2023年8月23日水曜日

日航機墜落事故から38年 他にもこんな大事故が!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 世界には、こんな航空機事故もあったのだ、
 ということを確認していただきます。
ねらい:
 あらためて、事故の要因の多様性について再認識いたしましょう。
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先日8月12日は、日航機墜落事故から38年目でした。
坂本九さんが亡くなるなど、日本中が大騒ぎや悲嘆にくれました。




墜落したのと同型機







ところが世界には、大きな航空機事故があったのです。
日本では、日本人が巻き込まれないとマスコミが騒ぎません。
それでそういう事故はあまりよく知られないできているのです。

本項は、
当ブログでも英語の勉強などでたびたび登場いただいている
米野忠男氏のレポートのご紹介です。
そんなことがあったのか!とビックリの内容です。

事故には多くの要因があるというこのレポートを読んで思い出すのが、
「航空機事故の4E」です。
(その解説を、問題解決手法MIND-SAに収録しています))

ネット(google)で検索してみましたが、すぐには出てきませんでしたので、
ChatGPTに聞いてみました。
そうしたらこういう回答でした。さすがです。


4Eの英語は、Education,Engineering、Enforcement、Exampleで、
事故は機器の不備で起きるだけでなく、
人間のミスによっても起きるのでその対策が重要である、
ということを主張した標語です。

逆に、何でも失敗した人間のせいにしないで、
エンジニアリング(仕組み・仕掛け)的な不備についても検討しなさい、
というようにも使われています。

蛇足ですが、MIND-SAでは
原因領域を「5M2E」で整理するようにガイドしています。
4つのMは、前掲と同じですが、
あとManagement、Establishment(組織・体制・制度などの枠組み)、
Environment(環境)が続きます。
因みに、Materialは材料でもありますが、広くインプットを指します。


以下の文章は、原文のままですが、
ネットで読みやすいような改行等を行っています。
最後に、米野氏の「回顧録」も述べられています。
これはこれで「私の履歴書」的にご参考になると思います。

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航空機の事故について                                     
                 米 野 忠 男

航空機は移動距離当りの死亡率では,

自動車よりはるかに安全と言われる。

また航空機事故による死者より,
航空機利用のための空港往復による自動車事故死者の方が多いとも言われている。
単純なデータとしては米国国家運輸安全委員会(NTSB)の調査によると,
航空機に乗って死亡事故に遭遇する確立は0.0009 % で,
自動車による死亡事故率0.03 % の33分の1以下となっている。
なによりも航空機利用に対する抵抗感のないことが,
航空機に対する信頼感を表しているように思える。

しかし航空機は一旦事故が起こると,
多数の死者が出る悲惨なものになる。墜落事故では乗員・乗客だけでなく地上の住民を巻き込み,さらに死傷者が増えることもある。
これまで世界中で多くの航空機事故が起こったが,
二つの歴史的な事故に注目して,人類は事故から何を学んだかを検証してみたい。

1. 世界最初のジェット旅客機の悲劇
(1) 英国の航空機メーカーであるデハビランド社が,
世界で初めてのジェット旅客機コメットを開発し,
コメット機は1952年に就航した。

従来のプロペラ機に比して高速・長距離飛行を可能にしたジェット機に対する世界の航空会社の期待は大きく,多くの受注を得た。
就航後パイロットの不慣れもあって,離陸・着陸のトラブルが生じたが,
死亡事故には至らなかった。
しかし1953年に英国航空便がカルカッタ空港を離陸6分後に,
空中分解して陸地に墜落し全員43人が死亡した。

(2) この事故に対するインド政府の事故調査では,
上昇中に強い下向きの突風に遭遇して, 
高度維持のための過大な修正操作で,想定を超える捻り圧力が加わり,
翼が順次脱落したとの観測がなされた。
しかし技量卓越した機長だったので,
落雷による気化燃料への引火説など,
結局原因が特定されないまま運航が再開された。

(3) しかし翌年すぐに英国航空便がローマ空港を離陸後,
エルバ島上空を高度8000 mで飛行中に,
突然空中爆発を起こして炎上し,海上に墜落して全員35人が死亡した。
英国海軍による大規模な海中からの事故機回収作戦が実施された。

(4) この間コメット機は運航を停止し,
各地に駐機していた3機は空席のまま低空飛行でロンドンに召還された。
しかしこの時も徹底的な調査にもかかわらず,
明確な原因は特定されずに,
60ケ所の補強改修と全保有機の精密検査が行われた。
さらに操縦員の再訓練が実施された後に運航が再開された。

