2014年10月27日月曜日

愛国精神と共に武士道精神も失っていた!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 新渡戸稲造博士の「武士道」のエッセンスを確認していただく。
 武士道精神が失われつつあることを感じていただく。
 これではまずいのではないかと感じていただく。

ねらい:
 武士道精神に関心をもって行動していただく。
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戦後の「進駐軍」の日本弱体化戦略によって、
日本国民の「精神」は骨抜きになってしまいました。


まずは、徹底した懺悔思想によって
愛国精神が失われました。

国を愛する精神は武力是認を通じて軍国に繋がる
という論理で
国を愛する愛国心の代わりに
抽象的な世界平和主義を叩き込まれました。

この度、石川真理子さんの書かれた
「女子の武士道」を読んで、
今さらながらですが
「武士道精神も失っていた」ことを認識しました。

「女子の武士道」については別項をご参照ください。

武士道も戦後教育で、
単純に武力是認に繋がるという論理で否定されたのです。

その否定論理の成果で??
私も「武士道は武の美化、武力至上主義を謳うものだ」
くらいにしか認識していませんでした。
お恥ずかしい限りです。

【武士道著述の背景】
そこであらためて、新渡戸稲造さんの「武士道」を
矢内原忠雄さんの訳本で読んでみました。

この原著が英語で書かれ、
日本語訳はその後出されたものであることもその時知りました。

当初「武士道」は、
日本の武士道を礼賛するために書かれたものである
と思って読みました。

ところがそうでないことが分かりました。
新渡戸さんは何学者というのが正しいのか分からないくらい
多様な世界に首を突っ込んでおられます。

著名な業績は、日本国多難な時代に1920年から26年まで
国際連盟事務次長を務められたことでしょう。

その間に当ブログの別項でも取りあげました
(「ジャパンバッシング(日本叩き)の底流を探る!
http://uenorio.blogspot.jp/2014/09/blog-post_62.html

人種的差別撤廃条約を
国際連盟で提案し多くの国の賛同を得ましたが、
議長を務めた米国ウィルソン大統領の横暴で否決されました。

新渡戸さん自身は、
キリスト教を信奉し若くして洗礼を受けた信者でした。

その新渡戸さんが
なぜ武士道を世界に知らしめようとしたかですが、
それは武士道を礼賛し世界に普及させようという意図ではなく、
日本国民の思想的バックボーンを理解していただこう、
知っていただこう、という純学者的発想なのです。

したがって、その叙述は主観的・思い入れ的・情的ではなく、
冷静で客観的です。

私としては少し物足りない気がします。
ですが、そのことが本書の価値を高め評価されていることに
つながっているのでしょう。

ルーズベルト大統領も熱心に読んだということのようですが、
これは敵を知るという目的であったろうと容易に想定できます。
(当大統領の悪策略家ぶりは、
日米開戦の作戦で今や余すところなく知られています)

【武士道のルーツ】
本書ではまず、武士道のルーツについて解説しています。


仏教
 運命に任すという平静なる感覚(無常ですかね)
 不可避に対する静かなる服従
 危険災禍に直面してのストイック的なる沈着
 生を賎しみ死を親しむ心

 を武士道に与えた。
 
神道
 主君に対する忠誠
 祖先に対する尊敬
 親に対する孝行 

 「神道の教義には、
 わが民族の感情生活の二つの支配的特色と呼ばるべき
 愛国心および忠義が含まれている」

孔子の教訓(儒教)
 武士道の最も豊富なる淵源である。
 君臣、父子、夫婦、長幼、朋友間における五倫の道は
 儒教が入ってくる前から民族的本能として備わっていた。

 政治道徳に関する教訓は、処世の智恵に富み
 治者階級たる武士によく適合した。
 孔子の貴族的保守的な言は
 武士たる政治家の要求によく適応した。

武士道精神は、以上のルーツを混然一体と合成している。

【武士道精神の内容】
本書で、「武士道」で解説している徳は以下の内容です。

「武士道」
「武士道」での解説
孔子
(儒教)
骨、人の路、「正義の道理」、
義と勇は武徳の兄弟
勇とは義(ただ)しきことをなすことなり。

人を思いやる心、柔和なる徳
他人の感情に対する同情的思いやり
が外に現れたもの
信実と誠実、「武士の一言」
名誉
名誉の感覚は人格の尊厳および価値
の明白なる自覚を含む。名、面目、外聞

忠義
目上の者に対する服従および忠誠
教育および訓練
目的は知の向上ではなく、叡智・
品性を建てること
克己
心情を安易に外に出すことを控える。






 
右欄に表示しました儒教の徳目(北条重時の家訓)である
「仁義礼智信忠孝悌」と比較しますと、
以下の相違があります。

武士道にあって儒教にないもの
 勇、名誉、克己
これらは武士道としては非常に重要な徳目です。

儒教にあって「武士道」にないもの
 孝 
 新渡戸さんはこれを軽視したのではありません。
 「武士道」はその徳目の解説をすべて
 欧米文学または慣習等の引用をして
 日本が異端ではないことを説明しています。

