2019年8月24日土曜日

「ある『BC級戦犯』の手記」隠されてきたBC級戦犯の実態!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 太平洋戦争のBC級戦犯のことを考えていただきます。
 (すごいことですね!!)
 死刑囚ならではの心境・悟りを知っていただきます。
 戦争は全くの無法規状態であることを再認識いたします。
ねらい:
 戦争のない社会がどんなに幸せかを思いましょう。
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BC級戦犯の実態については、多くの日本人にとって
あまり知られていないことです。


日本人にとって嬉しくない、したがって知りたくないことですし、
学校教育ではまったく触れることがないからではないでしょうか。


歴史音痴の私は、この度この「手記」によって、
BC級戦犯について改めて知ることとなりました。


まず、Wikipediaの解説はこうなっています。


[BC級戦犯]

BC級戦犯(BCきゅうせんぱん)は、
連合国によって布告された国際軍事裁判所条例
及び極東国際軍事裁判条例における
戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪
またはC人道に対する罪に該当する
戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた個人の総称。


A項の平和に対する罪で訴追された者はA級戦犯と呼ぶ



日本のBC級戦犯は、
GHQにより横浜マニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。
被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされる
本に対してはほとんどB項しか適用されていないーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

東条英機以下の処刑された「7人」のA級戦犯 については、
国民は大きく受け止めているのに、
BC級は「1000人」もが死刑になっているのです。


BC級の人たちがどういう目に遭っているかは、
これまであまり知られていなかったと思います。


今回ご紹介する「手記」は、B級戦犯として死刑の判決を受けた
冬至氏の手記等を、国立歴史民俗博物館教授等を務められた
山折哲雄氏が情報収集・編集されたものです。


本書は冬至氏が、
獄中で詠まれた短歌集を含めて365ページに及ぶ大著ですが
当プログではこの中から以下の7点をご紹介いたします。
このテーマにご関心ある方はぜひ本書をお読みください。

1.ことの発端となった冬至氏の母上の死亡の状況
2.罪を問われた敵軍兵4人の殺人の状況
3.死生観ーー逮捕までの苦悩と覚悟
4.訊問での状況
5.仲間の死刑囚たちが処刑場に引かれていく時の
  死への悟りの状況
6.罪を一身に被った上官のこと
7.処刑が決まった段階で
  仲間の減刑をマッカーサーに訴えた人たちのこと

冬至氏は、東京商大(現一橋大学)出身の
終戦時陸軍主計中尉です。

1.ことの発端となった冬至氏の母上の死亡の状況
(これは編者の解説文です)
昭和20年、連合国軍の本土侵攻が迫り、
九州方面を主な作戦地域として編成された
第16方面軍(西部軍)は
それを迎え撃つ態勢下におかれていた。

福岡市出身の冬至もその地で防衛の任についていたが、
この年の6月19日、
マリアナ基地を発進したB29が福岡市にも襲いかかり、
午後11時10分ごろから約2時間にわたって
空襲を繰り返していた。
そのため市の主要な地域のほとんどが火の海と化してしまう。

任についていた冬至は,翌20日の未明、急ぎ帰宅したが、
既に自宅は消失していた。
逆巻く火焔と煙のなか、
両親の姿を求めて懸命の捜索を続ける。

妻子は郊外に疎開しており、幸い父親は無事だったものの、
母親の行方が不明であった。

探しあぐねた冬至は、
近くの小学校に遺体置場があることを聞いて駆けつけ
暗い廊下に息絶えて横たわる母親の姿を見出したのである。

ほとんど傷はなく、
まるでもの思いに沈むかのように半ば眼を閉じていた。
煙による窒息死であることがわかった。

冬至はいったん司令部にもどる。
すると折しも、そこでは
米軍捕虜(撃墜したB29の搭乗員)の処刑を
実行するところだった。

突然こみあげてきたのが、
「よし、親の仇は自分の手で]との思いだった。

2.罪を問われた敵軍兵4人の斬首の状況
(手記)
私は昭和20年6月20日、
福岡市西部軍司令部において行われた
米軍飛行士処刑事件の執行者のひとりであった。

それも単に命令によって執行したのではなく、
その前夜来の空襲によって母を失った憤りから、
自ら志願して米飛行士4人を斬首したのである。

3.死生観ーー逮捕までの苦悩と覚悟
(手記)
私は逮捕の日を待っていたが、年が明けても春が来ても
米軍は内密の調査をするばかりで何の音沙汰もない。
短気な私は業をにやして、
また罪人として死ぬよりもあっさり自決しようと考えたが、
さてそうなると今さらのように
老父や妻子の行く末が案じられて断腸の苦しみである。

