2023年10月26日木曜日

「ヒトの原点を考える100点」はスゴイ!!

 [このテーマの目的・ねらい]

目的:
 人類の肉体は狩猟採集生活で作りこまれている、
 そのために、今の生活形態は歪みが出ている、
  ということを知っていただきます。
 著者の目から見た現在の日本の欠点をご理解いただきます。
ねらい:
 ぜひ、本書をお読みください。
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本項は、「ヒトの原点を考える」の紹介ですが、副題は
「進化生物学者の現代社会論100話」となっています。
元は、雑誌「財界」に2018年9月11日号から連載されたもので
1編は2ページに区切れた読み切りになっていますので
たいへん読みやすくなっています。

この著者の長谷川眞理子さんは、
総合研究大学院大学名誉教授、日本芸術文化振興理事会理事長です。
なかなかのご見識です。

勝手ながら、その100話の中から、私が特に感心した部分を
以下にご紹介します。
最後の2項は、原文をそのまま転載しています。
他はもとの章の部分であったり、
いくつかの章の内容を合体したりしています。

書名は「ヒトの原点を考える」ですが、
実態は「ヒトの原点から今を考える」が大半です。
その「考え」はたいへんご尤もで参考になります。

1.人類の歴史
人類という生物が他の類人猿から分かれて進化したのが600万年前、
今の私たちと似たような体形のホモ属という人類が出現したのが
200万年前、
私たち自身であるホモ・サピエンスが進化したのが20万円前である。
その長い進化史のほとんどにおいて、人類は狩猟採集生活をしていた。
(多くの地域で農耕生活が始まったのは1万年前である。
1万年は20万年の5%に過ぎない、ということです)

2.狩猟採集生活向きの人体特性
私たちの体の基本設計は、狩猟採集生活に基づいている。
狩猟採集生活は、野生の動物や植物をとって食べる、放浪の生活だ。
とても大変で、
飢餓とすれすれであるかのように想像するかもしれないが、
そうでもない。

それは決していろいろなものにあふれたという意味での
「豊かな」生活ではないが、ある意味、
豊かでとても健康な生活なのである。
野生の動物を追跡し弓矢や罠でしとめたり、
食べられる植物をさがしたりすることは、
とても難しくて先の見えない生活のように思うかもしれない。

今の私たちが、急に狩猟と採集で生計を立てろと言われたら、
それは無理だろう。
しかし、狩猟採集民は、私たちと同じ脳を持った人間だ。
私たちが今の複雑な産業社会を生きるために使っている能力のすべてを
狩猟採集の技術に投入したら、
そして、そのような生活を代々受け継いできたならば、
結構うまくやっていけるのだ。

現在もまだ狩猟採集生活を続けている人々の暮らしを基に、
さまざまな研究を合わせると、
狩猟採集者が食物その他のために働く労働時間は、
毎日平均5時間ほどだ。
大型獣はいつも獲れるわけではないので、
毎日の栄養源は植物などである。
球根や根茎、種子、葉、果実、昆虫、魚介など、実に種類が豊富だ。
そのために栄養全般がバランスよく保たれていた。
農耕が始まり、米や小麦など少数の食品に頼るようになって以後、
カロリーは増えたが栄養は偏り、健康状態はむしろ悪化した。

狩猟採集生活はまた、よく移動する社会である。
みんな毎日10キロ以上は歩く。
そして、何かの職の専門家などはいないので、狩猟と採集のみならず、
キャンプで掘っ立て小屋を建てる、火を起こす、調理をする、
子どもの世話をする、病気やけがに対処するなど、
個人がだいたい何もかもできねばならない。

現代の暮らしはすっかり様変わりだ。
自然から切り離され、オフィスで座り続ける仕事。
1日30種類以上のものを食べましょう、毎日1万歩歩きましょう、
と言われるが、
普通に暮らしていればそれすら難しい。
健康のためには、30分おきにストレッチをしたり、
1時間おきに歩き回ったりするのがよいそうだが、
オフィスでそんなことできるだろうか。

