2023年6月19日月曜日

驚天動地!「日本人はどこから来たか」の決着!

[このテーマの目的・ねらい】
目的:
 日本人の起源論の最新版をご紹介します。
 そもそも日本には、中国よりも先に人類が到着しています。
 縄文人が弥生人になったのです。
 渡来弥生人説はほぼ否定されました。
ねらい:
 今後の研究の深化を期待しましょう。
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日本人の起源論は、日本国民の関心事でもあり、
非常に多くの書籍が出版されてきました。
私が手許に持っているだけでも10冊以上あります。

これまでの主流見解は、有名な「埴原理論」でした。
埴原和郎教授の「二重構造説」はこうでした。
出典:斎藤成也著「日本列島人の歴史」における紹介

日本列島に旧石器時代に移住して最初に住みついた人々は、
東南アジアに住んでいた古いタイプの人々の子孫であり、
彼らが縄文人を形成しました。

その後、ハカタ時代(上野注:≒弥生時代)になるころ、
北東アジアにもともと居住していた人々の一派が
日本列島に渡来してきました。

彼らはもともとは縄文人の祖先集団と近縁な集団でしたが、
顔などの形態が縄文人とは異なってきました。
この新しいタイプの人々(弥生時代以降の渡来人)は
北部九州にはじまって、本州の日本海沿岸近畿地方に移住を重ね、
先住民である縄文人の子孫と混血をくりかえしました。

ところが、北海道にいた縄文人の子孫集団は、
この渡来人との混血をほとんど経ず、
やがてアイヌ集団につながっていきました。

沖縄を中心とする南西諸島の集団も、
日本列島中央部から多くの移住があったために
北海道ほど明確ではありませんが、
それでも日本列島中央部に比べると縄文人の特長をより強く残しました。

このように、現代日本人集団の主要構成要素を、
第一波の移住民である「土着縄文系」と
第二波の移住民である「渡来弥生人系」の二つに考えて説明したことから
この説は「二重構造説」とよばれています。

ところが、長浜浩明氏著「日本人の祖先は縄文人だった!」(2021/9)
では二重構造説をはじめとする多くの学説に対して
異なる仮説を提示しています。
この仮説は、これまで明らかになっているすべての事実に対して
矛盾なく説明のできる優れモノなのです。



なんと、長浜氏は、東工大出身の一級建築士で、
考古学等は全くの門外漢なのです。
門外漢の方が、
学閥とかにとらわれずに客観的な分析ができるのでしょう。
スコイものです。

実は、他の先生でも
この「二重構造説」に疑問を呈している方もおられるのです。
たとえば、
「日本人の源流」(2023年3月刊)の著者斎藤成也教授
(国立遺伝学研究所名誉教授)も
その「はじめに」にこう書かれています。













では、二重構造モデルの基盤となる、縄文時代までの人々と
弥生時代以降の渡来人のそれぞれの源流はどこだろうか?
実は、どちらもまだ諸説があり、よく分かっていないのである。
(中略)
古い時代の遺跡から発見された人骨も、
新しい時代の人骨も同時に比較できる研究と異なり、
現在生きている人々のDNAを調べる研究では、
過去の人々がどの地域にいたのかをたどるのは簡単ではない。
それでも、現在の人々の地理的分布から類推して、
縄文人の祖先は東南アジアからとか、あるいは北東アジアからとか、
いろいろな説がとなえられた。

そこで、縄文時代人のゲノムDNAが登場する。
過去に生きていた人々の遺した骨や歯のなかには、
微量ながら彼らのDNAが残っていることがある。
それを調べることができれば、縄文人のゲノムを直接知ることができる。

わたしの研究グループは、
縄文時代人のゲノムDNAの情報を決定することに初めて成功し、
論文を2016年に発表した。
その内容は、縄文人は現代の東南アジア人とも、
北東アジア人とも近くなかったというものである。
縄文人の起源をさぐる旅は,振り出しに戻ったのだ。
謎は深まるばかりである。

(上野注:縄文時代人のDNAを調べたと言われますが、
ほんの1,2件を調べただけで、縄文時代人はこうだ、
と言うことはできないでしょう。
縄文時代人は均一であるという証拠はないのですからね。

それにそもそも,DNAの解析は、絶対のように思われていますが、
Y染色体でもそれを構成する総塩基対数は5100万に及ぶので
その組み合わせは無限に近いのです。
特定の組み合わせに着目して同類であるとする分析は
覆される可能性もあるのです)