(この覚悟と苦悩をひそかに訴えたあるご老体の紹介で
会った油山の蓬舟和尚からの教えが以下です)

(中略)
「自決するつもりでおりますから、
とても自分で解決する時日がありませんが」
「なぜ自決なさるのですか」

「敵に捕えられ罪人として殺されるのは厭ですし、
あとに残る家族の名誉のためにも
軍人らしく自決した方がいいと思います」
「ハハハ、そんな見栄はお棄てなさい」
「?---」

「敵とか味方とか、一家の名誉とか、そんなものにとらわれなさるな。
武士道なども仏の道に比べると随分せせこましいものですよ。
「------」

「仮に生き永らえたとしてもせいぜい5,60年の命でしょう。
天地の悠久に比べると誰も彼も一瞬の命に過ぎません。
その短い命をさらに縮めるような小細工はなさるな」
「----はいーーーー」

「あなたにひとことだけ言っておきます。
それはどんな場合でも
自分のいるところが自分の世界のすべてだということです。
分かりますか。

例えばいまあなたはここで私と話しておられる。
ここより外にあなたの世界はないのです。
お家もアメリカ兵もありません。
だから、私と話し合うことに一心になっておられればいいのです」
「------」

「お家に帰られたら家庭で最善をつくす。
牢屋に入られたら牢屋を自分の天地として生き抜くのです。
最後に断頭台に上がっても同じことです。
忘れなさるなよ」

「そうするとどういうことになるのでしょうか」
「自分のあるところを全世界として生きていくとき、
あなたを束縛するものは何もなくなります。
全く自由自在の身です。

そして死や肉親の問題もおのずから解けて来ます。
また運命も最善にひらけて来ましょう」
「やってみましょう」
私はもうすっかり自決を断念してしまった。
恥ずかしいほどあっさり心が変わったのである。


4.訊問での状況

(上野注)昭和21年4月にMPによって拘束され、
福岡で取り調べを受けました。その時の状況です。

かねて私は伯父の一人から米軍に調べられるときには、
何と答えるか十分に考えておくように懇懇と注意されていたが、
その用意を全くしていなかった。

というよりも、その必要を認めなかったのだ。
答弁の仕方によって助かるにはあまりにも重い責任である。
また、そのような技巧は
かえって私自身をしどろもどろに陥れるかも知れない。
そんな面倒なことはもう厭で、
私は一切を投げ出すつもりでいたのである。

ありのままを答えるのに手間はかからない。
「君はどうしてここに連れてこられたか分かるか?」
「米軍の飛行士処刑事件のためだと思う」

「君は自分のしたことをどう思うか」
「私は飛行士4名を斬首した」
「だれの命令でやったのか」
「だれの命令でもない、志願してやったのだ」

「君は自分のしたことをどう思うか」
「法律的にはともかく、神の目から見たら死刑だと思う」
「自ら死刑を認めるのか?」
「そうだ」

30分ほどで訊問を終わり、
種々の道具(拷問用)を持って私を取り巻いていた
米兵たちは手持無沙汰な風だった。

注:未決の2年半の後、裁判が始まり、
軍司令官以下9名が絞首刑を宣告され、
冬至氏のほか2名の単なる実行者2名も含まれていました。
この2名は再審の結果終身刑に減刑されました。

5.仲間の死刑囚たちが処刑場に引かれていく時の
  死への悟りの状況、
(前略)
私が(5号棟で)見送ったのは以上26名だった。
この人々は、年齢、住所、智能すべて異なり、
日常生活も十人十色である。