(5) そのわずか3ケ月後の1954年に,
南ア航空便がローマを離陸してカイロに向かう途中,
高度10,000 m を巡航中に空中爆発し,
ナポリ空港南東の沖合いに墜落し,全員21人が死亡した。

またも英国海軍は空母や駆逐艦を派遣して捜索が行われたが,
水深1000 m から残骸を回収することはできず,
漂流中のわずかの残骸と5人の遺体を収容したに過ぎなかった。

(6) ここにきてコメット機自体に重大な問題があることは,
もはや明らかであり,すべての運航は停止され,
コメット機はすべて本国に召還されて,
この機種は二度と路線に復帰することはなかった。

(7) このコメット機の悲劇に対して,
当時の首相チャーチル(1951年に首相に返り咲いた)は,
「イングランド銀行の金庫が空になってもよいから徹底的に調査せよ」
と指示したという。
結局後になって事故の原因は「金属疲労」であったことが判明し,
実験によって確認された。

(8) 英国王立航空技術研究所は
早い段階で金属疲労の可能性を示唆したようだが,
コメット機の事故が就航後わずか1~2年で起こったことから,
当然メーカーでも簡単な金属疲労の実験をし,
2倍の安全係数をとっていたこともあって,
疲労破壊の可能性は想定外としていた。

(9) 航空機は上昇・下降のたびに与圧・減圧が繰り返され,
ジェット機は飛行高度が高いので生じる差圧も大きくなる。
最後の事故後,
王立航空技術研究所は巨大な水槽を設置してコメットの実機を入れて,
毎日24時間連続で試験を実施した。
その結果わずか1800回程度で亀裂が発生することが判明した。

メーカーが想定した金属疲労は 54,000 回まで大丈夫
という予測とは大きくかけ離れていた。
この乖離の理由がさらに実験され,
疲労試験の方法にいくつかの盲点があることも確かめられた。
さらにコメットが採用したアルミ素材が鋼材と異なり,
わずかな傷や加工歪により破壊されやすいことなども判明した。

(10) 世界初のジェット旅客機コメットは世に出るのが早すぎたのかもしれないが,
高度の昇降に伴う与圧と減圧,および熱収縮の反復を毎日繰り返す旅客機には,設計者の想定以上の金属疲労が発生することを,後世に知らしめたのであり,
一部の回収された機体の亀裂や,
水槽実験データ等は後に多くの航空機メーカーで生かされ,
コメット死すとも世界の航空機の発展に大きく貢献した。
応力集中する窓等の開口部の角を丸くしたのも,その小さな例の一つである。

(11) 結局コメット機はすべて破壊されて廃棄され,
受注もキャンセルされた。
信用を失った1920年創立の会社は他社に買収されて消滅した。

創業社長の Geoffrey de Havilland 卿の無念は想像に絶するが,
軍用機でも業績を挙げ,
前身機の試験飛行事故で操縦した愛息を失ったにもかかわらず,
人一倍航空機に熱意と情熱を傾けた同氏は,
大きな犠牲を払ったとはいえ,
3機の空中分解という壮大な「実験」を通じて,
金属疲労の重大さを後世に伝えた。

2. ジャンボ機同士の正面衝突事故
(1) 1977年3月スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島で起こった
ジャンボ機同士の衝突事故は,当時日本の新聞でも報じられたので,
記憶のある方も多いと思われる。

離陸中のKLM機と逆方向からタクシー中のパンアメリカン機が正面衝突したという,ほとんど信じられない事故だ。
KLM機の乗員・乗客の全員248人が死亡,
パンナム機の乗員・乗客396人中335人が死亡した。
死者合計583人という史上最大の航空機事故となった。
1985年の日航ジャンボ機の墜落による520人死亡(4人生存)事故は,
単一の航空機事故としては史上最大である。

(2) KLM機とパンナム機の両方とも着陸予定地は,
大西洋のリゾート地であるグラン・カナリア島のラス・パルマス空港であった。
ところがカナリア諸島分離独立派による爆弾テロの予告があったため,
両機とも他の航空機と共に,近くのテネリフェ島のロス・ロデオス空港へ代替着陸するよう指示された。

