2022年8月10日水曜日

台湾は誰のものか?

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 台湾の歴史を再確認して、
 台湾は誰のものかを原点に立ち返って考えてみます。
ねらい:
 やはり、中国の要求は不当ですね。
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台湾が「非常事態」です。
中国共産党は、台湾はもともと中国の一部である。
統一するのは中国の内部問題であり、他国に干渉される筋合いはない、
と主張しています。



そこであらためて、台湾は誰のものだろう?と確認してみました。
これは台湾の歴史なのですが、民族の移動を中心にしています。

台湾の歴史Wikipediaから抜粋)

 

時代区分

住民

先史及び原住民時代 (1624年以前)

 

ü  1万年前までの氷河期には大陸と陸続きであった。

ü  旧石器時代、人類が生存していたが民族系統は不明である。

ü  新石器時代には、現在の原住民と別の民族が住んでいた。

ü  台湾原住民はオーストロネシア語族に属し、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかし一度台湾から出て行った種族が、再び台湾に戻ってくるなど、その移動は複雑で未だ不明な点が多い。

ü  多くの原住民族が生息していたが、台湾全土を対象にする「国家」的存在はなかった。

ü  澎湖諸島は元代巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというのが確実な記録である。他は確たる証拠はない。

オランダ統治時代(1624-1662年)

38年間

ü  倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。また、この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。

ü  オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。

鄭氏政権時代

1662- 1683年)

21年間

ü  1644李自成の反乱によって朝が滅亡し、混乱状況にあった中国満州族の王朝であるが進出して来た。これに対し、明朝の皇族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661に滅亡させられた。そのために、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保するために台湾オランダ東インド会社を攻撃し、1662に東インド会社を台湾から駆逐することに成功した。

ü  鄭政権は、(民国の流れを汲む)初の台湾国家である

大清帝国統治時代(1683- 1895年)

212年間

ü 建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た帝国は、  
 「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を 
 行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすこと
 に成功した(澎湖海戦)。
ü だが、大清帝国は鄭氏政権を滅ぼすために台湾島を攻          
 撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有することに
 消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によっ
 て、最終的には軍事上の観点から領有することを決定
 し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設
 置した上で福建省の統治下に編入した。(1684年)
ü 大清帝国は、台湾を「化外の地」(「皇帝の支配する
 領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)と
 してさほど重要視していなかったために統治には永らく
 消極的であり続け、特に
台湾原住民については「化外
 (けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、
 「中華文明に属さない民」の意)として放置し続けてき
 た。

ü   大清帝国編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。

日本統治時代

1895- 1945年)

50年間

ü  189517の日清戦争の結果、台湾本島および澎湖諸島は日本に割譲された。日本への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、1896三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。

ü  農業は台湾、工業は日本」と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の整備、大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬萊米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。

ü  日本統治時代の日本人の移民はかなりいたが、その状況は不明である(40万人という説がある)。そのほとんどは敗戦で日本に戻されている。

中華民国統治時代(1945 - 現在)

南京国民政府(1945 - 1948年)

 

ü  1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蔣介石率いる中華民国南京国民政府軍が19451017日に約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸して来た

ü  南京国民政府は、194510月25の日本軍の降伏式典後に、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を行い、台湾を中華民国の領土に編入すると同時に、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置した。

ü  だが、中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行強盗事件が頻発した。さらに、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人台湾人)が公所と政府軍に反発し、19472月28に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。

ü  その際に、蔣介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、1947年に台湾省政府による台湾統治を開始した。

ü  二・二八事件以降、国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人[要出]処刑したと推定されている(白色テロ)。こうした台湾人に対する弾圧は蔣経国の時代になっても続けられた。国民党が当時の資料の公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は不明で、犠牲者数には諸説ある。

 

中華民国政府(1949 - 1996年)

 

ü  1949年に蔣介石が国共内戦で敗れた兵隊、崩壊状態にあった南京国民政府を引き連れて台湾に移住してきたため、これ以降は事実上蔣介石・国民政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。

ü  台湾に逃れた蔣介石戒厳令を敷いて不穏分子を取り締まり、特に本省人の知識人を弾圧した。一方で大陸から台湾に逃れた数十万の軍人を養うためにも大規模開発が必須であったことから、大陸から運び込んだ莫大な資金を用いて開発独裁が行われた。鉄道の北廻線蘇澳港開発など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へ発展していく。

