2013年1月30日水曜日

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」ですって??

【このテーマの目的・ねらい】
目的
 
 自然死について考えていただく。
 医療とは何かについてあらためて考えていただく。
 
 

ねらい
 価値ある生とは何かについて考えていただく。
 
 ものの見方を広げていただく。
 医療を受ける時のスタンスを場合によって変えていただく。

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中村仁一先生(医師)の
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」は
副題が「自然死のすすめ」です。













これは、世の常識に反抗する素晴らしい啓もう書です。
この序が本書の要点すべてを表現しています。

一部を抜粋しようかと思いましたが、
どの部分も捨てがたいので、
ほとんどすべてを転載させていただきます。
名文ですね。
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私は、特別養護老人ホームの常勤の配置医師です。
この配置医師という行政用語は凄いと思います。
まるで、富山の置き薬のようです。

最近まで、
「アイヌの土人」(北海道旧土人保護法、1997年廃止)と
呼んでいたお役所体質の面目躍如たるところです。

それかあらぬか、私はそろそろ賞味期限が切れる頃なのに、
代わりの医者がなかなか見つかりません。
老人ホームは福祉系ということもあり、
知り合いに声をかけても、
「いくら何でも、そこまで身を落としたくはない」
という答えが返ってきます。

たしかに私も、入居者の家族から何事によらず、
「病名や予後(病気・手術などの経過または終末)について
病院の先生から同じことをいわれるのなら
納得できるのですが・・」といわれましたし、
ちょっとした湿疹でも
「もし手遅れになったら、どうしてくれるんですか」
と詰問がとんできます。
ただ、彼らに悪気はないのです。

また、老人ホームの私以外の介護職員にしても
現代の日本人ですから、
心情的には入居者の家族と似たようなものです。
何かとすぐに病院へ連れていきたがりますから。

当初は、私も「なぬっ!?」と思いました。

しかしながら、それまで中小といえども病院勤務だったため、
世間には歴然と医者の序列があることに
気付かなかっただけのことです。

つまり、大学病院の医者が頂点で、
旧国立病院や日赤、済生会、
県立、市立などの税立病院と続き、
次が民間の大病院、中小病院の医者で、
一番下が町医者といわれる開業医です。

老人ホームの医者はさらにその下ですから、
いわばホームレスレベルなのです。

ですから、私立病院の部長であっても、
開業した途端に最下位の町医者に転落するわけです。

世間では、家族や知り合いが開業医や小さな病院で診て
もらっていて、経過がはかばかしくない時に、
「だめ、そんな小さいところにかかっていては。
もっと大きなところへ行かなくっちゃ」というのが
ふつうなのですから。

考えてみれば当然です。

わが国には医者個人の情報がなく、
その実力のほどが素人にはわかりません。
そこで病院の序列の上の方の医者が、
評価が高いということになるのでしょう。

一般に、病院志向、専門医志向が高いですから、
老人ホームの入居者の容態にちょっと異変があれば、
家族からすぐ病院受診という要望が出されるのも、
止むを得ないことなのです。

ですから、ホームレスレベルの私の出番は、
病院が見放した後なのです。
出すぎず、分を守ってさえいれば、
無駄な葛藤はせずにすむという構図です。

その老人ホーム勤務も12年目に入り、
最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない「自然死」を
数百例もみせてもらえるという得がたい体験をしました。

病院では、最後まで何かと処置をします。
いや、しなければならないところですから、
「自然死」はありえません。

在宅における死もふつうは病院医療を引き継ぎますから、
ほとんど「自然死」はないといっていいでしょう。

また、医者の方も、何もしないことには耐えられないでしょう。
しかし、それは、穏やかに死ぬのを邪魔する行為なのです。

ですから、ほとんどの医者は「自然死」を知りません。
人間が自然に死んでいく姿を、見たことがありません。
だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、
いい出すのです。

「死」という自然の営みは、
本来、穏やかで安らかだったはずです。

それを、医療が濃厚に関与することで、
より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。

世の中で、一番の恐がりは医者でしょう。
それは悲惨な死ばかりを目のあたりにしてきたせいだと思います。

がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、
穏やかに死んでいきます。
以前から「死ぬのはがんに限る」と思っていましたが、
年寄りのがんの自然死60~70例を経験した今は、
確信に変わりました。

繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧めです。
ただし、「手遅れの幸せ」を満喫するためには、
「がん検診」や「人間ドック」などは受けてはいけません。

病院通いの年寄りが多いのは、私たちの同業者が、
「健やかに老いなければいけない」
と脅し続けてきたせいもあります。

今、年寄りに対する「若さ」や「健康」の重圧には、
かなりのものがあります。
 健康食品やサプリメントの売れ行きの凄さがそれを
物語っているように思えます。

本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。
不具合のほとんどは老化がらみですから、
医者にかかって薬を飲んだところで、
すっかりよくなるわけはありません。
昔の年寄りのように、
年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。

ところが、「年のせい」を認めようとせず、
「老い」を「病」にすり替えます。
なぜなら、
「老い」は一方通行で、その先には「死」がありますが、
病気なら回復が期待できますから。

人間は、生きものである以上、
老いて死ぬという運命は免れません。
最先端医療といい、再生医療といい、所詮「老いて死ぬ」
という枠内での話です。
年寄りは、あまり近づかない方がいいと思います。

あまり医療に依存しすぎず、老いには寄り添い、
病には連れ添う、
これが年寄りの楽に生きる王道だと思います。

年寄りの最後の大事な役割は、
できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。

しかし、「逝き方」は「生き方」なのです。
今日は昨日の続きです。
昨日と全く違う今日はありえません。

ということは、今日の生き方が問われるわけです。
今の生き方、周囲へのかかわり方、医療の利用の仕方、
これらが、死の場面に反映されるということです。

少し体調がすぐれなければ、すぐ「医者よ、薬よ、病院よ」
と大騒ぎする人には、
「自然死」は高望みだということになります。

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この後の本文は目次の見出しで、
中村さんの言わんとすることが分かりますので、
興味深い見出しを以下にご紹介します。
是非、原本をご覧ください。

 本人に治せないものを他人である医者に治せるはずがない
 解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる
 鼻汁や咳を薬で抑えるのは誤り
 

 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
 食べないから死ぬのではない、死に時が来たから食べないのだ
 

 がんは完全放置すれば痛まない
 がんはあの世からの「お迎えの使者」
 「早期発見の不幸」「手遅れの幸せ」
 がんで死ぬんじゃないよ、がんの治療で死ぬんだよ
 
 
 余命2、3カ月が1年になった自然史の例

 健康には振り回されず、死には妙にあわがわず
   医療が限定利用を心がける
 生き物は繁殖を終えれば死ぬ
 生活習慣病は治らない
 年寄りはどこか具合の悪いのが正常


ということを聞けば
ずい分気が楽になるところがありませんか?

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

正に、この環境にあります。元々延命処置はしないことを確認し合って居たのですが、自宅介護が儘ならず、介護施設から病院へとなりました。理由は嚥下困難、処置は点滴だけですが既に1か月以上経過してます。頭は冴えていて会話ができます。上手く行くと私の冗談に笑います。医者は自然死に理解があり、点滴を何時止めるかは家族の判断に成っています。
点滴に関する無知が招いた結果ですが、月末には決断しようと思ってます。