界である。

ITを通じた国、自治体の効率化も遅々として進まない。
国の投資は利用者目線で制度設計を行い、
真に国民のために役立つ利便性のある投資を期待したい。
そうすれば、殆ど活用されなかった住基ネットや、
未だに不徹底なマイナンバーカードの様な投資は避けられるはずである。

現在政府は、
マイナポイントによってカード保持者を増やそうとしているが、
カードは5年ごとに更新が必要であり、
継続的に持ち続けるかどうか疑問が残る。

1,800カ所ある地方自治体も個々にIT投資をするのではなく、
1~2カ所に統合して、コスト削減をする必要がある。
自治体毎の特異性は、工夫すれば直ぐに解消できる。

国や自治体の投資は、
民間企業では当たり前のコスパ(費用対効果)の観点を
強く意識してもらいたい。
日本の財政状況は、無駄なIT投資をする余裕などないのである。

現在のコロナ禍で日本のITは脆弱さを露呈しているが、
IT化に際して末端までの運用設計ができていないことが、
大きな原因である。

少子化が避けられない日本全体の人材有効活用の面からすれば、
国・地方自治体の制度仕組みを簡易化し、
平易な形で企業・個人が働き、生活できる環境づくりが必要である。
それによって、
優秀な人材がイノベーティブな仕事にシフトできるように、
人材の流動化を加速させる必要がある。

特に、税制については「公平、中立、シンプル」の原則が崩れ、
複雑化し過ぎて、個人・企業と税務署の手間が二重に掛かる
という弊害を生んでいる。

制度のシンプル化とIT化によって人材の流動が起きれば、
国際競争力は向上する。

更に、医療・介護の領域、農業の領域、物流の領域でも、
ITの活用によって、人材不足を補う手段を進めなければならない。

現在、コロナ禍によって働き方の変革が起きつつある。
「災い転じて福となす」の諺(ことわざ)の様に、
ITを使った新しい社会の形を築くチャンスである。

徳川時代の藩の分散化が日本の隅々まで繁栄をもたらしたように、
東京の一極集中を解消し、特色ある地方創造を実現したいものである。

以上述べた事を実現して行くためには、
SEはより一層のレベルアップが求められる。

働き方改革で70歳まで働く人は増えているが、
SEについて言えば、
「頑固で使いづらい」
「年齢差が大きくコミュニケーションを取りづらい」、
「生産性が低い」等、若者からの評判が甚だ宜しくない。
(出所:ユーオス・グループ関東支部)。 

SEに限らず、柔軟な思考と頭脳は
いつの時代、どの職業でも磨き続けなければならない。
そして、専門性を磨き、謙虚な心で若者に接しなければならない。

SEが評価され活躍できる社会が実現することを求めて止まない。        2

            2020年8月吉日 書斎にて

付言
システム企画研修社では、現在CATCHという適職診断システムを
大々的にお勧め中です。
工藤さんにその中の一般職業分の診断を受けていただきましたところ、
こういう結果となりました。
 1番が経営者は穏当なところですが、
 なんと2番が芸術系業務と出ました。
的確に芸術的才能を見抜いたのです。

CATCHの診断職種は、
この一般職業分以外の主なものに以下の二つがあります。
1)2030年以降も存続するシステム関係職種への適合性診断
2)現在一般に流布しているITSS職種への適合性診断

ご関心ある方は、以下にお問い合わせください。
-------------------------
 システム企画研修株式会社  代表取締役上野則男
  ueno@newspt.co.jp  http://www.newspt.co.jp
  Tel:080-1169-3667
  〒141-0022東京都品川区東五反田1-6-3
  いちご東五反田ビル3階 プレミアムオフィス327号
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2020年9月24日木曜日

「私の履歴書」は、創業期の苦労話が面白い!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 アートコーポレーションの寺田千代乃さんの「私の履歴書」を
 ご紹介します。
 創業期の苦労話に感銘を受けることを実感いただきます。
ねらい:
 「成功物語り」には、
 あるきっかけがあることを研究しましょう。
 (この続編を作成します)
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2020年9月の「私の履歴書」は、
アートコーポレーション名誉会長の寺田千代乃さんです。
この写真は21歳の若かりし、可愛い頃のものです。