ü  共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蔣介石に種々の援助-美援(美国援助=米国援助)を与えた。ベトナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に突入することになる。

ü  1987年に戒厳令解除に踏み切った蔣経国(総統在職:1978年~1988年)の死後、総統・国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に選出された。

ü  社会的には蔣介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立(省籍矛盾)、さらに本省人内でも福老人と客家人の対立があったが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指した。

 

動員戡乱時期終了後(1996 - 現在)

 

ü  この時代には、大きな民族の移動は記録されていない。

ü  李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進したが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民進党陳水扁が総統に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突し、政局は混迷を続けた。

ü  2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。

ü  2008年の総統選挙では国民党の馬英九が当選し、〈両岸対等,共同協議,市場拡大〉を掲げて中国市場を意識した経済政策重視の路線が進められ、中国との間で「三通」(通商・通航・通郵)を実現させたが、2014年に海峡両岸サービス貿易協定締結を強引にすすめる馬政権に反発した学生たちがひまわり学生運動を起こして撤回に追い込んだ。

ü  一方の当事者であるアメリカ自身、中国に対する脅威論、友好論が錯綜し一定の方針が定まっていないため、対台政策も一貫せず、台湾は独自性を強めざるを得ないとの見方もある。そのために日本を対中包囲網の一環に組み込もうとする遠謀も、李登輝などの親日政治家には見られるとされない。

ü  2016年中華民国総統選挙で民進党の蔡英文が馬を破って当選し、初の女性台湾総統となった。

ü  2020年中華民国総統選挙で民進党の蔡英文が再選。


この結果、現在の台湾居住者(住民)の民族構成はこうなっています。

大清帝国統治時代に主として福建省から渡来した閩南人(びんなん人) 
                          約70%
同じく広東省から渡来した客家人           約15%
第2次大戦終戦後渡来した国民党系関係者である外省人 約13%
原住民                       約 2%

こうしてみると、誰が台湾は自分のものだというのでしょうか?
原住民は、「もともと俺たちが住んでいたのだ。俺のものだ」
と言いそうですが、残念ながら原住民は複数の部族が各地に住んでいて、
台湾全島を統治していません。
したがって、「この土地は俺のものだ」と主張はできても、
「台湾全体が俺たちのものだ」ということはできません。

因みに若干余談になりますが、
台湾の原住民族は、これだけの島なのに、それぞれが独立していて
相互に連携して文化を広めるというような活動は
行われていないようです。
それに対して、最大時でも僅か20数万人の縄文人が、
日本全国に広がっていた、
弥生文化は短期間に西から東に広がっていったのです。
何か民族の違いを感じます。

次の争点は、終戦後やってきた国民党系の外省人です。
しかしこの人たちは、長い歴史から見れば最近になって、
武力で侵略してきた言うなれば「進駐軍」ですから、
「台湾は、本来俺のものだ」という権利はないのではないでしょうか。

そうすると、残されたのは、終戦前から台湾に住んでいた「本省人」
(前掲の区分では
閩南人客家人)です。
この人たちは
「台湾は俺たちのものだ、侵略者にとやかく言われる筋合いはない」
と言う権利は持っていると考えられます。

国民党が終戦後のどさくさにやってきたので、
話しがややこしくなっているのであって、
それがなければ、
他の東南アジアの国と同じように独立ができていたのです。

本来は、圧倒的多数を占める本省人たちが、
自分の国がどうあったらよいかを考えて決めればいいことなのです。
中国の一部になった方がよいか、独立国になるか、です。

国際情勢を見ると、その選択は一長一短があるので、
圧倒的多数を占める本省人なのに決めかねているのでしょう。
米国や日本が台湾を支援・応援するのは、
台湾人のためを第1義に考えているのではなく
自由主義陣営の防衛のためです。
台湾人は別の考え方をするでしょう。

総統選挙で、国民党系が選ばれる、
民主党系(=本省人系のはず)蔡英文も圧倒的ではない、
ということは、国民も悩んでいるのでしょう。

いずれにしても、共産党中国が、
「台湾は俺のものだ」という権利はなさそうです。
何としても、武力による統合は避けねばなりません。

注:これの続きが「台湾はどうなるか?」にあります。

3 件のコメント:

上野 則男 さんのコメント...

