2023年11月24日金曜日

「事務に踊る人びと」

[このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「事務」について多角度から眺めた書籍をご紹介します。
ねらい:
 詳細内容はご紹介していませんので、ご関心ある方は
 直接本書をご覧ください。
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本テーマは、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
阿部公彦教授の「事務に踊る人々」の難しいご紹介です。


この書籍は、日経新聞の書評に
事務の本質を解明した、ようなことが書かれていましたので、
「怪しい」と思いながら、つい買ってしまいました。

本書の「はじめに」にこう書かれています。
全文をご紹介します。これが本書のすべてです。

私も、いわゆる「事務屋」の端くれですが、
「だからどうなの?」という一般の読者に役立つことが、
ほとんどないのです。
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事務というと何が思い浮かぶだろう。
事務仕事、事務能力、事務所、事務机ーーー。
こうした言葉から連想されるのは何より仕事や作業の場であり、
そこには道具もついて回る。
昔ならソロバンと鉛筆。
その後はファックスとか、指先にピッタリはめるあの小さなゴムとか、
茶色い封筒とか、最近はパソコン、プリンター、USB,QRコードなど。
比較的息が長いものもある。給茶機、ホワイトボード、付箋。
もう一押しすれば、透明のビニール傘が何本も挿った傘立てとか、
個包装のカントリーマアムとか、
あるいはデスクの引き出しの隅に転がった十円玉や一円玉も事務っぽい。

誰もが心に「事務センサー」を持っている。
しかし、いつセンサーが反応するかは個人差がある。
私の場合、特に事務センサーが働くのは「添付ファイル」だ。
届いたEメールに添付ファイルがくっついていると、
事務モードを感知してたちまち心は曇る。
添付物をクリックしてから開くまでの零コンマ数秒は「悪魔の間」だ。
目は輝きを失い,頬はどろんと垂れ下がり、気持ちは白濁する。

もちろん事務に罪はない。
私も人に添付ファイルを送りまくっている。
他ならぬこの原稿もワードの添付ファイルで担当の斎藤さんに送ったものだ。
添付ファイルには苔のように事務成分が張り付く。
私は斎藤さんに事務苔を送り付けたのである。

いったい誰が悪いのだろう。どこに悪者がいるのか。
そもそも事務は「悪い」のだろうか。
加害者なのだろうか。ならば被害者は一体誰だというのか。
事務がいったい何をしたというのだ!

というわけで、このささやかな思弁からもわかったように、
私は本書を通し、現代の社会で不当に軽視され、嫌がられ、
時には蔑まれさえしてきた事務の営みについて、再考したいのである。
可能であればその汚名を晴らしたい。
汚名どころか、事務には美名がふさわしいのではないか。
事務は魅惑の世界への入り口ではないのか。
事務は人類の知恵であり、救いなのだ。
事務のおかげでこそ、私たちは今、このように暮らすことだできる。
事務は文化と文明の担い手だ。
(上野注:事務ではなく、言葉ではないでしょうか)
広大な事務の楽園では、事務の子羊や事務の兎が駆け回る。
なんと甘美な光景だろう。思わず目頭が熱くなる。

少し褒めすぎた。事務はそこまで甘美なものではない。
私たちは事務の現実を知っている。
事務は面倒くさく、複雑で、抑圧的だ。
事務を前にして、私たちはいつも「しまった!」と言わされる。
それが私たちの宿命なのだ。
そんな事務の現実を見据えながら、
それでも私たちが事務にとりつかれてきた、
その跡をたどってみよう。
人類と事務の間に、いったい何があったのだろう。

本書は12の章からなる。
第1章では、
現代社会の中で「事務」がいかに重要な位置を占めているか、
にもかかわらずどのように疎まれているかを確認した上で、
書類仕事が武力にとってかわった画期としてフランス革命をふり返る。
日本では官僚制が整備されたのは明治期になってからだった。
この時期に事務と周辺概念が輸入され、言葉もつくられた。
そんな中で頭角をあらわした人物の一人に夏目漱石がいる。
漱石に注目すると見えてくるのは、
事務と相性がいいのが教育現場だということだ。
第2章では漱石の四角四面ぶりに事務の影を見る。

第3章以降は、事務処理化が進んだ現代社会に訪れた大きな変化として
「注意深さ」の偏重に注目する。
「注意の規範」が社会を覆うにつれ、私たちは新しい病にも直面した。
事務が生んだ、独特の現代病である。

