2020年9月29日火曜日

「性からよむ江戸時代-生活の現場から」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 江戸時代の「性」に関する研究報告をご紹介します。
 性=生と死で、たいへん重いテーマです。
ねらい:
 現代の生活がかなり恵まれていることを再認識しましょう。
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本テーマとなっている著書は、
沢山美果子岡山大学大学院社会文化科学研究科客員研究員(69歳)が
書かれたものです。
沢山さんは「日本近世・近代女性史」の専門家です。


ユニークなテーマですから、
「はじめに」でその出版意図を確認しましょう。
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(前略)
女と男の性の営みは、
人類がいのちをつないでいくための根源的な営みである。
そして性の営みにも歴史がある。
本書が対象とするのは、徳川幕府が開かれていた江戸時代、
特にその後期の18世紀後半から19世紀前半の時代である。

江戸後期は、性の営みやいのちの問題を考えるとき、
大きな画期をなす時代だった。

この時代に、人々のいのちを守る基盤となる
「家」が民衆のなかにも成立する。
家を子孫に引き継ぐために、
子どもと子どもを産む女のいのちを守ろうとする意識が高まり、
医者や産婆が各地域に登場する。
(上野:そうだったのですね)

一方、家を維持するために、子どもの数を減らしたり、
出生間隔をあけたり、時には、堕胎、間引き、捨て子をする、
など少子化への志向が見られる。

幕府や藩は、人々の出生コントロールへの意思を取り締まり、
人口を増やすために、妊娠・出産を把握し、
堕胎・間引きを監視する仕組みを作った。
(上野:この措置は人道上の理由ではなかったのです)
そうした中で、これら生活に根ざした資料が各地に残された。

ところで、資料をもとに論じる歴史研究において、
人々が日々生活し、生きていくことの根底にある
「からだ」と「こころ」がテーマになったのは1990年代、
「性」がテーマになったのは
それよりさらに遅く2000年以降のことである。

江戸時代の性というと、
おそらく、浮世絵や春画、文学に描かれる性愛あるいは吉原屋遊女
というイメージを持たれるのでなないだろうか。

確かに、江戸時代の性についての今までの研究では、
それらの性風俗を扱ったものが多かった。
しかし、本書が対象とするのは、江戸時代の村や町に生きた、
普通の個人の日常生活の中での女と男の性の営みである。

また、主な手がかりとするのは、
家や村に残された文書群や日記といった文字資料である。
民衆の女と男は、歴史の表舞台に出ることはなく、
彼ら自身が記録を残すことは稀である。

だがきやと善次郎の言葉が残された文書は、掘り出されること、
発見されることを待っている資料があることを教えてくれる。
本書では、一人ひとりの女と男の性のレベルまで降りて、
それらの文書を読み解き、江戸時代の女と男の性生活や性知識を探る。

そのとき、生きていくための性の営みをめぐる
女と男のドラマが浮かび上がってくる。
そして一見、生物学的衝動のように見える
女と男の性の営みにも歴史があることが見えてくるであろう。

きやと善次郎は第2章の主人公である。
本書では、交わる、孕む、産む、堕ロス、間引く、
といった性の具体的局面に沿って探ってゆく。

第1章では、
 妻との交合を克明に記録した俳人の小林一茶の性意識を、
第3章では、
 一関藩の医師・千葉利安の診療記録に見る出産と堕胎の現実を、
第4章では、
 出雲の町人・太助の日記や遊女の検挙記録から、
 家の女と遊所との地続きの関係を見る。

それら個々の局面を重ね合わせてみたとき、
どのような江戸時代の性の全体像が浮かび上がるのだろう。
第5章では、その全体像を描き出すことに挑戦するとともに、
近代への見通しも示してみたい。

一人ひとりの女と男の性の営み、生殖、性愛をめぐる
具体的経験に焦点を当てる試みは、
現代に生きる私たち一人ひとりが持つ、
性をめぐる常識や通念を問い直す豊かな手がかりを
与えてくれることだろう。
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こうして説かれますと、「性」が興味本位の対象から、
客観的な研究対象として別物になっていくのです。

以下に、
「性」に関するテーマごとの本書の要点をまとめてみました。
実際の内容は、典型的人文科学書として、
詳細な生データが記述されています。
ご関心ある方は、本書をご参照ください。

1.性交
1)小林一茶の場合
 小林一茶は52歳で28歳の菊を妻に迎えた。
 一茶の日記では、結婚2年4か月後このように激しく交合している。
 文化13年8月
  8日晴 菊女帰る 夜5交合
  12日晴 夜3交合
  15日晴 3交
  16日晴 3交
  17日晴 墓詣 夜3交
  18日晴 夜3交
  19日晴 3交
  廿晴 3交
  廿Ⅰ晴 4交
 この年4月14日に長男が誕生したが5月11日に生後8日で死亡している