ABさんからいただいたメールを転載させていただきます。

有難うございました。

2013年に出た加瀬英明 『日本と台湾』(祥伝社の新書)の見返しには、次のよ
うにあります。

「台湾の本当の歴史と現実を、日本人は知らない。アメリカ人はもっと知らない。
歴史的にも文化的にも、台湾は中国の一部ではない。歴史上、中国が台湾全土を統治
したのは、日清戦争前の20年間にすぎなかった」

その序章は、「台湾は中国ではない。-その成り立ちと歴史をたどる」です
それを読んだ時から、
「やはりそうか。それなのに、肝心の台湾がそのことをなぜ声高に叫ばないのか」
「米国、日本、その他の国で、そういう主張を展開している人は、あまりいないの
か?」
「なぜアメリカは、『一つの中国という政策は変わらないが、現状変更は許せない』
という曖昧政策を続けるのか。それでは「内政問題」と中国から反撃されて、ズルズ
ルと押し切られてしまうのではないか」
という疑問を抱いていました。

50年前にニクソン、キッシンジャーが台湾を見捨てて中国寄りに舵を切った時には、
中国の脅威をあまり感じておらず、「経済的には中国と組んだ方が将来得である」
という打算があったのではないか、と思いました。

今からアメリカが、「一つの中国という認識は誤りだった。歴史を振り返れば、台湾
は中国の一部ではない」 と主張したら、大波乱が起きるでしょうが、いずれはその
ステップを踏まざるを得ないのではないか、と思います。

しかし、世界各国の政府やマスコミが、その論調を高めないのでしょうか?

上野 則男 さんのコメント...

当ブルグでも何度か寄稿いただいている
米野忠男氏からの「博識」のメールをご紹介いたします。

今回の台湾問題への取り組みは大変分かりやすく,
改めて歴史を振り返ることができました。
まず台湾の歴史の要約が素晴らしい。

「誰のもの」についての李登輝の説が迫力ありますね。
中国がかって清国が領有したことを根拠に主張するなら,
同じくかって領有したオランダ,スペイン,日本も同じ権利があり,
中国の論法は暴論と決めつけている。
中国は李登輝の主張にどう答えているのか,
いつもの「内政干渉は許さぬ」で押し通すのでしょうかね。

台湾は旅行で2度行きましたが,
日本に統治された韓国では半日運動が激しく起きているのに,
台湾ではそんな運動が起きていないのを,少し理解できた。
反日どころか親日の人が多い。
台湾の人から米は2毛作だが,日本のお陰だと言われた。

貴兄のブログにも「台湾では農業振興政策が採用され,
大規模水利事業が実施された」とあるように,
日本政府が推進した灌漑によるものだ。

また水道も敷設されたので,
大陸から蒋介石ら多くの人が台湾に渡ってきた時,
台湾では壁から水が出ると驚いたという。
中国は当時水は井戸からしか得られなかったのだ。
中国は昔から水質が悪いから,
中華料理には素材を生で使う料理はなく,
すべて熱で温める料理ばかりなのは頷ける。

台湾の人は日本統治時代に,
日本が社会インフラ整備に投資したことに感謝している。

不思議なことに韓国でも日本は水力発電を建設したり,
多くの会社を設立して産業基盤構築に大投資をしたのに感謝されない。
満州も然りで,日本ではできなかった広軌道の満州鉄道を建設し,
大連の港湾を拡充し,近代的な都市建設も行ったのに評価されていない。

戦後日本は満州,韓国,台湾,北方領土を失い,国土はほぼ半分になった。
欧州列強は植民地を失って国力を低下させたが,
日本は植民地を失って戦後の急復興を遂げた。
これは欧州列強は植民地から利益の搾取を目的にしたのに,
日本は植民地から得る利益より投資が大きかったから,
戦後にその負担が無くなったので発展したと言った歴史家がいたが,
それを知って妙に頷けた。

そういえばオランダの植民地だったインドネシアが独立した時,
オランダ政府はかって投資した費用を請求したが,
勿論認められなかったそうだ。
そりゃそうでしょう。

上野 則男 さんのコメント...

以下は、帝人時代の同期生SY氏からいただいたメールです。

台湾の歴史を調べて貰い、大変嬉しく思いました。
日本人の多くは知らないと思います。
とこかで、大きく発表して貰えば、日本人の物の考え方も変わるかもしれません。
元気で頑張って下さい。