実は、斎藤成也教授は2015年8月に出された
「日本列島人の歴史」では以下のような、
3段階の「日本列島人の形成モデル」を発表しておられましたが、
上記の最新著では掲載されていません。
おそらく、この数年で見解の相違が発生したのでしょう。
この世界はDNA研究の進展により日進月歩なのです。




長浜説の骨子はこうなっています。
1.人類(新人)の日本への到来ルート(学説の紹介)
➡日本から大陸へ人類が移動している(逆ではない)。

2.アジアにおける人種(Y染色体による)構成(学説の紹介)
➡現日本人の人種構成は、大陸系の影響が少ない。
 渡来弥生人説は疑問。

3.水田稲作は日本が始祖
水田稲作は外国から伝わったものではない。
 温帯ジャポニカの水稲は北九州の縄文人が始祖である。
 ここから順次日本中に広まった。朝鮮半島にも伝わっている。

4.アイヌ人の正体
➡アイヌ人は、
 中国の元に追われた北アジア民族が北海道に逃げ込んだもので
 旧来人種ではない。その後、旧来人種である北海道人と混血した。

5.縄文時代人と弥生時代人の骨相の差
➡それは、環境が変化した影響である。
 江戸時代人と現代人は身長・骨格・人相もかなり異なっている。

以下、若干のご紹介をします。
ご関心ある方は、ぜひ本書をご覧ください。

1.人類(新人)の日本への到来ルート(学説の紹介)
[ジェノグラフィック・プロジェクトの計画]
以下は2005年4月の記事です。
米国ナショナル ジオグラフィック協会とIBMは共同で、
世界各地で数十万人のDNAサンプルを収集・解析し、
人類がどのように地球上に広がったかを探る
「ジェノグラフィック・プロジェクト」を今後5年かけて行うことを
発表しました。

「ジェノグラフィック・プロジェクト」では、
世界各地の先住民族や一般の方々など数十万人のDNAサンプルを
コンピューターによって解析します。
ナショナル ジオグラフィック協会の協会付き研究者で遺伝学者の
スペンサー・ウエルズ博士をリーダーとし、
世界各国の科学者チーム、IBMの研究者たちが協力して
人類の遺伝的ルーツを解明します。

今回のプロジェクトは米国のウェイト・ファミリー財団の資金援助を受け、
科学者たちが世界10カ所に設けるプロジェクト・センターで
数十万点のDNAサンプルを分析する予定です。

【プロジェクトの成果】
2014年の時点でGeno2.0(ベータ版)の参加者は、世界中で約65万人以上、
2015年(正規版)発売開始以降、約70万5,000人、
2016年2月の時点で約74万2,652人を越え、
2017年9月には約83万4,322人を記録、
2019年12月の時点で、約100万5,694人、140ヶ国の人々が参加している。
これら、参加者たちによって提供されたDNAの生データは
人類遺伝学分子生物学の分野の発展に大いに貢献された。
このプロジェクトの成功により、
消費者が遺伝子検査に手軽に申込めるというスタイルが確立され、
海外では病気のリスクなどが予知できる23andMe など、
様々な分野にもDNAを利用したビジネスが生み出されるきっかけとなった。














そうして発表された資料に基づき、
長浜氏が作成した図がこれです。
これによれば、アフリカからスタートした人類が
二つのルートで東南アジア経由で日本にやってきています。
日本に来た人類は、アジア大陸やアメリカ大陸に渡っています。
中国から日本への移入はないのです。

長浜氏は、この人類の移住ルートによって、
日本周辺の人種構成等はすべて矛盾なく説明できるとされています。

この分析は、多くの日本の学者・研究者さんたちは、
素直に受け入れていないようです。
自分のこれまでの主張と異なることは素直に認めないのでしょう。
情けない度量の狭さですね。

