2021年7月23日金曜日

縄文時代はなぜ1万年も続いたのか?

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 縄文時代がどういう時代であったのかを確認します。
 なぜ縄文時代が1万年も続いたのかを想定してみます。
ねらい:
 縄文時代前を含め、日本人の由来がDNA解析により
 完全に解明されることを期待いたします。
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ご承知のように、東北・北海道の縄文遺跡群が、
世界遺産に登録される(予定)ということで、
改めて「縄文ブーム」が巻き起こりそうな形勢です。

以下の日本経済新聞ネット記事をご参照ください。

縄文遺跡群、世界遺産へ 三内丸山など登録勧告
 (更新)
青森市の三内丸山遺跡=JOMON ARCHIVES提供・共同
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関は26日、
青森県の三内丸山遺跡など「北海道・北東北の縄文遺跡群」
(北海道、青森県、岩手県、秋田県)を世界文化遺産に登録するよう勧告した。
文化庁が同日、明らかにした。
1万年以上にわたって営まれた狩猟や採集を基盤とした定住生活の変遷を網羅し、
農耕以前の人類の生活や精神文化の実態を示す貴重な物証と認められた。

7月16~31日に開かれるユネスコの世界遺産委員会での決議を経て正式に決まる。
5月10日には自然遺産候補の「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」
(鹿児島県、沖縄県)も勧告を受けており、
ともに登録されれば日本の世界遺産は計25件となる。

私事ですが、函館在の愚息上野速人NHKアナが、
何度か縄文紹介番組を担当していて
あらためて、縄文に関心を持ち、少し研究してみました。

関心事は、
「なぜ定住生活でありながら1万年も「縄文時代」が続いたのか」
でした。
まだまだ解明にはほど遠い状況です。
今後に期待いたしましょう。

新規入手図書 関裕二氏著「縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける」
       斎藤成也氏ほか著「大論争 日本人の起源」
上野の蔵書 斎藤成也氏著「日本列島人の歴史」
      植原和郎氏著「日本人新起源論」「日本人の成り立ち」
      篠田謙一氏著「DNAで語る日本人起源論」
      海部陽介氏著「日本人はどこから来たのか?」   


















1、縄文時代とは
あらためて、縄文時代を記述した図書を確認して分かったことは、
遺跡から得られる証拠が限られているために、
少ない証拠の解釈が学者によってさまざまであり、
どんどん進歩してきている、ということです。
DNA解析の進展を含め、まだまだこれから新説が登場しそうです。

現時点の「縄文時代」に関するの解明事は、以下のとおりでした。

1)縄文時代人は、日本全国で、2万人からスタートし
 縄文中期に26万人に達したが、縄文晩期に8万人に急減している。
 晩期は寒冷化によって、
 その程度の人口しか維持できなかったのです。厳しいことです。

 


2)縄文人の祖先は、アフリカからスタートした現人類が、
 多くのルートで東の果てに到着したので多様な構成となっている。
 「単一民族」ではないのです。出典:「大論争 日本人の起源」

 3)単一文化圏ではなく、数ブロックに分かれている。
 縄文文化はどこかが起点で各地に拡大していったのではなく、
 2)の延長で数か所で育まれている。
 土器文様の特徴も異なっている。 出典:「大論争 日本人の起源」
 

































 
4)遺跡はほとんどが川沿いである。
 水の確保だけでなく、川の魚介類を目当てにしたと思われる。

5)狩猟・採集・漁労生活が基本であるが、栽培・飼育も行われた。
 栗などの植物の栽培、イノシシの飼育が行われた。
 東日本と西日本の遺跡比率は4対1で東日本が多い。
 東日本で、サケが取れたこと、
 栗や豆類の育成・栽培をするようになったことが要因である
 と考えられています。

6)定住が基本であるが移住をした形跡もある。
 当初の食源が枯渇すれば移転せざるをえなかったでしょう。

7)縄文の土器は世界最古級である。
 縄文時代=土器である。世界での土器発祥の地は分かっていないが、
 1万6千年くらい前から土器の利用が始まっている。
 土器で煮炊きをすることによって、食べられるものの幅が広がり
 生活が「安定」した。
 縄文時代を通じて土器は進歩し各地の文化の象徴となっている。

8)ブロック間の交流は
 石器材の黒曜石やヒスイなどの入手目的で行われていた。
 数百キロも離れたところまで黒曜石ヤヒスイが運ばれた証拠もある。
 おそらくその際に、他の文化的要素も伝播されたでしょう。

 縄文時代の地域間交易が盛んになったのは、
 南部九州で海を自在に走り回っていた海人たちが
 6400年前の鬼界カルデラの大爆発を機に
 全国に移住したのがきっかけだという説もあります。

 そもそも南部九州の縄文人の元祖は、
 スンダランド(陸続きだった東南アジア諸島・豪州)から渡ってきた
 ようです。

 当時の舟は幅50センチほどの丸木舟ですが、
 双胴船や帆掛け船もありました。

9)種族間等での争いが行われた形跡はない。
 仲間で協力して生活を維持するのがやっとで
 争いをする余裕はなかった、
 米作の弥生時代になって「余裕」ができ、
 争いが始まったというのが定説。