現代社会には、
事務ならではの感性や、事務についてまわる宿痾があふれている。
たとえば事故/ミス。遅延。面倒な形式の束縛。硬直。しつこさ。
こわわり。
しかし、これらは事務を円滑に行うために必要なものばかりだ。
事務を事務たらしめるのは細部への注目である。
しかし、こうした注視や認知といった行為自体が、
本来の必要性を逸脱するほどの過剰さで人々を魅了するようになる。
倒錯的な事務愛の始まりだ。
細部へのこだわりには、事務の魅惑と疑惑をとき明かす鍵がある。

私は長らくグリッド(格子模様)の図像に魅せられてきた。
今回、事務に注目することで、
格子模様の深い意味をあらためて思い知った。
格子に沿って目を光らせ、格子に沿って歩くとき、
不思議な心境へと至る。
鉄道趣味はその代表例の一つだ。
格子には事務の奥深さが滲み出ている。

文学はしばしば事務の敵のように扱われてきたが、
いやいや、そんなことはない。
むしろ事務の人材は文学界に豊富にいる。
「がリヴァー旅行記」のジョナサン・スイフトからチャールズ・ディケンズ、トマス・ハーディ、E・M・フォースター、小川洋子、西村賢太、三島由紀夫、ハーマン・メルヴィル、川端康成など、
事務を介して読んだり語ったりすることで
新しい魅力を見せる作家たちが大勢いる。

本書の後半にかけ徐々にはっきりするのは、事務と死の親和性である。
事務は私たちに死の世界を垣間見せてくれる。
事務の本領は、、遺産相続や家系など死にまつわる記録の扱いだ。
そんな考察をへて第12章では
本書のまとめとして事務の人間性/非人間性を話題にする。
事務は人間を越えることで人間をコントロールしようとする一方、
ときには―――生成AIを典型にーーー上手に”人間のふり”をする。
その気持ちの悪さを示したのが、
ハーマン・メルヴィルの究極の事務小説「書記バートルビー」だった。
言葉の使い方次第で人間関係はどのようにも変わるが、
最終章では事務の介在した言葉が
どう人と人の距離の調節にかわかるかを確認したい。

本書は事務について結論や規範を提示するものではない。
むしろ事務がいかに規範的に振る舞うかを示したい。
その規範の背後には人間らしい要素があり、
そこに注目すると私たちがふだん馴染んでいる日常の裏が見えてくる。
事務文書と対立すると考えられがちな文学作品だが、
文学の言葉は事務と深く結びつくことで機能を発揮してきた。
事務をめぐる探求は「文学とは何か」という問いにつながるものなのである。
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本書は、このように著者は何を言いたいのかよく分からないのです。
以下に上野の感想を延べさせていただきます。

1.ストーリ展開がいい加減
この「はじめに」で、「本書は12の章からなる、第1章では」とくれば、
すべての章の紹介があるのではないかと思います。
ところが、それは第2章で終り、
次は「第3章以降は」とひとくくりになってしまっています。
順に展開していくストーリはないということなのです。
あれやこれやを述べまくる、という感じです。
典型的、人文科学的アプローチです。

各章の章名をご覧ください。
 第1章 漱石と大日本事務帝国
 第2章 事務の七つの顔
 第3章 事務処理時代の「注意の規範」
 第4章 「がリヴァー旅行記」の情報処理能力
 第5章 「失敗」から考える事務処理
 第6章 身体儀式と事務の魔宮
 第7章 事務を呪うディケンズ
 第8章 鉄道的なる事務
 第9章 エクセル思考で小説を書く
 第10章 事務の「感情」を考える
 第11章 事務に敗れた三島由紀夫
 第12章 事務と愛とバートルビー

2.結局何を言いたいのかあいまい
「はじめに」の終りがこうなっています。
事務文書と対立すると考えられがちな文学作品だが、
文学の言葉は事務と深く結びつくことで機能を発揮してきた。
事務をめぐる探求は「文学とは何か」という問いにつながるものなのである。
ということからすると、事務と文学との関係を見直そう、
ということのようです。

しかしそのことは、
「事務に踊る人々」という書名とも結びつきません。

3.独断的・感想文的な記述です。
本書は、事務なるものについていろいろな角度から分析をしたという点で
初の試みで素晴らしいと思います。
しかし、著者の意見の多くは、独断的で感想文的な内容です。
学者さんはこんなことを述べていれば仕事になるのか、
と羨ましくさえ思います。」

4.「まともな事務論」を期待
この第2章の事務の七つの顔では、その7つはこうなっています。
 1.形式
 2、注意
 3.時間
 4.情報共有
 5.もの
 6.権力
 7.負の要素
これらについて、きちんとした分析をすれば、
「まともな事務論」になったのに、と思われます。

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