2021年5月14日金曜日

「実力も運のうち」能力主義は正義か?

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 マイケル・サンデル教授の最新著書を研究します。
 アメリカが危ないことを再確認します。
 日本はどうすべきかを考えます。
ねらい:
 日本の将来に向けて少しずつでも前進しましょう。
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本項は、オックスフォード大学教授マイケル・サンデル氏の
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」のご紹介です。
因みに、「実力も運のうち」とは、
日本の出版社が日本向けに作った言葉で、著者はそう言っていません。
著者の言い方だと「能力も運に左右されている」ということです。















本書は、我が娘が「買ったけれど読む気なくなった」
と言ったものを引き取ったのです。
参照文献表示部分を除いて332頁の大書である上に
私の苦手な人文科学書だったのです。
巻末の参照文献数は495もあります。

著者の専門は「政治哲学」ということです。
政治は社会科学領域で、哲学は人文科学領域ですが、
本書の著述内容を見ると、まったく人文科学的です。
いろいろな事象や学説を羅列するのです。
社会科学であるなら「こうすべきである」が明確であるべきです。
ところが、対策の主張は、事実の説明の中に埋もれてしまったり、
あいまいな意見の提示という形になっています。

「乗りかけた船」で、何度も読み返してようやく
全体の主張が少し理解できました。
このブログ作成は、近来になく苦労しました。

著者の言いたいことはこうです。
能力主義は、当初、
各個人がそれぞれ能力を発揮して成功した人生を得られる切り札であった。
ところが、近時その弊害が目立つようになってきた。
弊害は、能力の象徴である名門大学が経済面でも狭き門となり、
裕福な子弟でないと入学できなくなってきたこと、
成功者は、成功要因は自分が努力した結果であるとして傲慢になり、
弱者を蔑視するようになったこと、
弱者は、恵まれない状況は自己責任であると思わせられ逃げ場を失い
抑うつ状態となっていること、
その結果、社会に越えられない分断が発生していること、である。
その対策を早急に打つ必要がある。

以下の構成で、ご説明いたします。
【1.本書の主張のご紹介】
  序論と結論を中心にご紹介します。
【2.上野の本書再構成私案】
  こうすれば、主張が分かりやすくなる案を提示しました。
【3.本書の興味深い内容】
  2つのテーマを取りあげました。
【4.上野の感想
  翻って日本はどうか、を考えてみました。

【1.本書の主張のご紹介】
本書の序論の結論はこうです。
エリートに対する怒りが民主主義を崖っぷちに追いやっている時代には、
能力の問題はとりわけ緊急に取り組むべきものだ。
厄介な政争の解決策は、能力の原則に、より忠実に生きることなのか、
それとも、選別や競争を超えた共通善を追求することなのかを問う必要がある。

本書は以下の構成でこの問題提起に答えていきます。

内容         

序論

本書全体の課題提起

1.勝者と敗者

現在は勝者と敗者が鮮明になり、
敗者の反乱が起きているという問題提起

2.「偉大なのは善良だから」

能力に対する考え方の歴史

3.出世のレトリック

誰でも努力すれば出世できるという
「風説」の批判

4.学歴偏重主義

米国社会における学歴重視主義の実態
に対する問題提起

5.成功の倫理学

何が成功をもたらすのかのあるべき論

6.選別装置

高等教育が人間の選別装置と化している
問題提起

7.労働を承認する

労働の尊厳が回復されるべきという主張

結論

能力至上主義を打破するための主張


内容は重複していたり、行ったり来たりしています。
たとえば、第1章の中にも、
第3章のタイトルの「出世のレトリック」という項目があります。

「結論」が本書の集大成ですから、そのままを転載いたします。

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今日の社会には、条件の平等があまりない。
階級、人種、民族、信仰を超えて人びとが集う公共の場は極めてまれだ。
(上野注:著者はこのような公共の場があることが
「条件の平等」であると主張しているようです)

40年に及ぶ市場主導のグローバリゼーションが
所得と富の極めて顕著な不平等を生んだため、
われわれは別々の暮らし方をするようになってしまった。

裕福な人と、資力の乏しい人は、
日々の生活で交わることがほとんどない。
それぞれ別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。
子どもたちは別々の学校へ行く。

そして、能力主義の選別装置が作動したあと、
最上層にいる人は、自分は自らの成功に値し、
最下層の人たちもその階層に値するという考えにあらがえなくなる。

その考えが政治に悪意を吹き込み、党派色をいっそう強めたため、
今では多くの人が、派閥の境界を超えた結びつきは
異教徒との結婚よりも厄介だと見なしている。

われわれが大きな公共の問題についてともに考える力を失い、
互いの言い分を聞く力さえ失ってしまったのも無理はない。

能力主義は当初、
労働と信仰を通じて神の恩寵を自分に都合よく曲げられる
という前向きな考え方として登場した。

そこから宗教色が取り除かれると、個人の自由が晴れやかに約束され、
こう考えられるようになった。
運命を握っているのは自分自身だ。やればできる、と。

しかし、そうした自由の理念は、
共有された民主的プロジェクトの義務からわれわれの関心をそらすものだ。
第7章で考察した共通善の二つの考え方、
すなわち消費者的共通善と市民的共通善を思い出してほしい。