この空港は1941年に開港した古い地方空港で,
1本の滑走路と1本の平行誘導路だけしかなく,
地上の航空機を監視する地上レーダーもなかった。

(3) 先に着陸したKLM機はここで乗客を一旦降ろし,
燃料給油車により給油を行った。
後から着陸したパンナム機は乗客を降ろさず,給油もしなかった。

テロ情報が虚偽とわかり目的地の空港が再開されたため,
両機とも離陸を図るが,滑走路が1本しかなく,
平行したタクシー路には他の臨時に着陸したいくつもの航空機が駐機しており,ジャンボ機が飛び立つには滑走路を逆走して端部でUターンするしかなかった。

(4) ここで両機と管制官との交信にコミュニケーション不足と勘違いがあり,さらに濃霧と地上レーダーがないという悪条件が重なり,
パンナム機が滑走路をUターンすべくタクシー中に,
なんとKLM機が反対側から全速力で離陸を開始した。

相手が見えた時にはすでに遅く,
パンナム機は向きを変えて滑走路からタクシー路への誘導口へ逃れようとした。
KLM機も急上昇を図るもパンナム機を飛び越せず,
パンナム機に覆いかぶさるように衝突した。
KLM機の乗員・乗客は全員が死亡,
パンナム機は機長他数十名が生存したが,多数が死亡という惨事となった。

(5) 当然事故後スペイン,オランダ,アメリカ政府から派遣された
70人以上の調査官や両機の運航会社による徹底的な事故調査が行われた。
総合的な結論としては,多くの要因がからんだ事故というものであった。

(6) そもそもこの信じられない事故は,
後ですぐに誤報とわかった爆弾テロ予告により,
目的地に近い古くて設備の整っていない小空港に
多くの航空機が誘導着陸させられたことから始まった。

パイロットも不慣れなら,
空港がスシ詰めになることなど一度もなかった空港の管制官も未経験のことだった。

(7) 地上レーダーのない空港で濃霧という最悪の気象条件が重なった。
レーダーがなくても視界があれば,
同じ滑走路の両端から2機が同時に走り出すことなど絶対にありえない。

濃霧のままではこの小空港に留まらざるを得なくなり,
乗客の宿泊費負担などを考えると,
KLM機は一刻も早く離陸したいとの気持ちを持っていた。
またクルーの勤務時間超過に対するオランダの規制も
機長を焦らせたと考えられた。

(8) 管制官とのコミュニケーションの問題も明らかになった。
KLM機の副操縦士が「We are at take off(これから離陸する)」と言ったが,管制官は耳慣れた「We aretaking off(すでに離陸しています)」と混同した。
このようなミスを防ぐため,「take off」という言葉は離陸許可が出た後にしか使用せず,その前の移動は「departure」に用語が統一された。

(9) KLM機は乗客を降ろし,ついでに給油を行ったが,
もし給油しなかったら軽量になり,
急上昇してパンナム機を飛び越せた可能性が大きかったとも指摘された。
パンナム機は給油しなかったが,
同じカナリア諸島の目的地は近いので給油の必要性はなかったのだ。

(10) さらに調査でわかったのは,
管制官とのやり取りの録音にサッカー放送が入っており,
管制官はサッカーに夢中になっていて注意力が散漫になっていたかもしれず,
もしサッカー放送を聞かなかったらという「if」もあった。

このように多くの要因が偶然重なった事故だったが,あまりにも大きな犠牲を伴った。

[参考]
1. ゼロ戦の空中爆発

コメット機の空中爆発で思い起こすのはゼロ戦開発時に起こった事故だ。
ゼロ戦はご承知の通り,昭和12年に海軍の要求を受けて,
三菱重工の当時まだ33歳だった堀越二郎が主任設計者として
開発を始めた「十二試艦上戦闘機」である。

軍からの過酷な空戦性能・速度・航続距離の要求に対して,
短期間で高性能戦闘機を開発した経緯は驚くべきもので,
技術屋にとっては興味があり,昔関係書物を読みあさった。

戦闘機は旅客機と違って小さいが,
宙帰りとか50~60度の急角度で600 km/時という高速で急降下する必要があり,試験飛行は命がけであった。

最初の殉職者が出たのは,急降下飛行試験で空中分解した事故だった。
原因はフラッター現象と判明した。
飛行機が速度を増すと主翼や補助翼などに,
旗が空中ではためくような振動(フラッター)が発生し,
この部分的な振動が大きくなれば機体全体が振動して空中分解するに至る。

この事故で昇降舵に取り付けられた錘(マスバランス)が破損したことがわかり,取り付け強度を増して解決した。
この殉職は立派に活かされたのだ。

ゼロ戦のテスト飛行でもう一度殉職者が出たが,
2度ともパイロットは墜落直前にエンジンを切ったことが明らかになった。
少しでも墜落時の爆発を避け,後で事故調査ができるようにとの配慮であった。
こうして昭和15年には早くも量産化され,中国戦線に投入された。
この年は皇紀2600年に当り,末尾の「0」からゼロ戦と呼ばれた。