 次の子作りに必死だったのであろう、
 しかしそれだけでもなかったようだ、と著者は推察しています。

2)貝原益軒の「養生訓」
 好ましい(この位で慎め!)回数をこう述べていることが紹介されている。
 20代 4日に1回
 30代 8日に1回
 40代 16日に1回
 50代 20日に1回
 60代 1月に1回、または、精をとぢてもらさず
 当時は精液を漏らさないことが養生の基本と考えられていた。

3)少し脱線
 俗説で「九九の法則」というのがあります。
 20代は、29-18なので、10日に8回(ほぼ毎日)
 30代は、39-27なので、20日に7回
 40代は、49-36なので、30日に6回(大体週1)
 50代は、59-45なので、40日に5回
 60代は、69-54なので、50日に4回(10日に1回程度)
 
 貝原益軒のよりだいぶ多いのです。
 これが標準だと言われているのですが、酒の席などで話題にすると、
 ほとんどの人はそんなにしていないと言いました。

2.妊娠
 妊娠しやすい時期についての認識はあったようです。
1)元禄5年(1692年)に初版本が出て江戸時代を通じて流布した
 「女重宝記大成」には、「月候(月経の兆候)すでに尽きんとする
 28・9時(日)が、子を孕むべき佳き時也」とある。
2)明和9年(1772年)の「神秘天命伝」には
 「すべて、子を身ごもるといふ、月水(月経)の後の、
 7日に、はらむものなれば、14日を過ぎてことを行えば、子なし」
 とある。

3.中絶・堕胎
 避妊の方法がなかった時代はどうしても、妊娠が多くなる。
 当時の食糧事情では多くの子どもを育てることはできなかった。
 そのためどうしても、堕胎の要求が強かった。

 幕府・各藩は、人口の減少を防ぐために、
 堕胎をとりしまる「赤子制道役」を農民の中に設けた。
 
 一関藩の狐禅寺村の文化7年(1810年)の
 「子供4人以上生育者書上」(赤子制動役の記録)によれば、
 この年、戸主156人、総人数800人の村で
 子どもが4人以上いる家は1軒もない、となっている。

 堕胎の方法は、服薬やごぼうなどの「さし薬」が
 巷で実行されている。

 産まれた後の子殺しも行われ、「戻す」「間引」と言われた。
 これらは取り締まられるので、
 「死胎(死産)」「半産(早産)」と偽っていた。

4.出産
 江戸後期の出産の10-15%が死産
 産後死と難産死は21歳ー50歳の女性の死因の25%以上

 出産は命がけの大仕事であった。
 江戸中期から、
 これを助ける医者(藩医、町医、在村医)が数多く養成された。
 
 産婆も多くいた。
 文化8年(1811年)から同14年までに、
 藩から褒賞を貰った一関城下の8人の産婆が取り上げた赤子は
 652人を数えた。

 難産は医者、通常分娩は産婆というすみわけが行われていた。

5.幼児の生存率
1)出生児の20%近くが1歳未満で死に、
  5歳までの幼児の死亡率は20-25%

2)小林一茶の子ども3男1女はすべて夭折している。
 長男 発育不全で生後8日亡
 長女 疱瘡のため1歳2か月で亡
 次男 生後96日で窒息死(母の不注意)
 三男 下痢による衰弱で1歳9か月で亡
 哀れなことです。
 
 母菊は7年間に4人の子どもを産んだが、
 結婚後9年の37歳で死んでいる。
 菊の死や子どもの病弱は、一茶から梅毒がうつったせいだという説もある、
 とのこと。

6.江戸時代の平均寿命
 18世紀は30代半ば
 19世紀は30代後半(出典は鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」)
 とあります。
 
 いろは出版刊の「寿命図鑑」によると、
 各年代の平均寿命はこうなっています。
 旧石器・縄文時代 15歳
 弥生時代     10代~20代
 飛鳥・奈良時代  28-33歳
 平安時代     30歳
 鎌倉時代     24歳
 室町時代     15歳
 安土桃山時代   30代
 江戸時代     32-44歳
 明治・大正時代  43-44歳

 80歳代になった現代とは大違いです。
 平均寿命が下がっている時代は、飢饉と疫病です。
 室町時代はなんと15歳だったのですね!!

