2024年3月19日火曜日

奥村弘一郎氏の死を悼む!!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「会者定離』と言いますが誠に残念!
 「大」学友の死を悼みその功績を記します。
ねらい:
 ご冥福をお祈りするばかりです。
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奥村弘一郎氏は、数年前に
原因不明の動物タンパクアレルギー症になられてから、
体調をくずしておられました。
私は毎日、神様に「早く恢復しますように」とお祈りしていたのですが、
なんとこの3月2日に他界されてしまいました。
青天の霹靂、残念でなりません。

1. 学生時代

私は1956年から、奥村弘一郎氏と東大空手部でご一緒しました。
2年になった時に、彼は駒場のキャプテンになりました
(全体のキャプテンは本郷の学生です)。
キャプテンは先輩が決めるのですが、腕がよく人望もないとダメです。

腕(空手の昇級試験成績)は1番ではありませんでしたが、
人望があり面倒見がよいということで選ばれたと思います。
面倒見の良さは、あとあとずっと続いていました。

自己紹介のときには、多くのメンバが出身高校を自慢するのですが、
彼も「名門大手前高校出身」と言って自慢していました。
高校の1年後輩にAD君がいて
「ダイサン、ダイサン」と可愛がっていました。

こういうことを思い出します。
駒場寮の時代に、映画「OK牧場の決闘」が公開され大人気でした。
主役が、バート・ランカスターとカークダグラスだったのですが、
その真似事をして楽しんだりしました。
カークダグラス演じるドク・ホリディ役が奥村兄で、
「カークオクムラス」と称していました。
今にして思えば医師役ということは、
その後の人生を暗示していたのですね。

明るく社交的な彼は、
「こんにちは」のご挨拶に相手の「股間掴み」をするのです。
相手は「うわー」とビックリするのですが、
これですっかりお友達になってしまいます。
このご挨拶は、かなり晩年まで続けていました。

就職時代

1960年に経済学部を卒業、京都の日新電機に入社しました。
ゼミの脇村義太郎先生の推薦で「あそこの社長になれるぞ」
と言われて入ったと言っていました。

1964年 歯科医のお子様である満利子さんと結婚されました。
このご縁で、歯科医ビジネスに関心と問題意識を持たれたと思います。
そして日新電機の「社長の芽」を振って退職されました。

1966年 国立東京医科歯科大学を受験し一発で合格、
入学しました。
学士入学の制度はありませんので、
6年間かけてアルバイトをしながら通学されました。
奥様にもずい分ご心配・ご負担をおかけしたと思われます。

1972年に無事卒業されました。

相前後しますが、お子様3人に恵まれました。
彼は、長女の円(まどか)さんをずい分可愛がっていました。
次女の環(たまき)さんともども歯科医になられたのは、
大満足だったでしょう。

3.歯科ビジネス

1972年8月、36歳で奥村歯科を開業。
ほぼ卒業と同時ですから、在学中から準備をされていたことでしょう。

実は、東大卒の歯科医は歴代2人しかいないのだそうです。
先日、大学のOB会で、
もう一人が1982年農学部卒のS氏だということが分かりました。
今度奥村兄に会ったらそのことを聞いてみようと思っていましたが、
叶わぬこととなってしまいました。
S氏は理系の学部ですが、奥村兄は文系の卒業ですから、
理系の勉強はたいへんだったと思われます。

彼は、当然ながら、1歯科医の開業が目標ではありませんでした。
「東急線の沿線各駅に同一コンセプトの医院を作る」
と豪語していました。
同一コンセプトは一言で言えば、
「真にお客様の立場に立った治療を行う」ということです。

そのコンセプトには、
今は当然のようになったインフォームドコンセントの徹底、
その中には、安いが治療成果は高くない方法と、
料金は高いが治療成果も高い方法を提示して、相手に選択させる、
ことも含んでいました。

私が聞いた話では、
「患者」と言わずに「お客様」と言う、ということもありました。
「お客様」が来店すると、居合わせる従業員みんなが
「こんにちは!」と声かけをしていました。
ビジネスマン出身の彼らしい発想でした。

この医院展開構想は3医院までいって停滞しました。
それは、歯科医になる人は
「自分の医院を持つ」ことを目標にしていますので、
少し学ぶと勤務医を好まずに直ぐに独立してしまうためでした。