2.航空機の進展の歴史

小生個人の経験から,
1970年前後が航空機開発の大きな転換期であった気がする。
私事になるが,小生は1968年にニューヨーク駐在員を命じられ,
初めて海外に赴任した際,羽田を出発してから,
ホノルルとサンフランシスコの2ストップでニューヨークに着いた。

その後2年以内に目覚しい進歩が見られた。
即ち小生が赴任後すぐに1ストップで東京からニューヨークに行けるようになり,続いてノンストップ便が運航されたが,最初は帰路は風向きのため1ストップであった。

2ストップから2年以内に,
両方向とも東京-NY間の完全ノンストップ便が運行された。
当時米国のエアライン各社は東京-NY間の飛行時間を宣伝しあった。

1社が東京からNYまでの最短飛行時間を宣伝すると,
飛行時間では負ける他社が,東京-NYダウンタウン最短時間と宣伝した。
ニューヨークは朝夕の車ラッシュがひどく,
ラッシュ時間を避けた到着時刻でダウンタウンまでなら早く行けるというものだった。

1970年になると,それまでの飛行機の概念を変えた巨大な747ジャンボ機が登場した。
すぐにロスへの出張の機会があり,
初めてジャンボ機に乗った時の驚きと感動は今でも忘れられない。

大きな翼は停止中でも揺れていて,この巨大な飛行機は本当に安全なのか,最初の飛行でテストパイロットはどんな気持ちで乗ったのかなどと考えてしまった。
今ジャンボ機に感動する人などいない。

人間は生まれた時から存在している物に対しては不思議に思わない。
昨年総2階建ての世界最大の航空機であるエアバスA380に乗る機会があったが,乗客は中では上下の行き来はできず,
ボーディングデッキも全く新しいものであった。
それでいて燃費が良いということで,
燃費の悪いジャンボ機は40有余年を経て静かに幕を閉じようとしている。

3. 金属疲労についての個人的な思い出

小生がまだ20代で岩国の生産技術研究所に勤務していた時に,
外国技術に頼っていた合繊原料の自社技術による開発生産のために,
大規模な実験プラントの建設が決定した。

その工程でもっとも困難と想定された高温(350 ℃),
高圧(100気圧),腐食性溶媒使用の精製工程の設備担当に
小生が指名された。

すぐに高圧機器の設計と運転に必要な国家資格(高圧ガス取締法甲種機械)を取得した。使用できる実用素材は高価なチタンしかなく,チタンは320 ℃ぐらいから急激に強度が下がる。

まだJISが制定される前であり,高圧容器の肉厚の計算方法を考えていた時に,引張強度ではなく金属疲労による計算方法についてのアメリカの文献を見つけた。

数基の高圧容器は,一部は高真空シールなど高度の技術も必要で,
入札ではなく多くの生産設備を製作してもらっている日立笠戸工場(山口県,化学機器と車両を製作)に発注することが決まった。

最初の打ち合わせで日立に提出した計画図面の肉厚は,
小生がアメリカの文献に従って計算した数値とし,その文献も日立に渡した。
日立側から肉厚は当社に任せて欲しいと言われ了承した。

後日当方に提出された承認申請図の肉厚は,
当方の提案値よりかなり小さかったが承認し,日立での製作が始まった。
その間他機器も特殊品の設計製作が必要で,プラント全体の設計などに忙殺された。

そこに日立の設計部長から米野技師に謝罪のためすぐに訪問したいとの連絡を受けた。何事かと思ったら,日立はその後社内で肉厚を再検討した結果,危険なので肉厚を増して全てを作り直したいとの申し出だった。

小生は断固拒否し,自分の担当部分の納期が遅れればプラント全体がスタートできず大問題だ,肉厚は安全係数をとってあり,また商用プラント建設のための実証プラントで長期には運転しないから問題ないと主張した。

日立側は爆発の危険が少しでも考えられることは断じてできない, 納期遅れは謝るが土日返上で挽回に努めるからなんとしても認めて欲しいと懇願され, 小生の上司が了承してしまった。

小生は金属疲労について特に深い知識を持っていたわけではないが,
コメット機にからんで高度成長時代に昼夜・土日もなく,
必死に働いた時代を懐しく思い出した。


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