2021年3月25日木曜日

島精機製作所島会長もスゴイかたです!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 2021年3月の「私の履歴書」ご登場の島精機製作所
 島正博会長のご成功人生の一部をご紹介します。
ねらい:
 こういう方が輩出されれば、
 日本も捨てたものではないですね。
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2021年3月の日経新聞私の履歴書は、
島精機製作所創業者島正博会長です。
島精機製作所は創業50年、主にニット編み機の製造業で
年商61億円、従業員連結で2千人の会社になっています。

島会長は、凡人とは違う発想ができる天才肌のかたです。








以下、気が付きましたことを挙げさせていただきます。

1.天才性
島会長は、凡人とは違う発想ができる天才肌のかたです。
発想の素晴らしさとしては、こういうことが紹介されています。

1)小学4年の時に、お母さんと妹がチフスに感染しました。
 本人は無事だったのですが、自宅待機となりました。
 その時に、クモの巣が目につきました。

クモはいつも巣の真ん中に陣取っているが、
獲物が巣にかかると素早く捕獲しまた中央に戻る。
どこへ行くにも最短距離だ。

「なるほど、真ん中にいれば常に360度を見渡せる。
獲物への距離.原点に戻ることが大切なんやな」

後年、私はこれを「クモの巣理論」と名づけ、
開発に行き詰まった時は迷わず初心に戻り、 
周囲を見渡してリセットすることを心がけた。


2)常時、開発機の改善を考えていましたが、
 76年春、コンピュータ制御の進んだ編み機を検討中に、
 たまたま訪れた工場の印刷機械にくぎ付けになりました。

このオフセット印刷機械は3原色の組み合わせですべての色を出している、
この方式を使えばそれまでのオンオフ2進法の限界を突破できる
コンピュータ制御が可能になるのではないかと着想したのです。

この発想が81年に完成した
自動制御ソフト搭載シマトロニックデザインシステムにつながりました。

3)母親の内職の編み機をはじめとして、
 機械には小さな時から大きな興味を示しました。
 中学のときには発明少年と言われ、
 17歳で実用新案登録をされています。

3月28日追記
27日・28日に衣類の全自動編み機の発明が載っていました。
それまでは、胴体・腕などの部分を労働によってつないでいました。
そのため、最終製品への仕上げは労賃の安い海外で行われていて、
日本のニット産業を圧迫していました。
その解決をされたのです。
このスゴイ発明は、ある会議中に閃いたのだそうです。

2.逆強に育てられた
敗戦後の厳しい環境で苦労されています。
父親は戦争で帰らぬ人となり、母親が家計を支えました。
生活保護を受ける苦しい生活をされました。

そういう中で生きるために、小学生のときから
農業・漁業・機械修理などたいへんな経験をされています。

100坪くらいの土地で、
カボチャ、ナス、サツマイモ、トマト、キュウリなどを作りました。
付加価値をつけるために天ぷらにして販売することなどもしました。

「漁業」での成功例は、ウナギです。
ウナギは樟脳のにおいに集まると聞き、
楠の枝を川岸に沈めて置いたら1回の仕掛けで100匹釣れた
こともありました。

何でも工夫をされています。逆強が強い人間を育てたのです。

3.エピソード
1953年16歳の時に、新聞の勧誘員のおじさんがやってきました。
「うちは生活保護を貰っているくらいだからそんな金はない」と断ると、
「島正博か、ええ名やな。晩年大いに成功する」とのご託宣でした。

「だがな、気い付けなあかん。身体を壊して36歳で死ぬかもしれん」
「新聞はもういいから代わりにその分貯金しなさい。
いつかきっと役に立つ」と付け加えられました。

予言が当たって「大いに成功」が実現し、
貯金が役に立つことも起きました。

そうすると俄然36歳が気になりました。
しかしそれを乗り切ることができました。

4.運
島会長は運にも恵まれています。
前掲の36歳の危機も、
大きな幸運の神がついて厄を追い払ってくれたのでしょう。

1964年に、新型編み機の故障が多く売上が低迷し、
改良型編み機の開発に注力していましたが
開発は停滞していました。

12月末の60万円の手形決済のめどが立たずに、
専務と二人で、ダメなら列車に飛び込むしかない
と覚悟をしていました。

ところがクリスマスイブに、
見知らぬ初老の紳士が風呂敷包みを持ってやってきました。
そこに入っていた100万円を出し、
「できたところ払いでいいから使ってくれ」と言うのです。

