2010年12月12日日曜日

尖閣諸島についてもっと知りましょう!

 以下は、雑誌「到知」の2011年1月号に掲載された記事を
 到知出版社が、
 読者等に「到知」の内容をPRするためのメールで
 要約したものです。
 そのままご紹介します。
 詳しくは、「到知』の当該号をご覧ください。
 http://www.chichi.co.jp/i/article2011/i-201101urabe.html

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 実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、
 所有者がいました。

 明治以来、
 長い間におよんで古賀辰四郎及び子息の善次、
 その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。

 古賀辰四郎が沖縄に来島したのは明治12年、
 24歳の時です。
 爾来、石垣島に古賀商店を開いて海産物を取り扱い、
 尖閣諸島の開拓をはじめ多くの功績を残し、
 明治42年には藍綬褒章を下賜されたほどの人物でした。

 古賀は、明治28年に政府が尖閣諸島の領有を宣言するや、
 「官有地拝借御願」を内務大臣に提出。
 大臣は30年の期間を設けて
 尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。

 明治33(1900)年に開かれたパリ万国博覧会では、
 尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、
 見事銅賞を受賞。
 
 明治36年の内国勧業博覧会では、
 出品の真珠2点を皇太子殿下が御買上げになる
 という栄誉にも浴しています。

 大正7年に古賀辰四郎は63歳で死去しますが、
 この壮大な事業は長男の善次が継ぎました。

 善次は昭和6年に国に払い下げを申請し、
 翌年、尖閣諸島のうち魚釣島を含む四島が
 善次の所有となったのです。
 
 中国政府及び台湾の一部勢力が
 尖閣諸島の領有を言い募るのであれば、
 善次が遺した次の証言を刮目して見よと言いたい。

 「大正8年、中国福建省の漁船が、
 尖閣列島沖合いで難破しました。
 そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、
 難破船と31人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、
 手厚い保護をしました。

 私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、
 修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

 翌年ですよ、中国政府から
 私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
 その宛名は、
 日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。

 いま中国がいっている魚釣台ではなく、
 ちゃんと尖閣列島になっています。
 個人からの手紙ではありません、
 政府としての感謝状なんです」

 ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は
 現在も保存されています。

 今を遡ること90年前から、
 中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた
 決定的な証拠にほかなりません。

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 古賀善次さんの子孫が今も尖閣を所有していて
 石原都知事が譲ってほしいと交渉をした
 相手なのでしょうか。
 (そのことは、当ブログの
 2010年11月1日「尖閣諸島問題その2」でご紹介しました)

 尖閣諸島のどこかの無人島に上陸した
 石垣市の議員がいたようです。
 そういう実効支配をして、
 ことを荒立て中国のクレームを引きだし、
 国際的な話題にするのは一つの手ですね。
 そうなったら、
 今回記事のような証拠を突きつけていくチャンスが
 出てくるのですから。
 

1 件のコメント:

  1.  尖閣のことは、事あるごとに新聞・雑誌等でとり上げ、
    それを国会でも論じて、上記にあるように「中国の
    クレームを引きだし、国際的な話題にする」ことが
    必要でしょうね。

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