寺田千代乃さんの経歴 「私の履歴書」から上野が作成

1947年

山本千代乃誕生

 現在73歳

1968年

寺田寿男氏と結婚

寺田運輸株式会社創業

従来勤務していた鋼材問屋の運送部門として。新婚の夫と二人で

この間

二人で努力して事業を伸ばした。

 

1972年

株式会社化

 

1973年

鋼材問屋から縁を切られる。

真の創業。

1973年

オイルショックでガソリン確保に奔走

 

 

この頃、立石電機と取引開始

コンテナ車導入

 

コンテナ車を活用して引っ越し事業を開始

 

1976年

アート引越センター創業

(「アート」は電話帳の初めに来る社名とするため命名)

「引っ越しは運送業ではなくサービス業」をモットーに。当時は引っ越し専業者はなかった。

 

0123の電話番号入手。

 

1977年

アート引越センター株式会社設立

社長に就任

 

「荷造りご無用」を開始

顧客目線サービスの始まり

 

テレビCM開始

3千万円の賭け。

 

東京進出

2回目の賭け。

1984年

売上高100億円達成。

 

1985年

社員450人がハワイ旅行

 

 

マツダ社員の米国への引っ越しを担当

海外進出

 

リモデリング事業、保育サービス事業など事業多角化

 

1990年

社名をアートコーポレーションに変更。

 

1992年

CS推進課設置(社内改革、現場重視復活)

 

1995年

売上300億円達成

 

2004年

東証・大証第2部上場、

 

2005年、

東証・大証第1部に指定替え

 

同年

認可外保育園パンプキン・ガーデン開設

 


他の方のもそうですが、出生から駆け出し時代の苦労話が
大変興味深く示唆に富んでいます。

後半は事業が軌道に乗った後のことになり、
苦労話のようで、自慢話になっています。
このあたりの苦労話は、ある意味で成功企業に共通のことであり
新鮮味があまりありません。

たいへん興味深い内容は、これらです。
1)引っ越し専業の創業
2)電話番号0123の獲得
3)テレビCMの開始
4)専業としてのサービス拡充

しかし、駆け出しの頃の苦労話はこういうことでした。
1973年のことです。
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仕事の7割を依存していた鋼材問屋から
「3か月以内に出ていけ」と言われ、途方に暮れた。
(上野注:出資の申し出でを断り怒りを買った)

移転先を探していると、幸いなことに、隣でたばこ屋を営む方から
問屋の隣地を借りることができた。
よくたばこを買いに来る寺田や従業員と話をする間柄で、
真面目に頑張っている様子を見てくれていたようだった。

小さなプレハブの事務所を建てて営業を始めた。
鋼材問屋のくびきから逃れ、この時、本当に創業した気分になった。
とはいえ、鋼材運搬の穴を埋めるのは容易ではない。
営業をしやすいよう、寺田は社長ではなく営業課長の名刺を作って
近辺の会社や商店などをくまなく回っていた。

細かな仕事を数多くこなしても売り上げはそれほど伸びなかった。
苦境に追い打ちをかけたのが
1973年10月の第4次中東戦争をきっかけに起きた石油ショックである。

トイレットペーパーが店頭から消え、社会にもパニックが広がったが、
運送事業者にはガソリンの需給逼迫が切実だった。
よく利用するガソリンスタンドは購入が割当制になった。
自社の備蓄施設があるわけでもなく、仕事に支障をきたす状況に陥った。

ガソリンを探し求め、私は妹と滋賀県の湖西地域まで出向いた。
都市部から離れた地域に行けばあるわけではないと思うが、
当時は必至だった。

ネットで何でも情報検索ができる現代と違い、
ほとんど情報がない中、自分なりに「ここに行けばあるのでは」
と見当をつけて動いていた。

会社の業績が厳しい中、
奈良市に購入した建売住宅を担保にして融資を受け、
妹からもお金を借りた。

鋼材問屋とは行き来がなくなっていたが、
トラックの出入りは見えるので、
寺田運輸の苦しい状況は分かっていたはずだ。

「寺田はもう潰れるやろ」とささやいているという話が耳に入ってきた。
両方の経理を見ていた会計士からも
「もう限界だろう。会社をたたむことを考えた方がいい」と忠告された。
苦境に置かれ、二人とも逆に闘志が沸いた。