これまでの人類進化史の中で、糖分や脂肪が、
現在のように安くてあり余るほどあった時代はない。
常に糖分や脂肪は、
得るために努力しなければならない貴重な資源だった。
いったん手に入れば、存分に食べる。
今度いつ手に入るか分からないから。
そこで、今の私たちの体には、
糖分や脂肪の摂取を控えるようにするシグナルは備わっていない。
進化史の99%において、
糖分や脂肪がふんだんにある状況などなかったからだ。
それが、メタボなどの健康障害をもたらすことになった。

上野コメント
今の人間の体は、
20万年の狩猟採集生活に適合するように作られてきたので
それから外れた現代の生活は人間の心身に大きなムリを与えている
ということなのです。
狩猟採集生活時代には、うつ病や肥満症などなかったでしょう。

3.人間の脳の大きさ
ヒトの脳は同じ体重のサル類の3倍の大きさがある。
脳の重さは体重の2%ある。
ゾウ、クジラ、チンパンジーなどは
体重に比べて大きな脳を持っているものの、
それはせいぜい1%なのである。
2%の脳がエネルギーの20%を使っている。
そのエネルギーの確保を可能としたのは、火の利用である。
食べ物を火で温めることによって消化をよくし、
大量のエネルギー摂取を可能としたのである。

火を通した食べ物を食べるおかげで、
ヒトの腸は、この体重の哺乳類としては極端に短い。

人類進化のどこかの時点で、ヒトは火で調理することを始め、
超が短くてもよくなった。
そして、そこで余ったエネルギーを脳に回す余裕ができ、
実際に脳が大きくなれたということだ。

4.人間の赤ん坊
サルや類人猿だけでなく、シカもイノシシも、
野生動物の赤ん坊は、決してぎゃあぎゃあ泣いたりしない。
そう言えば、猫や犬の赤ちゃんも、
ぎゃあぎゃあ泣かないではないか。
その理由は簡単だ。
大声で泣けば、捕食者に見つかって食べられるリスクが高いからだ。

なぜヒトの子どもは大声で泣くのだろう?
哺乳類の赤ん坊は、たいていは母親のすぐそばにいる。
だから、不具合を母親に知らせなくてはいけないとしても、
それほど大きな声を出す必要はない。
しかし、ヒトの赤ん坊は、母親にしがみつくことはできず、
どこかに置いておかれることが多い。
そうだとすると、時に大声を出す必要はあるだろう。

でも、それだけだろうか。
私は、これは、ヒトが共同繁殖であることと関係があると考えている。
ヒトは、両親、兄弟姉妹、祖父母等が家族を形成する。
そして、そのような家族がそれぞれ孤立して暮らすのではなく、
多くの家族が一緒に集まって暮らしている。
血縁も非血縁も含めて多くの人々が協力し合わねば暮らしていけない。
それは子育ても同様で、子どもを育てるためには多くの人がかかわる。
そういう状況で、
子どもの具合が悪かったり何かが不満足だったりする時、
世話をしてくれるのは親だけではない。
何かしてくれるだろう潜在的な存在は周囲にたくさんいる。
そこで、子どもは大声を出し、
そういう人たちをリクルートしようとしているのではないだろうか。

今の核家族、個人主義の都市生活では、
誰もよその人に気軽に声をかけることはしない。
だから、電車の中などで子どもがぎゃあぎゃあ泣くと、
親だけがなだめようとし、周囲に恐縮するばかり。
この光景は、
ヒトの進化史と現代社会のギャップの象徴だと思うのだ。

上野コメント:オモシロイ意見ですね。

5.犬の経緯、猫の経緯
犬はオオカミを家畜化した動物だ。
祖の起源は1万5千年ほど前だと言われているが、
新しい遺跡や分析資料が出てくるたびに、この年打は古くなる。
それでも、だいたい数万年前というところだろう。

