2020年11月30日月曜日

「笑いの哲学」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 笑いにも哲学があることを知っていただきます。
 笑いの種類とその特徴を知っていただきます。
ねらい:
 あらためて、笑いについて考えて対応していただければ、
 と思います。
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本テーマは、木村覚日本女子大学教授の著書のご紹介です。
そんなことを言うと「笑われる」かもしれませんが、
笑いにも「哲学」などというものがあり、
多くの学者が研究していることを知りました。

しかしながら、哲学者の理屈はむずかしいですね。

本書の意図等を「はじめに」で確認しましょう。
この「はじめに」はたいへんよくできていて、
簡単な省略や要約ができませんでした。
ほとんど全文紹介となっています。
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私たちは笑って良いのか。それとも、笑ってはいけないのか。
笑いをめぐる状況がとても複雑になっている。
そう感じるのは筆者だけではないだろう。

笑いがひきつり笑いになってしまったり、
「あ、これは笑ってはいけないやつだ」と
口を真一文字に結ぶ準備をしたり、
あのひと笑っているけど今どきこれで笑えないよなと思ったり、
無邪気に笑えることばかりではなく、
笑いたい気持ちが屈折しながらしぼんでいく状態を、
私たちは毎日のように味わっている。

ゆえに、こうした疑問も自ずと浮かんできてしまう。
 笑いは良いものなのか。それとも悪いものなのか。
残念ながら、本書はこの問いにわかりやすい解答を与えることはない。

安易に良いか悪いかを決める二者択一を極力避けながら、
私たちが笑いをめぐってどのような状況を生きているのかを、
できるだけその細部や複雑さをつぶさに見つめながら反省したい。
その上でより良く生きるための処方箋をさがしてみたい。

その際本書は、笑いという現象を解く唯一の原理がどこかに隠れており
それを発掘するという立場をとらない。

これまでの哲学史の中で試みられた笑いの研究を振り返ると、
いくつかの理論が浮かび上がってくる。
ただし、それらの優劣を問うたり、
それらのうちでもっとも有力な正しい理論を決めたりもしない。

笑いという現象は多様であり、
それぞれが独特の状況や人間関係の中から生まれたものである。
誰が、誰と、どこで、どんなときにといった細部を無視して、
包括的な議論を展開しても実りは多くないだろう。
(上野注:完全に「人文科学的」アプローチです)

そう言いつつ、あえて包括的な笑いの定義を一旦ここにおいてみよう。
(上野注:これは嬉しい自然科学的アプローチです)

 笑いとは平穏な日常の破裂である

(中略)
要するに、笑いとは生ものである。
その平穏な日常の破裂は「笑う者」と「笑われる者」の二者あるいは
「笑わせる者」も含めた三者が織りなす
その都度の関係性の中で発生する。

当たり前だが、それらが単独で笑いに関わることはない。
二者ないし三者がその場で生み出す微妙なバランスを読み取りながら、
本書は編まれてゆく。

本書では笑いを、とくに次の三つの観点から考察してゆく。
(笑いを哲学的に考える)
(日本のお笑いを例にして笑いを考える)
(笑いをめぐる日本社会のありようを考える)

(中略)
先取りして言ってしまえば、本書は、
私たちが「掟」というものと
どう付き合っていくのかをめぐる読み物である。
「掟」とはそれが効力を発揮する社会の内側に暮らす人間にとって
従わなければならないと思わされている力のことである。

掟は、私たちの価値、とくに優劣の価値を支配している。
これに従うことで私たちの日常の秩序は保守される。
その一方で、
これに従うことで私たちの心はその秩序に束縛されてしまう。

笑いはこの掟と極めて密接な関係を有している。
掟に従うことで生まれる笑いがある。
その反対に掟に抗うことで生まれる笑いもある。
掟の強制力を強化することにも笑いは加担するけれども、
掟の強制力を弱めることにも笑いは加担するのである。