まさに神様です。

その謎はこうでした。
当時和歌山県の経済部長をしていた方が、島さんにほれ込み、
資金に困っていると聞いて部下に「応援者を探してあげろ」
と指示していました。

それが実を結んだのです。
島さんの日頃の言動の成果とも言えますが、
いい相手が見つかったというのは、やはり「運」です。

5.優秀なプレーヤー
島会長は、自ら製品発想をし、
それを作る機械を自ら製造した優秀な製造技術者です。

そして、
1967年のスイスで開かれた「国際繊維機械見本市」以来、
イタリア、フランス、スペインの市場開拓を
単身(通訳付きではありますが)で実施されました。
優秀なセールスマンでもあるのです。
以後50年で訪問先は5千社を越えます。

6.経営方針
的確な経営判断をされています。
1)製造は内作
創業時から一部の部品を除き製品はすべて内作でした。
これによって、製品・製造技術の進歩・革新への対応が早いだけでなく、
コストダウンにもつながり、
他社の水準に比較して半値程度の価格設定が可能となり、
市場の拡大になりました。

2)販売も直販
1980年、
それまで10年近く販売代理店だった伊藤忠商事との契約を解除し、
直販体制としました。

これによって、顧客との距離が近くなり、
製品のレベルアップにも貢献しました。

7.不祥事
嫌なことが起きなかったわけではありません。
1)1972年から3年間、深刻な労働争議に巻き込まれました。
年3回のボーナス支給を含め「会社、株主、社員の利益3分法」
を実施していたにもかかわらず、です。

争議の原因の紹介はされていませんので分かりません。
(あまり触れられたくないことなのでしょう)

2)1974年、盟友だった専務が自殺されました。
専務は労働争議の矢面に立ち、資金繰りに奔走するなど、
あらゆる内務をこなしておられました。

島社長は、専務がそんなに追い込まれているとは
気がついていませんでした。

因みにこの1974年は、
島さん36歳危機予言の年の翌年です。
専務が身代わりになったのかもしれません。

この2点を見ると、島会長は根っからの技術者・プレーヤーで、
本当に相手の立場を考えるマネジメントセンスは、
あまりなかったのではないかと思われます。

多くの人間は、プレーヤーが得意か、マネージャーが得意か、
いずれか、です。
どちらのタイプが成功するかは、業種によります。

こうしてみますと、
島会長も、これまでの「私の履歴書」ご登場成功者のかたの成功要因である

1)素質
2)原体験
3)運


にピッタリ当てはまります。

島会長の場合は、この3点に
4)逆境 が加わっています。

厳しい状況になると「なにくそ」と闘志が沸いて頑張られたのです。

残念ながら今の日本では、厳しい逆境は期待薄ですね。

ところで、島精機製作所の社長はご子息の島三博氏が継いでおられます。
ですが、島精機製作所は、
島正博さんの並々ならぬ才能・力量で発展した会社です。
このビジネスモデルは引き継げません。

申し訳ないですが、これまでのビジネスモデルでは、
これからの大きな発展はムリでしょうね。
新社長は新しいビジネスモデルを考えなければなりません。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も日経新聞でこの方の履歴書を興味深く読ませていただきました。最近の履歴書の中では、秀逸な内容でした。やはり率先垂範した方の人生は迫力があり、読者に訴えるものが強いと感じました。本人にとっては苦難の連続だったと思いますが、読む人に勇気を与えてくれる内容でした。ありがとうございました。

上野 則男 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
まさに仰るとおりですね。
最後はどうやって締めくくられるのでしょうね。
楽しみです。