共通善が消費者の幸福の最大化に過ぎないなら、
結局のところ、条件の平等の達成はどうでもよいことになる。
民主主義が手段の異なる経済(上野注:この句意義不明)、
つまり個人の利害と嗜好の総計の問題に過ぎないのなら、
その運命が市民の道徳的(上野注:日本語では精神的とした方がよい)
絆に依存することはない。

われわれが活気ある共同生活を共有しようが、
同類ばかりが集まる私有化された飛び地に暮らそうが、
消費者的な民主主義概念は
そのごく限られた役割を果たすことができる。

だが、共通善に到達する唯一の手段が、
われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標を巡る
仲間の市民との熟議だとすれば、(上野注:これは著者の仮説)
民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。

完璧な平等が必要というわけではない。それでも、
多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。

なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、
差異を受容することを学ぶ方法だからだ。

また、共通善を尊重することを知る方法でもある。
人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。

いったいなぜ、成功者が
社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?

その問いに答えるためには、我々はどれほど頑張ったにしても、
自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、
才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、
自分の力ではないことを認めなくてはならない。

自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、
ある種の謙虚さが生まれ、こんな風に思うのではないだろうか。

「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘が無かったら、
私もああなっていた」

そのような謙虚さが、
われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。

能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、
より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

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【2.上野の本書再構成私案】

余計なお世話ですが、私なら本書の内容をこういう構成で編成します。

1.問題提起
  1970年代までは、
  全国民(米国)がそれなりの満足を得られる生活をしていた。
  ところがこの40年間、
  不平等が広がり社会的不満が鬱積してきている。

2.その原因
  形式的能力主義がその原因である。
  人はその能力・努力により報われることは、
  それ自体は悪いことではないが、
  現在の能力把握方法では、経済的に恵まれている家庭でないと
  「能力」を獲得できなくなっている。

  成功者は、自分の努力によってその成果を獲得しているのだから
  成功は当然の帰結で、非成功者は努力が足りないと蔑視している。
  非成功者は、自分の責任で望ましくない状況に置かれていることに
  やり場のない無力感を感じ、「絶望死」も増加している。
  また、他に責任を転嫁しようとする(「移民のせい」とか)。

3.あるべき社会の共通善
  人間が根本的に必要とするのは、
  生活を共にする人びとから必要とされることである(貢献的正義)。
  社会で必要とするすべての労働の尊厳を認めるようにすることも必要。 

4.あるべき社会の共通善実現の具体策
  本書では「大学入試に抽選制を取り入れる」(たいへんいい案です)
  くらいしか提示されていません。
 【著者の入試抽選方式】
   1次選考で明らかな不適格者を排除し、残りを抽選にする。
   (その中から誰が将来伸びるかは、どうせ誰にもわからない)
   優遇枠を設けたい場合は、
   その程度に応じて一人に数枚の券を割り当てる。
   特別優遇をしたい場合はその別枠を設けその数を公表する。

  【上野の経験】
  私は東大教育学部付属高校の出身です。
  ここでの高校入試は抽選です。
  1学年男女同数で120人でした。
  メンバは多彩で、いろいろな出自の人がいました。
  大学進学を選ばず職業選択する人もいました。
  大学も、東大、早慶などそれなりのところに進学しました。
  その合格率は、名門高校とそう変わらないでしょう。

  著者の主張する、抽選方式は利があります。
  抽選にすると、
  受験生はガリ勉一辺倒ではなくなるだろうという主張です。

 「多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ」
  とありますが、具体策の提示・例示はありません。
  日本で言えば「町会」ですが、今や日本の町会も崩壊寸前です。
  
  【上野の提案】
  上野は、社会活性化対策として「幼稚園時代からの教育の革新」
  (幼稚園時代から、競争心、創意工夫、共同作業を強化する
  教育を実施する)を提示しています。
  2013年12月25日
  この教育では「競争心、創意工夫、共同作業」を重視します。
  「三つ子の魂百まで」ですから、
  幼児時代にこの3原理を刷り込まれれば
  大人になってもこの精神は生きるでしょう。
  このことによって、個性にあった能力の伸長、共同生活の習慣化を
  図ることができます。

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【3.本書の興味深い内容】

本書を人文科学書として見ると、たいへん興味深い記述がありました。

その中から2点ご紹介します。米国の大学進学競争状態と
社会不満の結果としての「絶望死」の状況です。

「米国の大学進学競争状態」
潜在能力を客観的に測定するSATのような標準テストは、
平凡な経歴の生徒も知的な将来性を証明できると言われている。
だが実際には,SATの得点は家計所得とほぼ軌を一にする。

生徒の家庭が裕福であればあるほど、
彼や彼女が獲得する得点は高くなりやすいのだ。

裕福な親は子供をSAT準備コースに通わせるだけではない。
個人向けの入試カウンセラーを雇い、大学願書に磨きをかけてもらう。
子どもにダンスや音楽のレッスンを受けさせる。
フェンシング、スカッシュ、ゴルフ、テニス、ボート、ラクロス、ヨット
といったエリート向けのトレーニングをさせる。
大学の運動部の新人として採用されやすくするためだ。

