2018年9月28日金曜日

現金大国コスト2兆円 なんでそんなことになるの??


【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 2兆円ものコストを、
 日本人はATM利用のために支払っているのです。
 なんでそんなことになっているのか検討してみます。
ねらい:
 日本社会は、そろそろ戦闘態勢に切り替えないと、
 完全に世界の後進国になってしまいそうです。
 どうしたものでしょうか。


 この続きは「日本の戦後の世代交代はこうではないですか?」
 で述べます。
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年間2兆円もATMの維持にかかるのだそうです。
2016年9月末で13万7千台の銀行ATMがあります。
これ以外にコンビニに5万5千台あります。
ATMは1台300万円、それに維持費が月間30万円かかります。

(2兆円の計算根拠は不明です。維持費だけなら年間約7千億円です

日本のATM機器メーカーは5社くらいあるのですが、
各メーカーが、入出金・振込・通帳記入の基本機能以外に、
個人認証方式を含め、多くの機能を開発し競争しています。

通帳の共通化ができないためにATMの共通化ができないのが
機器のコストがかかる一因です。
初めにどこかの銀行が記帳機能を持たせたら
他行も競争上記帳機能は避けられない、となります。


新生銀行は通帳がなかったので自前のATMをやめ
セブン銀行のに変更できたのです。


ご存じのように
現金の入出金だけをするのはどこのATMでもできるのです。
コンビニのはそれです。


コンビニのATMはセブンイレブンが始めました。
コンビニへのATMの導入は、やはり初めは抵抗があったようです。


ATMが現金収支機ならば記帳機能は要らない、と割り切りました。


因みに、
日本の現金決済比率は65%で世界各国で突出しています。
先進国の平均(32%)の2倍です。


逆に、キャッシュレス決済の比率はこうなっています。
 韓国 96%
 中国 60%
 米国 46%
本題から外れますのでこれ以上は言及しませんが、
なぜ日本は現金主義なのでしょうか。


日本のカイゼン重視が自前主義・部分最適の悪弊を後押ししている、


という概ね以下のような指摘がありました
(日経コンピュータ2016.9.1「焦点を読む」木村岳史氏)。


日本のカイゼンは自前主義・部分最適を助長している。
本来、改善の目的は、優れた良い方法を実現することのはずなのに、
良くても悪くても「自分でカイゼンした」方法を導入することに
なってしまっている。
カイゼンは日本の競争力強化の阻害要因になっている。


この自前主義は、
私も変更管理業務の営業をしていて痛感します。


そこでこれを機に
日本の自前主義またはオリジナリティ重視は
なぜ強いのかを分析してみました。


1.研究者はオリジナリティが重要である。
  これは各国共通の条件です。  
  オリジナリティがなければ
  発明にも特許にも、ましてノーベル賞にはなりません。
  研究業務にとっての第1の評価基準はオリジナリティです。


2.QC活動に代表されるカイゼン活動も、
  表彰対象になるのは
  創意工夫が込められたオリジナリティが必要条件です。
  
  その次の評価基準が改善成果の有効性・大きさです。
  ビジネスであるなら、この評価基準は順序が逆だと思います。
  前掲の木村氏の主張です。
  
3.成熟した市場で激しい競争にさらされるので
  他社と差異化するために、 創意工夫をします。 
  テレビやATMがその例です。
  
  部分最適思考・カイゼン型思考です。
  差異化が最優先で、
  コスト効果は二の次になっているのではないでしょうか。


  だから、
  日本の労働生産性は先進国中低位に甘んずることになるのです。


4.人間は人から言われるのは嫌いです。
  誰しもプライドがあります。自分の意思で行動したいのです。
  自分で考えたものでないことを拒否するのは、
  英語でもNIH(Not Invented Here)と言って人間共通のことです。
  プライドの高い人ほど、人の言うことを聞きません。


5.誰しも慣れた方法で仕事をするのが楽です。
  そこで、新しい方法は生産性が高くても「自分のところに合わない」
  とかの理屈をつけて自前主義を主張し拒絶します。


  私はこの状況を「変わりたくない症候群」と称しています。


こうして見ると、1.研究業務を除くと、
それを許している日本社会の環境・風土が諸悪の根源だ
ということになります。


言い方を変えると、
研究者的思考をビジネス全般に持ち込んでしまっている、
ということになります。


会社が潰れるとなったら、我ままを言っている余裕はなくなります。


日本の伝統的産業である農業は、個人個人が自営の経営者でした。
生産性が高まる方法を知ったら、
NIHだとか言わずにすぐに取り入れようとしたでしょう。


つまり結果に責任を持っていれば、
好きとか嫌いとか言わずに有効な方法を選択するのです。


昔は、情報の流通が限られていましたから、
そういう進歩のチャンスは多くなかったでしょうが。


近代の勤め人社会になって、
個人個人は、直接的には結果に責任を持たなくなりました。
したがって、「無責任」なのです。


「成果主義の評価制度にせよ」との主張はありますが、
現実的には一部の職業を除いては個人の成果の評価が困難です。
そのために、「我がまま・いい加減」を許す状態になっています。


結果を求められている上位管理者が
部下の成果を適正に評価すればよいのですが、そうなっていません。


その原因は、そういう能力がない上司が多いのと、
「和」を重んずる価値判断が利いてしまうからです。
「なあなあ」になってしまっているのです。


この場合は、「和」の重視が日本の大きな弱点になっています。
これでは日本は勝てません。


「上司さん、自信を持って厳しく部下を指導してください!」
と言いたいです。



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