 「孝」は外国にその引用事例が見いだせなかったので
 解説しなかったのだそうです。
 ということは、孝については欧米では重視していないか、
 当然過ぎて論じていないのでしょう。

 悌 (兄弟愛)
 孝や忠があるから悌もという感じで
 特別に論じるに値しないということでしょうか、
 そのことについては何も触れていません。


ここで、欧米の類似例を引用する「武士道」の叙述スタイル
の例を示します。
「勇」の解説です。
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勇気は、義のために行われるのでなければ、
徳の中に数えられるにほとんど値しない。

孔子は「論語」において、
その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下して
「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いた。

この格言を積極的に言い直せば、
「勇とは義(ただ)しき事をなすことなり」である。

あらゆる種類の危険を冒し、一命を危うくし
死の顎(あぎと)に飛びこむーー
これらはしばしば勇気と同一視せられ、
しかして武器をとる職業においてはかかる猪突的行為ーー
シェイクスピアが呼んで「勇気の私生児」と言えるものーー
が不当に喝采せられた。

しかしながら武士道にありてはしからず、
死に値せざる事のために死するは、
「犬死」と賤しめられた。

プラトンは勇気を定義して、
「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」
と言ったが、
プラトンの名を聞いたことさえなかった水戸の義公も、
「戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業にて
いかなる無下の者にてもなしえらるべし。
生くべき時は生き、
死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり」
と言っている。

西洋において
道徳的勇気と肉体的勇気との間に立てられた区別は、
我が国民の間にありても久しき前から認められていた。
いやしくも武士の少年にして、
「大勇」と「匹夫の勇」とについて聞かざりし者があろうか。
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まさに縦横無尽ですね。

 
忠は日本の中で強化された徳目ではないでしょうか。
しかし、忠は悲しい物語が多すぎます。

四十七士とか
本書でも紹介された菅原道真の子の身代りになって
部下がその子を本人の同意も得て首をさしだした、
天皇に対する忠で特攻隊を志願したとか。

私は、現代で重視すべき徳目は、以下の5項だと思います。
皆様はどう思われますか?

 仁、義、礼、誠、克己

武士道から少しずれるかもしれませんが、
人の倫(人倫)として最大の守るべき筋は
「人さまに迷惑をかけない」
「人さまに不快な思いをさせない」
ことだと思います。

「女子の武士道」はそれに徹している感じがします。

武士道からするとかなりレベルが低いですが、
日本の精神(道徳)教育はそこから始まるのではないでしょうか。

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10月21日に中央教育審議会は、
文科相に道徳の時間を教科に格上げする答申を行いました。

この時間の学習目標は、
「様々な問題や課題を主体的に解決し、
よりよく生きていくための資質・能力を培う」
ことにするようです。
実現は2018年からになるようですが(時間がかかりますね――)、
期待しましょう。
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【武士道の将来】
「武士道」の最後の第17章に、「武士道の将来」がありますが、
結論はこうなっています。
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キリスト教と唯物主義(功利主義を含む)は、
世界を2分するであろう。
小なる道徳体系はいずれかの側に与して自己の存続を計るであろう。

武士道はいずれの側に与するであろうか。
それは何らまとまりたる教義もしくは公式の固守すべきものなきが故に、
全体としては身を消失に委ね、
桜花のごとく一陣の朝風に散るを厭わない。
しかしながら完全なる絶滅がその運命たることは決してありえない。

中略

武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、
しかしその力は地上より滅びないであろう。

その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかもしれない。
しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。

その象徴(シンボル)とする花のごとく、
四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、
人類を祝福するであろう。

百世の後その習慣が葬られその名さえ忘るる日到るとも、
その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」
遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。

この時かのクェイカー詩人の美しき言葉に歌えるごとく。
 いずこよりか知らねど近き香気に、
 感謝の心を旅人は抱き、
 歩みを停め、帽を脱りて
 空よりの祝福を受ける。

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美しい文章ですね。
文章自体は矢内原忠雄さんのものですが、
思いは新渡戸稲造さんのものです。

最後は
クェーカー教徒としての新渡戸さんらしい結びをしています。

「武士道の将来」は、
現在ほぼ新渡戸さんの書かれたとおりの状態で、
今や武士道として認識することなく、
日本人の心の中に留まっているのです。

武士道が残っていてほしいかどうかという主観は別として、
客観的という視点はすごいものですね。
正解を導き出すのですから。


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