活路は寺田が開拓した顧客の仕事にあった。
京都の大手電機機器メーカー、立石電機(後のオムロン)である。
同社の配送センターが東大阪市にあった。

従業員が出払っていないある日、
センターから荷物を運ぶ仕事の依頼が来た。
寺田に頼まれ、私が小型のバンを運転して持って行った。
幼い子供2人が車に乗っていた。

それを見た担当者から「子連れの女性に配送をされるのは困るよ」
とクレームが来たらしい。
急いで是非という依頼だから妻を使って無理に対応したのに、
と思った寺田と言い合いのようなやり取りになったようだ。

その後、オムロンから月決め専属の仕事を受注し、
専用のコンテナ車とドライバーを配置するようになった。
「箱車」と呼ぶこのコンテナ車の導入が、
後に引っ越し事業につながっていくことになる。

創業者の立石一真氏が東大阪の配送センターに来られた時に訪問し、
お話を伺ったことがある。
明治生まれの経営者の威厳を感じた。

大阪市のビジネス街、
御堂筋にある同社のオフィスに私が荷物を運んだ時には、
これがちゃんとした会社なんだと思った。
さっそうと行き交うビジネスマンやOL。
取引する会社といえば鋼材問屋くらいしか知らなかった私には
異世界のようにまぶしく見えた。
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これで分かることは、以下のことです。
1)まじめに仕事をしていると見ている人は見ている。
2)一所懸命奮闘すると活路を見出すことができる。
3)立石電機の仕事で箱車を使うようになったことが、
  後の引っ越し業につながる。
 ⇒「成功者には運がある」運をものにするのは才覚であるが。

後半の「あまり魅力的ではない」例は、第22回の以下の例です。
この例でも、
世のニーズを先端的にとらえたビジネスの紹介ではあるのですが、
「そうか」というレベルでしかありません。

淡々としていて、創業期の記述のような情が感じられませんね。
寺田さんは謙虚で「自慢話」という感じはしませんけれど。
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仕事をしている女性を応援する事業をいつしかしてみたい
と思っていた。
女性が社会で活躍していくうえでは、
働きやすい、子育てがしやすい環境が必要になる。

ニーズの高いのは子どもの面倒を見てくれる保育関連の事業だ。
引っ越し専業のアートにとってはかなり趣の異なる分野だが、
事業多角化で暮らし方を提案するという会社の方向性にも合っていた。

私の場合、子どもが幼い頃は家で仕事をしたり、
会社に連れて行ったりしていた。
当時、子どもを預けられる施設はほとんどなく、苦労した。
(中略)
核家族化が進み、親族に子育てを手伝ってもらえない人も多い。
少子化対策で
仕事と育児の両立向けた環境の整備が国の重要な政策になっていた。

事業化を検討し、2005年9月、
初の施設となる認可外保育園パンプキン・ガーデンを
大阪市内に開いた。

その頃、社員向けに自前で保育施設を設ける企業が増えていた。
が、そこまでできる企業は少ない。
オフィスで働く人が利用しやすいよう、
通勤時に立ち寄りやすい駅前や
都心部のビルなどに順次開設していく計画を立てた。

保育がそれほど収益が上がる事業でないことは分かっていた。
最初は開設数を追求するのではなく、地道に手堅くやって、
赤字にならなければいいくらいの気持ちだった。

間もなく意識が変わった。
少ない施設を社会貢献の一環のような感覚で運営しても
発展性がない、
設備も人も充実させて利用者から評価される
運営ができるようにする、
そうした環境づくりのための投資ができる収益を上げる、
企業でも保育を担えることを示すビジネスモデルを作っていきたい、
と思うようになった。

そのため、開設施設の拡充にかじをきった。
07年に当時の介護大手コムスンの保育事業運営会社を買収し、
10年9月には自社保育事業と統合して
子会社アートチャイルドケアが保育事業を担う形にした。

認可保育所に加え、
病院や企業など事業所内の保育所が多いのが特徴だ。
保育事業を始めてから発達障害の子どもの多さに気づき、
そうした兆候のある子ども向けの児童発達支援施設も増やしている。
(中略)
民間企業の保育事業にはもうけ優先では、
という見方がどうしても出る。
会議や視察の際、私は園長や保育士の方に、
収益の数字を気にしないでと伝えている。
いい保育を続けていれば、結果はついてくると考えているためだ。
数字を気にするのは園の経営をマネジメントする側だ。
(後略)
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