世界がグローバル化し、国境を越えて大量の人やものが行き来し、
それに伴い
私たちの社会とは異なる価値の存在に気づくことが増える中で、
掟の存在も揺らいでいる。

多様性を尊重しようとする傾向は、
一面的な視点から生まれた価値の偏狭さを批判する方向に向かう。
そうした傾向が加速すれば、いつかひとは掟にとらわれなくなり、
掟の力が消滅すれば、それによって各自の生きやすさが増し、
私たちはより幸福になるのかもしれない。

しかし世の中はそう簡単なものではないようだ。
現在の社会状況を振り返れば、
私たちはますます掟に囚われてしまっているようにも見えるし、
掟によって主体的な判断力が奪われてしまっている
と考えざるを得なくなっている。

そうした笑いと掟をめぐる厄介な状況に、
私たちは巻き込まれている。

本書は3章に分かれている。
先人たちが笑いを論じる際に行った典型的な分類に従っている
ということでもあるが、
それらは、平穏な日常の破裂がなされるあり方を
三つのパターンに分けたものと言うこともできる。

第1章は優越の笑いであり、
往々にして不意な出来事によって起こる際の笑いである。
第2章は不一致の笑いであり、多くの場合、
技術を用いて不一致を起こすことによって破裂が起こる際の笑いである。
第3章はユーモアの笑いであり、
日常の平穏さを支えている掟に抗うことによって破裂が起こる笑いである。
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以下にその3章のサマリをしてみましょう。
しかしながら、この理路整然とした「はじめに」に対して、
本文は、純「人文科学的」な列挙記述ですので、
以下の要約は、著書を材料にした上野としてのまとめになっています。

1.優越の笑い
 優越の笑いとは
 他人の失敗や欠陥を笑うこと。
 自分はそういうことはないと思って笑うのであるが、
 実際はそうではない。
 ホッブスはこう言う。
 「他人の欠陥について大いに笑うことは小心のしるしである。
  他人が不格好なものをあらわしたときには、
  笑う前に救いの手を差しのべるべきである」

 優越の笑いは、社会のデリケートな部分を刺激する危うい笑いである
 そこに成立したのは「笑いの空間」か、あるいは「差別の空間」か。
 笑われることで誰かが苦しんでいるとしたら 
 「安全な空間」が必要になるのか。
 そうであるとしたら「笑いの空間」は不必要なのか。
 笑われることは、すべて悪しきことなのか。
 そうでないとしたら、「快適空間」はどうすれば生まれるのか。

このような記述が続いて、わけが分かりませんので、
私は以下のような要約を作成しました。

「優越の笑い」のまとめ(上野案)


定義・説明


ü  他人の欠点・失敗・ミス・不注意を笑うこと。

ü  「笑う者」と「笑われる者」が存在する。
「笑わせる者(仕掛け人)」は通常は「神」である(いない)。

ü  テレビ番組の「ドッキリ」系は、笑わせる者がいる(制作者)。「笑われる者」を「笑い者」にするので、あまり品のいい番組とは言えない。

ü  昔の子どもたちのあだ名付けはこれに該当するものが多い。

ü  深刻な状況に対しては笑わない。

例:若者が滑って転べば笑うが、高齢者がつまずいて転んだら笑わない。

ü  17世紀のイギリスの哲学者ホッブスは、「笑う者は小心者である」と言っている。そういう面もある。



状況


ü  「他人のマイナス点を笑ってはいけない」という社会規範(著者の言う「掟」)があり、オトナは笑わないようになっている。

ü  そのため、「優越の笑い」が発生することは非常に少なくなっている。





2.不一致の笑い
不一致の笑いとは
違和感あるものが同列に置かれるおかしさ、アンバランスのおかしさ。
ということのようです。
これについても上野の要約を作成しました。

「不一致の笑い」のまとめ(上野案)

 