2.アジアにおける人種(Y染色体による)構成(学説の紹介)
この図も長浜氏が編集されたものです。









これによると、本土日本人のY染色体のグループ(ハプログループ)は
こうなっています。
Cは本土日本人は,10.8%だが、モンゴルに多い。
 モンゴルには日本経由で到達したと考えられる。
D1a2aが沖縄と共通(日本にしかない稀なハプログループである)
 朝鮮にも僅か(これは縄文人が倭の国に出ていったためと考えられる)
O1bが沖縄、ベトナム、タイと共通(日本人が東南アジア経由を示す)
O2はアジア各国に多い。
 縄文時代の日本からシナの土器はほとんど出土していないので
 シナからこの時代にはやってきていない。弥生時代の渡来は?
NO.Nは1.3%だが、
 4万年前にバイカル湖付近で誕生したと考えられる種で、
 旧石器時代のある時期、北からやってきたと想定される。

要約すると、現日本人は、東南アジア、東アジア系と共通性がある、
(どちらが先かはこれだけでは分からない。
ジェノグラフィック・プロジェクトの研究では東南アジアは日本より先、
東アジアは日本より後となっている)
また、現日本人は沖縄と共通性ある他にない独特の型を持っている。
おそらく、ある時期に突然変異を起こしたのではないか(これは上野仮説)。

3.水田稲作は日本が始祖
本書に以下の記述があります。
1978年、福岡県板付遺跡において、
縄文時代晩期の夜臼式土器が出土する地層から水田遺構が発見されました。
1980年、佐賀県菜畑遺跡からさらに古い縄文土器(山の寺式)と共に
畦畔と灌漑施設を伴う水田遺構が発見されました。

この事実に接した浦林竜太氏は「日本人はるかな旅」でこう記しています。
「(この水田を作ったのが)なぜ縄文人だと考えられるのか。
それは発掘された生活道具が、すべて縄文文化に由来するものだったからである。
皿や浅鉢、甕、壺といった土器の類は、みな典型的な縄文土器であった。
土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考えにくい。
こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。

菜畑遺跡の年代は、その後の研究で、紀元前15世紀から12世紀であると
推定されました。

かたや、中国や朝鮮半島でもイネの栽培は確認されているが、
それは陸稲かせいぜい天水田である。
大陸初の水田らしきものは朝鮮半島南東端の玉ケン(山偏に見)遺跡で
発見されているが、これは紀元前11世紀で、
その頃その地域は倭人が住んでいた。
したがって、その水田技術は日本から伝わったと思われる。

以上の検討を踏まえれば、
(詳細が記述されていますが省略です。ご関心ある方は本書をご覧ください)
中国の河姥渡→山東半島→朝鮮半島南西部への流れは
「水田稲作」ではなく「天水田稲作」のルートであり、
イネは熱帯ジャポニカとなります。
すると、菜畑遺跡の水田で栽培されていたイネは温帯ジャポニカですから、
このイネが山東→朝鮮半島経由でやって来ようがなく、
「水田稲作が半島から伝えられた」なる説は崩壊します。

では、紀元前12世紀以前に存在した北九州で始まった水田稲作は、
どのように日本中に伝わったのでしょうか。

関裕二氏著「縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける」(2019年3月刊)には
こういう図が載っています。

























この図の網掛けの下端が本格稲作の開始時期です。
この図では、菜畑遺跡が前掲の時期よりも300年ほど遅くなっています。
それでも、関東南部に伝わるまでは、数百年かかっています。
ところが、従来の俗説は、
米作を携えた渡来人によって急速に日本中に水田稲作が伝播した
ようになっています。それは虚構です。

なお、ご承知のように稲にはインディカ米とジャポニカ米があります。
インディカ米は今でも東南アジア一帯で栽培されていますが、
パサパサで粘り気がなく、日本では流通していません。
これに対してジャポニカ米は当初は熱帯ジャポニカ種でした。
これを現在の日本人が食べる温帯ジャポニカに育てたのは
日本人(縄文人)ではないかと想定されているのです。




熱帯ジャポニカは、東南アジア原産であるが、丈が高く台風とかに弱く実も落ちやすい、これを長い年月の選別を経て温帯ジャポニカが生まれた、と解釈されています。



水田稲作は、灌漑用水路の構築など地域での共同作業も必要としますので
個人レベルでさっさと導入するというわけにはいかなかったのです。
弥生時代には、旧来の熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカが併存していました。


縄文人が改革に後ろ向きだったのではないでしょう。

4.アイヌ人の正体
二重構造説では、アイヌ人はオキナワ人と同じく、
弥生人の影響をあまり受けていない人々だということになっています。
この点はどうなのでしょうか。
以下の記述があります。

