2012年7月30日月曜日

「美人の歴史」 太めが美人だったことはないのか?

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
ヨーロッパ中心社会での美人の歴史の片りんを知っていただく。
美人とは何かをもう一度考えていただく。
なぜ、女性は痩身願望なのかを考えていただく。

ねらい:
美人とは何か、自分が気に入る女性はどんな人か、
を考えていただく。
「痩身」に対する「偏見」をなくしていただきたい。

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ジョルジュ・ヴィガレロ
(フランスの国立社会科学高等研究院教授)
の書かれた「美人の歴史」という本を
「どういうことが書いてあるのだろう」
と思って読んでみました。

430ページ以上の大著で
社会科学的アプローチではなく
人文科学的アプローチ(細かい事実を並べ立てる)で
辟易としました。

残念ながら、「こういうことが書いてありました、
こういう主張でした」と的確に言うことはできません。

著者は「序」で本書執筆の意図をこのように述べていました。

「本書でたどりたいのは、
むしろ(美の感性に対する)社会的な歴史である。
その歴史では、毎日のしぐさや言葉のなかに
直接的に体験された身体の美しさの基準、
魅力や嗜好の基準が表現される。
その歴史では、図像もさることながら、
多くの言葉(美をどう表現しているか)が調査される。
というのも、意識されたこと、特に興味をそそられたこと、
認識されたこと、感じられたことをあらわすのは
言葉なのだから。」

そのアプローチは正当だと思いますが、
本書では、おそらく数百種類の著書・文献等から
その「言葉」を探し出してきているのです。
それが辟易なのです。

本書は、章建てが世紀別になっています。
そこで身体の部位別に時代の美の基準がどう変わったのかを
拾い読みで表にしてみました。





その世紀の中が一色であるとは限りませんので
相反することが記載されていることもあります。

私の事前の関心は、
「太めが美人であった時代はあったのだろうか、
特に立派なヒップが」ということでした。

現代でも、未開の島嶼国で、
これが美人の基準であることを
テレビで見た記憶があります。

女性は、元気な子供を産み育てることが
基本使命であるなら、そうあってしかるべきだと思います。

なぜ、世の多くの女性が痩身願望なのか、
不思議でなりません。
世の多くの男性が痩せた女性を好むのでしょうか、
必ずしもそうとは思えません。

テレビなどで痩せた女性が多く主役で登場するので
感性が侵されてしまっているのではないか、
と思ってしまいます。

それとも、現代の「草食系男子」はか弱くて
「強い」女性は苦手なのでしょうか。
パートナを「実利」を期待するのではなく、
「装飾品」扱いしているのですかね。

この書を見ると
少なくともヨーロッパ中心の中世以降では
太めは無理としても「ふくよか」のレベルでも
美人として登場していません。

想定されるのは、「すっきり、ほっそりしている」
ということは希少価値であるために高い評価をされた
ということなのでしょうか。

本書によると、
「痩身が美」という前提の中で、
「美人の歴史」は
顔・上半身中心から、下半身・全身に関心が移り
現代は美人の基準が多様化した、
ということが要約のようです。

そういう美人が絵に描かれたり、
文章に登場したということであって、
(ジョルジュさんの分析対象もそのような素材が対象です)
一般大衆の心の中を分析したものではないのです。

その点からすると本書は、
「残された書画からみる西欧の美人の歴史」
とすべきものであろうかと思います。

一般大衆の嗜好からすると、
ここで述べられている価値観は偏っているのではないか、
と思います。

また、「日本の美人の歴史」だとどうなるのでしょう。
おそらく浮世絵等の登場人物が対象になり、
以下の特徴があることになるのではないでしょうか。

  西欧の美人よりは大衆的。
  和服なので顔と物腰が中心で、
  身体の姿形は表に現れない。

モナリザに対抗するのは、
黒田清輝の「湖畔」の美女でしょう。

ここで美女と書いて、美人と美女の違いは何だろう?
と考えました。上野の私見です。

 美人:姿形が美しい。静的。年齢不問
 美女:姿形が魅力的。動的。年齢制限あり

モナリザは美人で、湖畔は美女なのです。
湖畔の女性には、ウチワの動きが感じられますものね。

(このテーマの結論)
私の希望としては、
女性は、健康を害する痩身はやめて
健康な美を実現してほしいと思っています。

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