ネアンデルタール人は、ヨーロッパでおよそ3万年前に絶滅したが、
彼らは犬を飼っていなかった。
同時代に共存していた私たちの祖先のホモサピエンスが生き延び、
ネアンデルタール人が滅んだ原因の一つに、
犬の力があったと考える学者もいる。

参考:ネアンデルタール人が滅んだ理由
2016.10.31
上野則男のブログ: 人類進化の謎を解く2冊、なぜネアンデルタール人は滅びたのか?
(uenorio.blogspot.com)
ここでは、ネアンデルタール人が滅んだのは、以下が原因だとされています。
1)共同体規模が小さく協力し合える限界が限られる。
2)前頭前野の発達が小さく、計画・予測能力が不足した。
3)現生人類は針を開発し衣服を縫うことができた(防寒機能大、
  ネアンデルタール人は寒冷化に対応できなかった)

犬はもとは狩猟の手伝いである。
数あるテリアのたぐいは、ネズミ獲りやキツネ狩りのために作られた。
オオカミは集団で暮らし、個体の間に厳しい順位関係がある。
犬はそのような動物を家畜化したので、
やはり順位関係の厳しい社会を作る。

だから、誰が一家の長であるかをすぐに見分ける。
わが家では、圧倒的にうちの亭主が「長」で、
私は「友達」にすぎない。
最近の研究によると、犬は飼い主と目を見合わせる。
オオカミはこのようには互いに目を見合わせない。
ヒトは、互いに目を見合わせて親愛の情を育む。
おそらく、オオカミを家畜化して犬にする間に、
少しでも多くヒトと目を見合わせて情を通わせる個体を
人為的に選択してきたのだろう。
その結果、今では、
犬はヒトと目を見合わせて愛情を育む動物となったのだ。

猫は犬とは違って、
特に人間によって「家畜化」されたのではないらしい。
人間が農耕を始め、穀物が収穫されるようになると、
それを狙ってネズミなどが集まってくる。
それを狩ろうと野生の猫たちが人間の集落の近くに寄ってきた。
そして何となく居ついてしまった、
というのが飼い猫のれきしであるらしい。

現在の飼い猫たちの遺伝子は、古代からほとんど変わっていない。
人間にとってはネズミを獲ってくれるので便利、
猫にとってはネズミの近くにいられるので好都合、と言いうことで、
両者は互いにあまり干渉せずに共通の利益を得てきたのだろう。
だから猫は、今でもツンとして孤高を保っている。

6.第82章 リスク回避だけの社会
先日、久しぶりに地元の葉山で花火大会があった。
コロナ禍でもう2年間、花火大会は開催されなかった。
またもやコロナの感染拡大が激しいこの頃なのであるが、
あえて開催されたのは本当に嬉しい限りである。
花火は素晴らしかったし、
それを見る一瞬があることで、心がとても癒された。

リスクだけを考えていれば、何もしないのが最善であろう。
しかし、物事には、リスクもあればベネフィットもある。
昨今の日本は、リスク回避に重点が置かれ過ぎている結果、
ベネフィットのことは忘れているように思えるのだ。
この先の感染拡大に対して何をするのか、
いろいろと考慮せねばならないことはたくさんあるだろう。

しかし日本では政府が法律で強制的に人々の行動を制限することは
できないので、所詮は「お願い」となる。
それを聞くか聞かないかは個人の選択だ。
しかし、日本には「個人」がないので、
これにどう対処するかは、同調圧力に頼ることになる。
(上野:なるほどそういうことですか)

同調圧力とは何か。
それは、個人が自分の判断によって行動を決めるのではなく、
周囲の人々がどう行動するのかに応じて
自らの行動をそれに合わせねばならない、と思う心情だ。

おそらく各人はそれそれに自分の判断を持っている。
しかし、それを素直に表出することはできず、
まずは周囲の行動を見る。
ここで、もしも自分は勝手にやるという意思表示をして、
そう行動する人々が一定数入れば、
同調圧力はそちらの方に動くのだろう。