10)縄文後期には稲が大陸から伝わっているが、
 陸稲も水田も急速に普及することはなかった。
 その理由は、付随する疫病の伝播を恐れたのと、
 共同作業への切り替えを伴っていたからすぐにはできなかった、
 ためと想定されています。
 稲作が弥生時代になって渡来民族とともに日本にやってきた、
 という説は覆されています。
 縄文時代から弥生時代(水田稲作開始)への移行は、
 日本全体でみると数百年かかっています。

11)土偶は祭祀用具である。
 これは万人の認めるところですが、何を模っているのかについては
 定説はなく、上掲書でも詳しくは解説されていません。
 ところが新説が出ているのです。
 「その頭の部分は当時食用にしていた植物や貝類を表している」
 というのです。素晴らしい発見です。
 竹倉史人氏著「土偶を読む」(2021年4月刊)
  右の土偶の頭はオニグルミを模っているというのです。
 別項「土偶を読む」土偶の謎が解けました!!!をご参照ください。

2.縄文時代が1万年続いたわけ
私が到達した見解はこういうことでした。

1)その定住地で現人員が何とか生き延びるのが精一杯で、
 ブレークスルーを起こす起爆剤がなかった。
 縄文時代の終わりは、米作を導入した弥生時代です。
 米まで待たなくても、トウモロコシ、カボチャ、イモ類のいずれかが
 生産できるようになっていれば、
 ブレークスルーが起きていたと思われます。
  
 なぜかこの3種類ともアメリカ大陸発祥で、
 日本では誕生していません。
 注:トウモロコシ:中米原産。9千年前からあり。
   カボチャ:ベル―原産。4千年前からあり。
   サツマイモ:中南米原産
   ジャガイモ:南米原産

 これらの食料は、稲作のような特別な技術は必要ありませんし、
 保存も効きます。
 自然界で生きるには、保存がきくことは非常に重要なことです。
 
 サトイモは縄文中期には、大陸から伝来したようですが、
 水分が多くて腐りやすく保存に向かないのと、
 種イモの越冬が難しく、
 長く主食の座を維持することはなかったようです。
 
 縄文時代にも食の保存はありましたが、主が魚介類でしたから、
 製塩技術を取得したあとでも、保存の限界がありました。
 年間を通すと、ほとんどまともに食べる物のない厳しい期間
 があったと思われます。
 それでは、人口は増えません。

 食べることが保証されていれば余裕ができ、
 もっと早くに異なる文化(「弥生文化」など)が生まれた
 のではないでしょうか。

 縄文人は定住をしているとはいっても、
 その場所で必要な食糧が得られなくなれば移住しています。
 上述のように、黒曜石等の「交流」も行われていますが、
 おそらく、黒曜石の入手を主目的に「探索」をしたのではなく、
 より良い食糧探しが目的だったのではないかと思われます。
 まずは食糧の入手が生きるために一番必要なことですから。

 その探索の結果、たまたま必要な黒曜石があったので持ち帰った
 ということではないでしょうか。
 残念ながら、
 有効な食糧はコメの入手まで見つからなかったのです。
 コメの入手で縄文時代は終了しました。
 
 私の結論はこうです。 
 神様が、日本に、トウモロコシ、カボチャ、イモ類、の突然変異を
 起こしてくださらなかったので1万年になってしまったのです。

2)多くの縄文人は自然神(「定め」)を信じ、
 欲張らずに清貧状態で自然と共生する精神だったので、
 厳しさを積極的に解決しようという気持ちにならなかった。

 自然との共生の精神は、今でも日本人に伝えられています。
 その「地」の神を大事にし、
 滅多なことでは移住もしないで我慢したのでしょう。

 因みに、縄文人すべてがそのような思考であったわけではなく、
 前掲の南部九州の海人は、
 動き回ることで進歩を得ようとしていたようです。
  
 「定め」を受け入れずに、
 何とか問題解決しようという積極的な精神があれば、
 どうにかなっていたでしょうか? 
 ましな食糧源の獲得が最大の問題解決です。
 
 上述のように、
 他の地域からそれを探すという努力はそれなりにされたようですが、
 縄文晩期のコメの本格栽培まで大きな成果は得られていません。
 コメも急速な普及ということではなかったようです。
 おそらく、尊い大地に大きく手を加えることに
 抵抗もあったのではないでしょうか。

 品種の改良・栽培拡大はどうだったのでしょうか。
 栗の栽培は行われたようです。
 「桃栗3年、柿8年」といって栗の成長は早いのですが
 なぜ多量に栽培できなかったのでしょうか?
 
 豆類は自然な品種改良もあったのではないかと思われますが、
 それを活かすほど研究心旺盛ではなかったのでしょうか。

 以下、出典Wikipedia
 日本では、紀元前4000年頃(縄文時代後期)に、
 大豆の原種と言われるツルマメを利用していた痕跡が出土している。
 アズキは中国が原産と考えられているが、
 アズキの祖先と考えられる野生種ヤブツルアズキ
 日本からヒマラヤまでの地域で見つかっており、
 アズキの原産地の再検討が必要となっている。
 アズキは滋賀県の粟津湖底遺跡(紀元前4000年頃)
 から出土しており、古代より各地で栽培されていたと考えられる。

 いずれの場合も、現状(定め)を大きく変えることに対して
 精神的抵抗があったのではないかと想定されます。
 この点に関しましては、もう少し研究が必要です。

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