最初に北海道に登場した新人は本州からやって来ました。
彼らはこの地に留まり文化を育み、人口が増えるにつれ、
ある者は樺太や東シベリアへ、
またある者は北アメリカへと移動していったのです。
シベリアのブリアート人と日本人が似ているのは、
遠い祖先が北海道を経由して北へ移動して行ったからと考えると
その訳が分かります。
(上野注:これはジェノグラフィック・プロジェクトの結論そのものです)

以下は、上野による長浜氏書の要約です。
その後、鎌倉時代に、アイヌ民族が、北海道にやって来ました。
彼らは大陸で「元」に追われて北海道に逃げ込んだのです。
当初そのアイヌ人は、土着の北海道人と争いをしました。
彼らは、トリカブトの猛毒を鏃に塗った毒矢を武器としていて
樺太や北海道のオホーツク海沿岸で暮らしていた漁労民を滅ぼしました。
その後、アイヌ人も北海道人との同化をしていきました。

長浜氏は、これを受けて
「アイヌは先住民ではない、新参者である」
と書かれています。

しかし(以下上野説)そのアイヌ人は、
もともとの縄文人が大陸に出ていった人たちだとすればよそ者ではない、
ということになります。
DNA分析でも、現日本人に近いところがあるとすれば、
そのためでしょう。
しかし、アイヌ人は日本に定住していた民族(縄文人)ではない、
ということにはなります。

5.縄文時代人と弥生時代人の骨相の差
最も反証の困難なのは、この点です。
縄文時代人と弥生時代人との間には身体的な差があり、
これが、渡来人説の有力な根拠となっています。

本書にはこういう記述があります。
日本人のルーツには、概略三つの説がありました。
①置換説(縄文人から渡来人へと入れ替わった)
②混血説(縄文人と渡来人が混血した)
③変形説(少しの混血はあったが主に生活環境の激変による
     骨格形成が原因)

東京大学名誉教授の鈴木尚氏は「骨から見た日本人のルーツ」(1983年)
において次のように記していました。
(上野注:鈴木氏は「変形説」です)

「人種置換説と混血説とは、その根拠として、
人類の形質はいったん与えられると、
そのまま変化しないか、変化しにくいという考えに立脚している。
したがって、ある時代の大きな変化があったとすれば、
別の人種の存在を前提としなければならない」

以下は、本書掲載の篠田謙一氏の解説です。
日本人の骨格は歴史上2回大きく変化します。
1回目は縄文から弥生時代にかけて、
2回目は江戸から明治にかけてです。

この2回の画期は、
いずれも日本人の生活様式が大きく変わった時期でした。
前者は狩猟採集社会から農耕社会への移行、
後者は西洋文明の受容です。

明治時代に大量の移民はなかったのにもかかわらず
日本人の体系は大きく変わったわけで、
その状況を目の当たりにしていた研究者たちは、
縄文・弥生移行期における変化も変形説で説明することを
容易に受け入れることができたのです。

以下は本書における鈴木氏の説の紹介です。
たぶん大陸系の人々の日本への渡来は、
文化的には大きく貢献したには違いないが、
全体的には混血の効果としてはほとんどなかったか、
あったとしても局地的な影響にとどまったことであろう。
結局、文化現象と人口現象とは区別して考えるべきであろう。
(上野注:この考え方は、
言語の伝播即人種の移動ではないという周知の説の根拠です)

なお、(以下上野の要約)
渡来人らしき人骨の特徴が縄文人たちとかなり異なることが判明したのは、
北部九州の土井が浜遺跡の300体あまりの人骨です。
これが渡来人説の根拠とされたのです。

ところが、その遺跡から出たのは、北部九州で作られた弥生土器や
種子島以南の海でしか採れない貝で作った腕輪・指輪などでした。
まったく渡来人のものではないのです。

この土井が浜遺跡の時代は、
水田稲作が開始されてから1000年以上過ぎており
環境変化説(変形説)を否定できない充分な時間が経過しているのです。

参考までに、埴原和郎氏の人体計測値の地方差の資料を掲載します。
(出典:埴原和郎「日本人の成り立ち」












前掲の弥生文化(米作)の地方進展の状況に対応するような
連続的変化をしていることが見て取れます。













ということで、渡来人との混血説を受け入れなくても、
骨相の変化は説明できることになりそうです。

以上によって、渡来弥生人によって日本の文化が進展したという説は
完全に否定できたようです。


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