目的:
マイケル・サンデル教授の最新著書を研究します。
ねらい:
日本の将来に向けて少しずつでも前進しましょう。
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本項は、オックスフォード大学教授マイケル・サンデル氏の
エリートに対する怒りが民主主義を崖っぷちに追いやっている時代には、
能力の問題はとりわけ緊急に取り組むべきものだ。
章 |
内容 |
序論 |
本書全体の課題提起 |
1.勝者と敗者 |
現在は勝者と敗者が鮮明になり、 敗者の反乱が起きているという問題提起 |
2.「偉大なのは善良だから」 |
能力に対する考え方の歴史 |
3.出世のレトリック |
誰でも努力すれば出世できるという 「風説」の批判 |
4.学歴偏重主義 |
米国社会における学歴重視主義の実態 に対する問題提起 |
5.成功の倫理学 |
何が成功をもたらすのかのあるべき論 |
6.選別装置 |
高等教育が人間の選別装置と化している 問題提起 |
7.労働を承認する |
労働の尊厳が回復されるべきという主張 |
結論 |
能力至上主義を打破するための主張 |
「結論」が本書の集大成ですから、そのままを転載いたします。
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今日の社会には、条件の平等があまりない。
階級、人種、民族、信仰を超えて人びとが集う公共の場は極めてまれだ。
(上野注:著者はこのような公共の場があることが
「条件の平等」であると主張しているようです)
40年に及ぶ市場主導のグローバリゼーションが
所得と富の極めて顕著な不平等を生んだため、
われわれは別々の暮らし方をするようになってしまった。
日々の生活で交わることがほとんどない。
それぞれ別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶ。
子どもたちは別々の学校へ行く。
そして、能力主義の選別装置が作動したあと、
最上層にいる人は、自分は自らの成功に値し、
最下層の人たちもその階層に値するという考えにあらがえなくなる。
その考えが政治に悪意を吹き込み、党派色をいっそう強めたため、
今では多くの人が、派閥の境界を超えた結びつきは
異教徒との結婚よりも厄介だと見なしている。
われわれが大きな公共の問題についてともに考える力を失い、
互いの言い分を聞く力さえ失ってしまったのも無理はない。
能力主義は当初、
労働と信仰を通じて神の恩寵を自分に都合よく曲げられる
という前向きな考え方として登場した。
そこから宗教色が取り除かれると、個人の自由が晴れやかに約束され、
こう考えられるようになった。
運命を握っているのは自分自身だ。やればできる、と。
しかし、そうした自由の理念は、
共有された民主的プロジェクトの義務からわれわれの関心をそらすものだ。
第7章で考察した共通善の二つの考え方、
すなわち消費者的共通善と市民的共通善を思い出してほしい。
共通善が消費者の幸福の最大化に過ぎないなら、
結局のところ、条件の平等の達成はどうでもよいことになる。
民主主義が手段の異なる経済(上野注:この句意義不明)、
つまり個人の利害と嗜好の総計の問題に過ぎないのなら、
その運命が市民の道徳的(上野注:日本語では精神的とした方がよい)
絆に依存することはない。
われわれが活気ある共同生活を共有しようが、
同類ばかりが集まる私有化された飛び地に暮らそうが、
消費者的な民主主義概念は
そのごく限られた役割を果たすことができる。
だが、共通善に到達する唯一の手段が、
われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標を巡る
仲間の市民との熟議だとすれば、(上野注:これは著者の仮説)
民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。
多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。
なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、
差異を受容することを学ぶ方法だからだ。
また、共通善を尊重することを知る方法でもある。
人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。
いったいなぜ、成功者が
社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?
その問いに答えるためには、我々はどれほど頑張ったにしても、
自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、
才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、
自分の力ではないことを認めなくてはならない。
自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、
ある種の謙虚さが生まれ、こんな風に思うのではないだろうか。
「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘が無かったら、
私もああなっていた」
そのような謙虚さが、
われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。
能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、
より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。
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【2.上野の本書再構成私案】
余計なお世話ですが、私なら本書の内容をこういう構成で編成します。
1.問題提起
1970年代までは、
全国民(米国)がそれなりの満足を得られる生活をしていた。
ところがこの40年間、
不平等が広がり社会的不満が鬱積してきている。
2.その原因
形式的能力主義がその原因である。
人はその能力・努力により報われることは、
それ自体は悪いことではないが、
現在の能力把握方法では、経済的に恵まれている家庭でないと
「能力」を獲得できなくなっている。
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【3.本書の興味深い内容】
本書を人文科学書として見ると、たいへん興味深い記述がありました。
その中から2点ご紹介します。米国の大学進学競争状態と
社会不満の結果としての「絶望死」の状況です。
「米国の大学進学競争状態」
潜在能力を客観的に測定するSATのような標準テストは、
平凡な経歴の生徒も知的な将来性を証明できると言われている。
だが実際には,SATの得点は家計所得とほぼ軌を一にする。
生徒の家庭が裕福であればあるほど、
彼や彼女が獲得する得点は高くなりやすいのだ。
裕福な親は子供をSAT準備コースに通わせるだけではない。
個人向けの入試カウンセラーを雇い、大学願書に磨きをかけてもらう。
子どもにダンスや音楽のレッスンを受けさせる。
フェンシング、スカッシュ、ゴルフ、テニス、ボート、ラクロス、ヨット
といったエリート向けのトレーニングをさせる。
大学の運動部の新人として採用されやすくするためだ。
こうした活動は、裕福で熱心な親が、
入学を勝ち取れる素養を子どもの身に付けさせるための
高価な手段の一つなのである。
さらに、授業料がある。
十分な予算を持ち学生の支払い能力に関係なく入学を認めることのできる
一握りの大学を除いて、
学資援助の必要のない志願者は、
貧しいライバルとくらべて入学できる可能性が高い。
所得規模で上位20%の家庭の出身なのも当然だ。
プリンストン大学とイェール大学では、
国全体の上位1%出身の学生の方が、下位60%出身の学生よりも多い。
違って能力主義ではない証拠だと指摘する。
「絶望死の状況」
20世紀を通じて米国の平均寿命は着実に伸びた。
ところが、2014年から2017年までの間に伸びはとまり、
この100年で初めて、アメリカ人の平均寿命は3年連続で縮んだ。
その原因は、自殺、薬物の過剰摂取、アルコール性肝臓疾患などによる。
これをプリンストン大学の2学者は「絶望死」と名づけた。
中年(45歳~54歳)の白人男女全体の死亡率は
ところが、1990年代以降、大卒者の死亡率は40%低下したのに対し
大学の学位を持たない人については25%上昇している。
【4.上野の感想】
民主主義の先頭ランナー米国は病んでしまったのだ、
これでは独裁専制主義の中国に負けるだろう、と思います。
その原因は著者の判断では、個人の自由の延長の自然な帰結で
歯止めなき能力主義を実践したからだ、ということになります。
能力主義の暴走を押さえるべきだというのが著者の主張です。
著者も能力主義をやめろとは言っていません。
それはそうでしょう。能力主義をやめたら、
米国衰退に追い打ちをかけることになってしまいます。
西部開拓時代から、米国の指導原理は「強いものが勝つ」です。
それが大国になり、かつ、
多くの国民にとっての経済成長が期待できなくなって、
弱者にも目配りをしなければならなくなったのです。
われわれは米国にも頑張ってほしいですが、
それは「自分の心、相手の心、仲間の心をたいせつにする」社会です。
これからの日本は、IT・デジタル化で勝負するのではなく、
「心たいせつ」社会の先導役を目指す方がよい。
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