彼の思う同一コンセプトの医院を展開するには、
医療法人化が必要でした。
ところが、歯科の医療法人は前例がなく、
なかなか認可がとれませんでした。

1981年になってようやく、
初の歯科の医療法人仁愛会が設立されました。
地元の歯科医たちは猛反対だったようです。

この間、奥村兄は自ら陣頭指揮で治療にも当たりました。
「お客様の立場に立って」治療を行うことは、
経済効率が良いとはいえません。
奥様が「なぜそんなに働いていて収入が少ないの?」とこぼしていた、
ということを彼から聞きました。

お客様からはたいへん評判が良く、
一度お世話になった方はずっと継続されています。
我が家族はじめ一族、空手部仲間など大ファンだらけです。

歯科治療は結構体力を使うのですが、
かなりの晩年まで、お客様の期待に応じて治療を続けていました。

中断していた医院拡大は、2015年からは4医院新設となっています。
全国的に歯科医過剰時代になり、
独立が安易な道ではなくなったことが一つの要因でしょう。
彼が開業した1970年代が、そのような事業環境であったならば、
「東急線沿線全駅での医院設置」が実現できていたかもしれません。
誠に残念なことでした。

4.社会活動

頼まれるといやと言えない性格で、
多くの団体等の役を引き受けられました。

1)東大卒業生会である銀杏会
東大には長らくOB会は存在しませんでした。
優秀な人間が群れてはいかんというような暗黙の認識が
邪魔していたようです。
しかし、他大学でのOB会の活躍ぶりを見て、
東大も何とかした方がよいということになりました。
私も多少加担して、
1989年4月に東大OB会である「銀杏会」が誕生しました。

私が業務多忙でその活動から抜ける際に、奥村兄をひき込みました。
私はあまりその気がなかったのですが、
彼が「上野に引きずり込まれた」と盛んに言っていました
。彼ははまり込んで、1997年から2020年くらいまで、
事務局長3年、副代表幹事11年、副会長5年、
顧問などを歴任されました。たいへんな貢献です。
事務局長が一番大変だったでしょうね。
 (役員の詳細の記録)
 ・事務局長: 1999年から2002年
 ・副代表幹事:①1997年から2000年
        ②2002年から2010年
 ・副会長 : 2010年から2015年
 ・顧 問 : 2015年から2018年


2)東京医科歯科大学関係の活動
以下の役員をされています。
東京医科歯科大学の全学同窓会の顧問を2011/9/1~(現在)まで
同東京同窓会の顧問を2010/4/1~(現在)まで
それらの同窓会の活動にかなり参加されていたと思われます。

2022年には卒業50年記念行事で、
年次卒業生を代表して大学構内の記念植樹の贈呈をされています。  
その時の写真 右が奥村氏、左は、同大学田中学長です。


               












3)歯科医師会の活動
公益社団法人日本歯科医師会で次のような役員をされています。
 理事   2003/4~2004/4
 常務理事   2004/5~2006/3
   代議員  2006/4~2011/3

詳細不明ですが、
地元の社団法人横浜歯科医師会の活動にも参加されています。

注:2004年春に発覚した「日歯連事件」により
歯科医師界の幹部6人が起訴されました。
その直後に日本歯科医師会の常務理事になった奥村氏は、
その影響収拾に大変苦労をしたと聞いています。

 また、この理事をされていた時と、
東京銀杏会の副代表幹事をされていた時は、
重なっておりさぞ大変だったでしょう。

4)システム企画研修株式会社の支援
私が、2002年にリターンマッチの会社を始めたときに、
応援団として株主になってくださいました。
そして、ずっと励ましてくれていました。
未だに勃興の兆しが見えないのは、まったく申し訳なく思っています。
これからは「陰ながら」今まで以上に応援してくださる
ことを願っています。

結びです。

彼は仲間内の会などでは「シカイの奥村です」と言って、
ジョーク一杯の司会役を楽しんでいました。
皆もその司会ぶりを楽しみにしていました。
その「司会の上手な歯科医」の司会を二度と聞くことができないのは、
信じられないほど残念でなりません。
彼は、人生のハイシャ(これも彼のオハコ)ではなく
勝者だったのです。

心からご冥福をお祈りいたします。

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