種々の情報に一喜一憂する人、碁・将棋で日を送る人
読書三昧の人、短歌に没頭する人。

信仰についても、
岡田さん(後掲)のごとく
全生活を仏道精進に捧げた人もあれば、
無信仰を誇る人もあった。

しかしながら、恐らく世間の人には想像し難いことだろうが、
その人たちが執行のため連れ出された時は
みな等しく立派な態度になるのである。

そこには最後を飾ろうというような意識的態度は見えない。
各自ありのままの姿でありながら、
それが一様にすっきりとなっているのだ。
一体これはどういうわけであろうか。

この解答は簡単である。
煩悩が断たれたからにほかならない。
死刑囚という烙印は捺されても、
再審で助かるという希望がある。
再審で敗れても、
マ元帥が減刑するかもしれないという一縷の希望もあり得る。

生への望みをもつ限り、
それに付随してあらゆる煩悩にわずらわされる。
しかし執行の呼び出しをうけた瞬間、生への希望は断たれ、
それと同時に煩悩も霧散するのである。

そのあとに残るものは何か。
即ち悟りの境地であり、本来の姿にかえった人間なのだ。

死につく人は皆すっきりしていたばかりでなく、
また実に逞しい姿だった。
それは人間というより仏であった。

(上野注)
なるほどそうなのですか。
修行をして悟りを開くというのは、
すべての煩悩を捨てることなのですね。

「選択肢は死しかない」
という状況になったら煩悩が断ちきれるのです。
凡人にはできることではありません。

6.罪を一身に被った上官のこと
(手記)
判決の日の夜、5号棟(死刑囚専用の監棟)に移ると、
私は同僚の2人と共に、元陸軍中将岡田資閣下の房を訪れた。

閣下は東海軍の米飛行士処刑裁判において、
終始「一切の責任は軍司令官たる私にある」と主張して
部下には1人の死刑者も出さず単身5号棟の人となられ、
それ以来死刑囚たちの師とも親ともなって、
広く巣鴨人の敬慕を一身に集めておられたのである。

(上野注)
岡田氏は、終戦時東海軍の司令官で、
名古屋空襲の際に撃墜したB29の搭乗員27名を
軍律会議にかけずに処刑した、とされています。

氏は、幼少のころかから仏の道を探求されていました。
「責任を取る」とはこういうことだ、と知らされます。
残念なことに24年に刑の執行をされました。
その時の状況は本書に「ありありと」描かれています。

そのときのことを冬至氏が詠んだ短歌です。
 きつちりと手錠かかりし君をしも大樹の如くわれは仰ぎつ

7.処刑が決まった段階で
  仲間の減刑をマッカーサーに訴えた人たちのこと

石垣島事件は、
日本軍が米軍飛行士3名の処刑をしたものだが、
43人の被告中41人が死刑の判決を受けた。
その後再審により34名が減刑になって7人だけが残っていた。

(ここから手記)
25年4月にその7人が処刑された際に、
その人たちがマ元帥に嘆願書を書かれた。
「死刑執行は我々限りとし、あとの死刑囚は減刑されたし」

おそらくはこの嘆願書は百万人のそれよりもまして
マ元帥の心を打ったことであろう。
それかあらぬか、死刑執行はこの7人で止まり、
残余の19人は25年の末までに全員減刑されたのであった。

上野注:
自分たちの死に臨んでも仲間の減刑を思うというのは
すごいことです。
「悟れば」そこまでいくのですね。

冬至氏も昭和25年7月に終身刑に減刑され
31年には巣鴨プリズンから出所しています。
その後68歳まで生きられました。

追記
本書よりの転載です。
冬至氏が獄中で作成された版画です。
同じく収録されている短歌363首のうちの2首です。
 おとうちゃんかへつてきてとふ仮名文を壁に向ひてまた読む我は
 妻の文ゆ見いでし髪の一とすぢを獄中日記に貼りて残すも
氏は斉藤茂吉の研究会を獄中で開いていたのだそうです。

追記:
8月15日の日経新聞に、三崎英和さん(周南市職員)の書かれた
「人間魚雷 若者たちの悲話」という囲み欄がありました。

この人間魚雷「回天」は、
1944年7月に試作機が完成し420基作られました。
直径1メートル、長さ約15メートルで、潜望鏡付き。停止・後退はできない。
11月に初出撃しました。
100人以上がその犠牲になったそうです。

飛行機の特攻隊と同じ発想の海の特攻隊です。
どんな気持ちで、この任についたのでしょう!!



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