定義・説明


ü  「笑わせる者」「笑う者」と「笑われるモノ」が存在する。

ü  「笑わせる者」はネタを考え、「笑う者」に提示する。

ü  「笑われるモノ」は、「人、物。こと」などさまざまである。


 

不一致の例

不一致の内容

(何の不一致を笑うのか)

備考

 


綾小路きみまろ


ありたい自分とそうでない自分 

(建て前と本音)


ü  聴衆は自分たちを題材にして笑っている。

ü  著者は優越の笑いに入れている。


 


毒蝮三太夫


ü  かしこまった関係が想定される公共放送の場に、本音の親しみのある関係を持ち込む(「ババア」表現など)。



ü  著者は優越の笑いに入れている

 


明石家さんま


ü  一般的には想定外の突っ込みの連続



ü  天才的である。

 


天然ボケタレント


ü  常識的対応と想定外の対応



ü  みんなで「笑い者」にしている。

 


落語


ü  想定または成り行きと結果(意外性)


 

 


漫才


ü  ツッコミの想定回答に反するボケ対応が中心


 

 


お笑い一般


ü  常識的対応と笑わせる対応


 


不一致の笑いの効用


ü  「笑いは平穏な日常の破裂」ですから、日常生活の気分転換になりリラックスできる効用があります。

ü  お笑いが好きな人は、お笑いの内容を研究して自分で応用できるようになれば、日本社会全体が明るくなるのではないかと思われます。




 3.ユーモアの笑い

「ユーモアの笑い」のまとめ(上野案)

項目

説明


識者の「ユーモア」の定義


ü  「遊びの気分をもたらすもの」

ü  「ユーモアは機智と愛である」

ü  「(チャップリン)ユーモアは人間の生存意識を高め、健全な精神をささえる。ユーモアがあればこそ、人生の有為転変も、比較的軽く乗りきれるのだ。それはわらわれに均衡感覚を与え、オーバーな厳粛さの底にひそむ滑稽さを引き出して見せる」

ü  「機智や皮肉もユーモアの構成要素ではあるがイコールではない(著者)」



上野の定義


ü  「笑わせる者」「笑う者」が存在する。

ü  「笑わせる者」が「下品でない笑いを誘う題材」(「笑われる者」とは限らない)を作成し「笑う者」に提供する。

ü  ジョークやダジャレが一般的である著者はなぜか、ジョークやダジャレについて触れていない)。



日本人はユーモアセンスが弱い。


ü  欧米人は、一般の会話でジョークを多用して相手を引き付ける。

ü  日本でジョークを言う人は少ない。

ü  私の多くの友人でジョークを言う人は二人しかいない。その一人は、会合で進行役を依頼されると、「それでは歯科医がつたない司会をさせていただきます。歯科の方は名医です。お間違いなく」というようなセリフで始める。

ü  ジョークを聞きという下地ができたいない日本人は、ジョークをジョークとして気づかないことが多い。

ü  落語という文化で笑いを追究してきている日本人なのになぜユーモアセンスが弱いのか。



日本でユーモアセンスが弱い理由


ü  まじめに勤労するという農耕型文化の国民性では、冗談を言っている余裕はなかった。余裕があるとなれば、絞られるだけであった。

ü  著者の言い方だと「掟のしばりが強い」のである。

ü  狩猟型文化の欧米は、「明日は明日の風が吹く」的で、悪く言えば呑気、よく言えば明るい気質である。ジョークが言えるのである。



上野の期待
(著者も同意見?)


お笑い番組が好きな方は、お笑い番組を見て笑っているだけでなく、そこから「笑い」のこつを学び、ユーモアセンスを強化していただきたい。そうすれば、人生の豊かさが強化されるでしょう。


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

笑いの哲学というので もッと楽しい内容かな?と読みましたが

結構 難しい・・

でも 最後のまとめとして笑い番組が好きな人はこつを学び・・
人生を豊かに!!または日本社会全体を明るく!

というのは大賛成です

因みに私は 笑顔がとても大切と思っています