【このテーマの目的・ねらい】
目的:
MIND-SA事業の30年間を知っていただく。
ねらい:
これからの新事業にご期待いただきたいと思います。
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250社にご導入いただきました
MIND-SAを提供する会社は、
1984年6月2日に誕生いたしました。
当時はNixリサーチセンタと称していました。
MIND-SAは
「システム分析の方法論」を標榜していました。
当時は、日本経済もバブルに向かっている好景気時代で、
システム開発もどんどん行われておりました。
システム開発の最初のステップを担当できる要員は、
拡大するシステム開発市場で
渇望される人材であったのです。
その人材を養成できる切り札として
MIND-SAは期待されていたのです。
ここで、
MIND-SAの30年を振り返ってみたいと思います。
創業期
(MIND-SA開発の状況)
MIND-SAの生みの親・母親は、
当時は㈱日本システミックス(Nix)という
日本能率協会から独立したコンサルタント集団ですが、
父親がいました。
それは住商コンピュータシステム(SCS、現SCSK)殿です。
そこの油谷泉課長がシステム開発方法論を自社開発しておられ、
その最上流である要求分析工程のガイドを
Nixに発注されたのです。
当時、システム開発方法論を開発する会社は、
旧メインフレーマ以外にはありませんでした。
「その意気やよし」でした。
その発注金額を覚えています。500万円でした。
それをポンと出されたのですね。
Nixでは、
自分達で使用していた手法等を基に、
半年くらいで
読んで理解できるようなマニュアルにしました。
方法論作りには前段の経験がありました。
それは富士写真フイルム殿と
F-SPANという問題解決の手法を開発したことです。
当時の同社は、清水康男部長に率いられ、
A-AUTOとかADABASなどの
先端的なツール等をどんどん導入されていました。
同社のシステム部門電子計算部は、
ユニークな組織体制をとっておられました。
それは企画系のスタフは一切置かずに、
何か検討案件があると課長が集まって検討するのです。
課長はたいへんですが、ここで決定したことは、
確実に業務に活かされます。
スタフが検討して推薦する手法・ツール等を
ラインがなかなか活用しないということは
今でもよく見られる現象です。
F-SPANは電子計算部の課長3人と開発しました。
同社としての目的は技術伝承でした。
元になる手法は部内ユースで存在していました。
あらためてガイドの構成・記述方法をどうするかを
議論し決定した上で、その形に仕上げていったのです。
その際、手法の実行方法があいまいだったものについて
「こうしたらよい」ということを決めて
記述するということもありました。
その経験を活かして
SCS殿の「要求分析ガイド」を作成したのです。
因みに、現在この工程を要求定義という場合がありますが、
「要求」は定義するものではなく、
「要求はどういうことがあるか」という意味で
「分析」が適切な表現だと思います。
当初は内部利用だけのつもりでした。
しかし「これは売れる商品になるぞ」ということで
若干のお化粧直しをして
MIND-SAという名称も付けました。
その売り出しが、会社スタートと同じ、
1984年6月2日だったのです。
「MIND-SA」は,
SA(システムアナリストまたはシステムアナリシス)
のMIND(心、魂) という意味ですが、
別の意味合いも持っています。
MIND-SAの先輩格である
Nixが日本の総代理店になっていた
米国MBA社のシステム開発方法論が
prideと称していました。
prideよりも日本の心(MIND)が大事だ
ということで気張って付けたものです。
(MIND-SA営業の状況)
MIND-SAの当初の提供価格(使用権)は
400万円でした。
SCS殿での実績がありましたから
自信満々で売り出したのですがさっぱり売れません。
製品説明をしますと
「これはどうなっている?」「これはどうなっている?」と
次から次へと質問をされるのです。
「それはこうなっている」と説明しても、
また次の質問をされます。
そういう状態が3カ月くらい続いたでしょうか。
その頃、大学空手部で同期だった二木英徳氏が
ジャスコ(現イオン)の社長になられました。
氏は、部下に「上野が何か始めたようだから
検討してみたらどうか」
と言ってくれました。
3人の部長が当社に来られました。
そうしてじきに契約となりました。
間もなく、東京電力殿と東京ガス殿が
契約してくださいました。
それは当時青山学院大学の学長をしておられた
鵜澤昌和先生のご推薦でした。
鵜澤先生は
ビジネスの分かるSEを養成する必要性が高いということで、
その職種をBSEと称され、
その普及啓蒙をしておられました。
思いは同じということで、
鵜澤先生とは
BSE向けの研修コースの開発等をおこなっていました。
そのご縁でした。
それからは、あまり質問をされることもなく、
MIND-SAはどんどん売れていきました。
このとき思いました。
日本人は内容を吟味して良ければ購入するのではなく、
あくまで実績第1である、ということを。
この点は、ずい分後になって、
大手銀行の人事部門に営業にいったときにも
思い知らされました。
システム担当の役員殿が、
「MIND-SAは一般社員にも研修したらよい」
と言われて人事部門に紹介されたのです。
ところが人事部門の担当部長は
「一般社員に研修した実績がありますか?」と聞くのです。
「あります」と答えると
「銀行業界でありますか」と聞かれます。
「それはありません」と答えますと