こうした活動は、裕福で熱心な親が、
入学を勝ち取れる素養を子どもの身に付けさせるための
高価な手段の一つなのである。

さらに、授業料がある。
十分な予算を持ち学生の支払い能力に関係なく入学を認めることのできる
一握りの大学を除いて、

学資援助の必要のない志願者は、
貧しいライバルとくらべて入学できる可能性が高い。

これでは、アイビーリーグの学生の3分の2あまりが、
(注:アイビーリーグは米国東部の名門8大学)
所得規模で上位20%の家庭の出身なのも当然だ。

プリンストン大学とイェール大学では、
国全体の上位1%出身の学生の方が、下位60%出身の学生よりも多い。
批判者は、こうした不平等は高等教育がその主張するところとは
違って能力主義ではない証拠だと指摘する。

こうなる背景は、
名門大学出身が社会的成功への近道であるということになっているからで、
受験生は、受験、受験に追いまくられてわき目もふらずに勉強一筋
という状況は日本以上の感じです。

不思議に思うのは、実力主義あるいは能力主義のはずの米国で、
採用で「学歴」という見かけで判断するのは、
「やはりそうなるしかないか」という感じです。

「絶望死の状況」

20世紀を通じて米国の平均寿命は着実に伸びた。
ところが、2014年から2017年までの間に伸びはとまり、
この100年で初めて、アメリカ人の平均寿命は3年連続で縮んだ。

その原因は、自殺、薬物の過剰摂取、アルコール性肝臓疾患などによる。
これをプリンストン大学の2学者は「絶望死」と名づけた。

絶望死の増加の大部分は、学士号を持たない人々の間で起きている。
中年(45歳~54歳)の白人男女全体の死亡率は
過去20年間あまり変化がない。
ところが、1990年代以降、大卒者の死亡率は40%低下したのに対し
大学の学位を持たない人については25%上昇している。

(上野)国合計の自殺率だけを比較すると、
米国の自殺率(10万人当たり約15人)よりも
日本の自殺率(同35-40人)の方が高いのです。
ですが、
米国の自殺者数が近年増大していることが問題視されているのです。

【4.上野の感想
民主主義の先頭ランナー米国は病んでしまったのだ、
これでは独裁専制主義の中国に負けるだろう、と思います。

その原因は著者の判断では、個人の自由の延長の自然な帰結で
歯止めなき能力主義を実践したからだ、ということになります。

能力主義の暴走を押さえるべきだというのが著者の主張です。
著者も能力主義をやめろとは言っていません。

その弊害が少なくなるような対策をとるべきだということです。
それはそうでしょう。能力主義をやめたら、
頑張って成功しようという「GAFAM」の後継が出てきません。
米国衰退に追い打ちをかけることになってしまいます。

西部開拓時代から、米国の指導原理は「強いものが勝つ」です。
それが大国になり、かつ、
多くの国民にとっての経済成長が期待できなくなって、
弱者にも目配りをしなければならなくなったのです。

著者は、国民が一体感を持って、
強い者弱い者がお互いに理解しあうことが
問題の解決策だと言っています。

それなら、今の日本の方がまだましです。
日本では富の偏在も米国ほど大きくないですし
(それを示すジニ係数は米国0.39に対し日本は0.34、
相対的貧困度(所得の中央値の半分以下の所得の世帯率)は
米国17.1に対し日本は14.9)、
会社までが家族主義で、地域社会の町会なども存在します。

目的重視で割り切っている米国で、
会社が家族主義になることは少ないですし、
米国の一般的住居環境では、町会などできようもありません。

ただし、日本も、米国流の考えに毒されてきていますから、
企業の家族主義や町会も衰退しています。
この延長では、今の米国の状況の二の舞になります。
われわれは米国にも頑張ってほしいですが、
日本自身のことを考えなければなりません。

米国をお手本にするのをいいかげんにやめて、
日本の良さを再発見し強化しましょう。

「アメリカにはもう頼れない」は、
2010年の日高義樹さんの著書名です。
その意図は、日本の防衛はアメリカ頼りにはできない、
ということでしたが、社会モデル、ビジネスモデルでも
「アメリカ頼りをやめよう」ということになります。

具体的にはどうするか、ということになりますが、
私の答えはこうです。
2020年7月30日
「心たいせつ」の社会が来ます。
それは「自分の心、相手の心、仲間の心をたいせつにする」社会です。
これからの日本は、IT・デジタル化で勝負するのではなく、
「心たいせつ」社会の先導役を目指す方がよい。
と書いています。

自分の心をたいせつ⇒自分の心に遠慮せずに素直になる。
相手の心をたいせつ⇒相手の心を思いやる。
仲間の心をたいせつ⇒仲間をたいせつにする。
ということです。
本書の主張にピッタリの内容です。

ぜひ、前掲ブログをご覧ください。

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