目的:
ご主人をいつまでも迎えに出かけたハチ公のことを
再確認しましょう。
ねらい:
ねらい:
ワンちゃんにもっと愛情を持って接しましょう。
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「忠犬ハチ公、生誕100年」というコラム記事が、
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「忠犬ハチ公、生誕100年」というコラム記事が、
日経新聞3月6日の朝刊社会面に載りました。
涙ぐましいハチ公に関する一部始終が書かれていましたので、
記録に残すために、このブログを書きました。
原則として、記事のままの転載です。
この図の出典はウィキペディア
上野家一家とハチ
晩年のハチ
今や世界的に著名な像となった東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公。
今年で生誕100年を迎える。
11年余の生涯の後、この秋田犬は約90年も愛され続けた。
像をめぐる逸話からは近現代の日本の変貌もうかがえる。
調べてみると、
ハチ公には歴史上の人物並みの膨大な史実の蓄積がある。
1923年11月10日に秋田県大館市で誕生。
生まれたのは国連事務次長などを歴任した
明石康さんの母の実家だった。
生後ふた月の24年1月、
現在の渋谷区に住む上野英三郎・東京帝国大学農学部教授の求めで、
米俵の片隅に詰められ急行列車で一路、上野駅へ。
(上野注・教授はたいへんな愛犬家で他の犬も飼っていました)
だが列車は前年の関東大震災の余震の影響で遅延した。
ハチ公はかなり衰弱していたそうだ。
上野教授は普段は自宅近くの駒場の校舎で教壇に立ったが、
渋谷駅から農事試験場などに出向くことも。
お供するハチと渋谷駅の関りはこの辺りから生まれたらしい。
しかし、蜜月は短く、教授は25年5月に外出先で急逝
(上野注:脳溢血死)。
その後、ハチは日本橋や浅草で引き取られたがなじめず、
結局、
渋谷に近い代々木に住む教授宅出入りの植木職人
(上野注:ハチと昔馴染み)に引き取られた。
ハチは渋谷駅に通った。
(上野注:10年近くもです。当時は放し飼いができたのです。
ハチは、教授の帰宅時間頃になると、渋谷駅に出かけ、
しばらくいて、教授が帰ってこないことを確認すると帰宅したようです)
32年、かつてのあるじを慕う様子が新聞で紹介され、一躍、有名に。
銅像の建立計画も進み、募金も集まった。
生前に銅像が建ったほどの人気の背景には、
「忠」を重んじた戦前の修身教育の影響もあったろう。
生年が24年で元大蔵次官の長岡実さん、同26年で作家の宮脇俊三さん、
同30年で歴史探偵の半藤一利さん。
いずれも、幼少のころに、生きているハチに会い、
エサをやったり遊んだりしたと回顧している。
35年3月8日がハチの命日。
駅前での葬儀には十数人の僧侶が読経し、
多額の香典も集まったと伝わる。
初代の像は多くの人に親しまれたが、
戦中の金属不足から撤去され溶解の憂き目に。
終戦の1日前、45年8月14日のことだ。
現在の像は2代目。
作者は初代の制作者の子息、安藤士さん。
除幕式は48年8月15日にあり、
翌月には犬好きとして知られたヘレン・ケラーが訪れ、
像に触れた。
安藤さんは惜しくも4年前、亡くなっている。
闇市の雰囲気漂う街から、
高層ビルの林立する都会への変貌を見守ったハチの像。
激動の月日の中、
かけがえのない存在との平凡な日常の大切さを教えてくれる。
そして、たとえ共にいた間は短くとも、
はぐくまれた絆は断ちがたいということも。
大館市と渋谷区で予定されている一連のイベントも、
そんな愛されキャラを活用するもの。
11月の誕生日をヤマ場に「HACHI100」と銘打ち、
トークショーやコンサートなどを計画する。
「ハチ公の物語を後世に伝え、
その縁で人や自治体、企業をつなげていければ」
と大館市観光課の田鍋栞さん。
ハチが語り継がれる世は平和で穏やかに違いない。
(毛糠秀樹)
このことで思い出すのが「空が赤く焼けて」(奥田貞子著)
に登場するルミちゃんのことです。
ルミちゃんは瀬戸内海の島にすんでいた3歳の女の子です。
1945年8月5日に両親が広島に出かけて被ばくし
帰らぬ人となってしまいました。
しかし、ルミちゃんは毎日、船が着く桟橋のところまで出かけて
両親の帰りを待ちました。
「あした、帰るからね」と言っていたのに、とつぶやきながら。
見るに見かねたおじさんが、ルミちゃんを広島に連れていき
4日間探し回りましたが徒労でした。
その後もルミちゃんは桟橋で待ち続けましたが、
しばらくして原爆症になり、両親のもとへ旅立ちました。
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