しかし、そうではなくて、
自分は勝手にやるという判断を表示したくないとなると、
まずは何もしないで周囲を見ることになる。
そういう人がある程度の割合でいると、
それを見ている人たちは
「そうか、何もしないのが一般的なのか」と思って何もしない。
その結果、誰もそれを欲していないのに、
自分の判断で好きなようには行動しない、というほうに傾いていく。
(上野:なるほど)

感染したらいけない、クラスターが出たらいけないなど、
リスクだけを考えれば悪いことはたくさんある。
しかし、人々が集まり、花火やショーなどを見て心が癒されたり、
新しい機運が出てきたりするのであれば、
それは大きなベネフィットだろう。
しかし、それは考慮せずにリスクだけを考えて行動するのだとすれば、
それは何もしないのが最適となってしまう。

こんな心情の文化からは、
イノベーションも新しい発想も冒険も何も出てこられず、
ただ縮小する以外にないのではないか、花火を見ながらの感想である。

(上野:失われた30年の原因の一つはその国民性ですね。
ユデガエル日本は、同じ方向にズルズル進んで行ってしまうのです)

参考:
上野はその著「価値目標思考のすすめ」において、
日本人の思考特性を以下の図で表現しました。
これの中の「和の重視」のところに
同調圧力をかっこ書きで入れた方がいいようです。

なお、価値目標思考につきましては、
システム企画研修社の研修の必須内容となっています。




7.第100章(終章) 人間を助ける機械とは
昨今の情報技術の発展は目覚ましい。
たしかに世界は、そのおかげでここ数年の間に激変した。
少し前までは思いもつかなかったような大量のデータを
扱うこともできるようになった。
何でも機械がやってくれるような社会が来るという期待の一方、
人間の職業の多くが機械に奪われてしまうなどの危惧も
ささやかれている。

英国、オックスフォード大学に
スーザン・グリーンフィールドという神経科学者がいる。
1990年代の彼女の本の1冊に、
未来の人間社会を想像したところがあった。
脳科学と情報技術が発展して、脳の快感を制御する部分に
自在に働きかけることができるようになった世界だ。
そこで人々は何もせずに、
薄ぼんやりと開けた目でバーチャルリアリティの世界を眺め、
ほんわかとした快感に包まれて時間をつぶしている。

まるで麻薬中毒患者のようだ。
みんながこんな暮らしになるなんて嫌だなあと思ったが、
どうだろう。
こんな世界になっていないが、
今流通しているゲームやソーシャルメディアその他のアプリは皆、
人間の欲求にすり寄るものであり、やめることが難しい。
電車の中でも街中の通りでも、ほぼ8割の人が
スマートフォンの画面に釘づけになっている光景は奇異だ。

先日、ある会合で、情報関係の研究者の話をきいた。
その人は、情報技術が人間の能力に取って代わるのではなく、
人間が自分で何かを達成するのを助ける働きをするべきだと
考えを変えたそうだ。
掃除も洗濯も機械でできます、ロボットがご注文を承ります、
配達もします、お勧めメニューもお見せします、ではなく、
ある人が何をしたいか、
それをその人が自分で達成するにはどんな手助けをしたらよいかという
観点から考えたいということだ。

つまり、技術の発明や改良を考えるのが楽しい研究者の側から
何が出来るかを追求していくだけではなく、
人々が幸せで充実感のあり生活を送ることを大目標とする。
そして、その目標を達成するためには、
AI、ロボット、情報技術がどのように役立てられるかを
考えるのである。

たとえば、テニスが上手になりたいと思う人には、
自分で実際に上達するように仕向けるアプリを提供する。
目標は本人が上達することであって、
バーチャルリアリティの世界でテニスをすることではない。

昔から発明、改良されてきた様々な技術の多くは、
人間の肉体的な重労働を軽減するものだった。
それにもいろいろな副産物があるのだが、
これからの技術には、
人間が幸せに暮らすとはどういうことかをまずは検討し、
その実現のためには何をするべきかについて、
より深く考える必要があるのだろう。

上野:そのとおりです。
「人類を幸せにする」という目的思考で行動すればよいのです。



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