7.性売買
 上野注:著者は「売春」「買春」という言葉を使わず、
 より客観的な性売買という言葉を使っています。

 江戸時代初頭、幕府は町人からの願い出を許可する形で、
 大都市の3か所の遊郭、吉原(江戸)、新町(大阪)、島原(京都)
 を公認した。

 その後、江戸後期には、半公認の遊郭=遊所が全国各地に広がり、
 天保期ごろには遊所の番付の印刷物が市販され、人気を呼んだ。
 番付表には全国201か所の遊所が記載されている。
 それ以外にも数多くの遊所が各地にあった。

 公認の遊所からは、幕府・藩は冥加金を取っていた。
 それに対し、「隠売女」(茶屋などで売春する女性)はかなり多く、
 公認の遊所の営業を危うくするということで、取り締まりが行われている。
 その取り締まりで検挙された女性たちは、公認の遊所に入札された。
 入札額の例では、
 最低が17歳女の2両2分、最高は25歳女の70両2匁である。

 この表は、著者が文献から整理した文政12年(1829年)から
 天保11年(1840年)までに検挙された127人の明細の一部です。
検挙された女性の年齢はこうなっています。
12歳・14歳の女性は「お手伝い」をしたので検挙されたのです。
15歳から20歳までが多く、最高齢は42歳(二人)です。
 よく知られている、遊所から逃げ出したがつかまり、
 厳しい折檻を受ける例も紹介されています。

 隠売女の料金の例では、
 客から2朱(500文)を取り、仲介者と本人が折半していた。
 小林一茶が利用した最下層の隠売女の夜鷹の場合は24文であったので、
 その20倍である。

 隠売女は、都市最下層の借家住まいの貧困家庭の娘が多く、
 養女に出された先で遊所に「奉公」に出されるという形も多かった。 
 
 生活苦の解決と男性の欲求解決が一致したビジネスであったのです。
 全般的に重い話で憂鬱になります。

まとめ
本書の提示している事実や意見をまとめてみます。

1.性に関する研究の歴史
歴史学においても、1980年代末に、
性の問題は人間という存在の根源に関わることが指摘され、
1990年代後半には、
日本近世史でも性や身体に関わる問題が取り上げられるようになる。

しかし性と社会や国家との関係を追究することが
歴史学の重要な課題であるとの提起が、
主な歴史学研究の機関紙でなされたのは、
ようやく2000年代になってのことである。

この記述を整理するとこうなります。

1980年代

性と社会の関係の研究の発端

1990年代

性と社会の関係の研究の出現

2000年代

性と社会の関係の研究の本格化


2.性の社会における位置づけの変遷
現代の部分は、
著者の主張は物足りないので上野意見として作成しました。

性の社会における位置づけ


近世

ü  厳しい生活環境の中で、祭のときなど比較的おおらかな性関係も存在した。

ü  民衆の女と男の性の営みは、人々の生きる砦である「家」を、夫婦がともに働いて維持しつないでいく生きる営みと、切り離せないものであった。


江戸時代後半

ü  性が家を母体として人口を維持する生殖のための手段として、幕府・藩から規範化された。

ü  それ以外の性は規範外となり、遊所が隆盛を極めた。


近代

ü  恋愛・婚姻・性・生殖の一致の規範化が進められた。婚姻内の夫婦の性を正当なものとし、「純潔」を重視する価値観が広められた。それにより、性売買、婚姻外の性交、婚姻前の性交への罪悪視を強めた。

ü  夫婦の性関係については、「男性主導」(女性は受け身という意識)となっていた。

ü  性は家庭の中に閉じ込められ、秘すべき事となった。したがって、一般で口に出すことはなく、研究対象にもならなかった。

ü  しかし一方で、女工など働く女性たちには、自由奔放な性の世界も存在した。


現代

(上野意見)

ü  性は秘すべきこと・抑えるべきことという建て前的意識が多くにあるが、「自由主義」の下に実態は「自由恋愛」の状態となっている。

ü  女性が要求することは恥ずかしいという意識で、自分の欲求を抑えている女性は満足を得ることができない、という状況を生み出している。こういう女性たちは機会があれば、不倫をする。

ü  女性を満足させることができない、性的に未熟な男性は自信をなくし性から逃げるようになる。「草食系男子」はその類である。

ü  性は、衣食住に並ぶ重要な生存要素である。これには相性があるので、相性の良い人と結ばれることが人生の満足につながる。その意味で婚前交渉を否定すべきではない。特に、女性だけに「純潔」を求めるのは論外である。

ü  性教育はこうあるべきと思う。「セックスは、人間の生活として非常に重要な行為である。したがって男女が共に満足することを目指すべきである。それには男女はどうしたらよいか、を教える」(中学3年に実施)


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