「では実績を作ってから来てください」と言われました。
呆れてしまいました。
その後、
日本の「実績主義」のことを別の機会に聞きました。
それはあるソフトウェア製品を開発した人が、
「まずアメリカで実績を作る、
その上で日本で売り出す、
日本のお客様はアメリカで実績があると言うと買ってくれる」
と言って実行していました。
情けないですね。
情報サービス業界のトップの集まりがあった時に、
「何をしておられるのですか」と質問されましたので
「MIND-SAという方法論を売っていて
おかげさまで結構売れています」
と答えますと、
「それはアメリカのモノですか?」と言われてしまいました。
ITコーディネータ協会とかが方法論を整備する際にも、
日本のモノは検討の土俵にも上げてもらえないのです。
ですが、そういう初期の難関を
二木さん、鵜澤先生、
お二人のおかげで突破することができました。
あらためて深く感謝申しあげます。
バブル期
折しも日本経済はバブル期に入りました。
MIND-SAもバブルに乗ってどんどん売れていきました。
1年間で22社にご契約いただいた時もありました。
当社も人並みに銀座・六本木での時間とお金を無駄にする
「ご接待」攻勢をしておりました。
1990年7月11日には
数百万円をかけて
ご契約100社達成イベントを実施いたしました。
まさにバブルですね。
安定期
1992年から98年まではほぼ横ばい状態ながら
売れていきました。
サブセット版、廉価版などを出しました。
この後半の頃になると、
MIND-SAはかなり知られる存在となり
「ああ、MIND-SAね」という感じで、
新鮮さがないという風にも受けとめられだしていました。
減衰期
1999年はかなりの経済後退があり、
MIND-SA提供会社であるマインドリサーチ社は
自力での事業継続が困難となりました。
そこで、2000年3月からトランスコスモス㈱殿の
事業部としてMIND-SA事業を継続することにしました。
トランスコスモス殿は事業多角化を進めておられました。
しかし、米国のITバブル崩壊で多角化路線は
選別の状況となりました。
そこで2002年3月再び独立させていただき、
社名を現在のシステム企画研修㈱といたしました。
この2年間、
トランスコスモス殿の奥田耕己会長(当時)には
たいへんお世話になりました。
2000年までのマインドリサーチの社名については、
「何をする会社か分からない」という声と
「(オウムの)マインドコントロールを連想させる」
という声がありました。
そこで、何をする会社か明確にしようということで、
システム企画の研修をする会社ということにしたのです。
当然これ以外の事業の比率も高いのですが、
代表ということでその名前にしました。
2002年の再独立を期に、
MIND-SAの有償提供を止めました。
その頃、MIND-SAのお客様は、
ほとんどが情報サービス業になっていました。
大手のシステム部門の多くが
情報子会社を作ってしまったからです。
システム部門は空洞化してしまっていたのです。
そして、
2002年頃にはMIND-SAを買ってくださる規模の
情報サービス業にはほとんど買っていただいていました。
そこで、どうせ買ってくださるところがないのであれば、
思い切って
マニュアルをホームページ上で無償公開して
「パブリックドメイン化を狙おう」という戦略にしたのです。
それと合わせて、
「MIND-SA研修」と言わないことにしました。
「MIND-SA研修」と言うと
「新しくない」というイメージを与えるのと
「パブリックドメインとして商品名はよくない」
という観点からです。
そこで、「価値目標思考研修」とか
「目的達成手法研修」
「企画提案力強化研修」などの名称を使いました。
ところが、その後の推移を見ますと、
パブリックドメイン化は実現しませんでした。
いくつかパブリックドメインに近づけるような
団体への働きかけもしましたが力不足でした。
これも日本社会の「限界」が影響していますね。
もう一つの反省は、
研修名が一般名詞であるために
ブランドイメージができないという点です。
「MIND-SA研修」はそれなりにブランドだったのです。
現在、MIND-SA研修を支えてくださっているのは、
お若い頃にMIND-SA研修を受けて感銘された
トップの方々です。
「目的・ねらい」を追求することは非常に重要だ、と言って、
研修を実施するように指示されているのです。
実際に受講されてみないと、
そのことの意義がピンとこないでしょうね。
「目的を重視することを教える研修だ」などとご説明すると
「そんなことあたりまえだ」となってしまうのです。
これまでご支援・ご贔屓くださった皆皆様に
厚く厚くお礼申しあげます。
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システム企画研修㈱自体は、社名に反して
各種事業を開発展開してまいりました。
1999年から2011年までの超プロマネ養成研修、
2008年頃のビジネスプロセスイノベーション(BPI)研修
2010年頃のビジネスアーキテクト研修
2009年からのソフトウェアエンハンス(保守)業務改善
残念ながら今のところいずれも、
MIND-SAのようなヒット商品にはなっていません。
ヒットを狙う次世代商品につきましては
別項でご紹介いたします。
ご期待いただければ幸甚です。
1 件のコメント:
日本市場の特質がよくわかりました。
それにしても、MIND-SAは、日本のITの上流工程をけん引したという点では、素晴らしい金字塔を打ち立てられたのではないでしょうか!
心から感謝申し上げます!
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