2021年12月4日土曜日

「法医学者の使命」のご紹介

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 真面目な法医学紹介書をご紹介します。
 裁判のいい加減さ(の一面)を再確認していただきます。
 医療過誤の実態と削減対策を知っていただきます。
 裁判の悪である冤罪をなくす方法について考えていただきます。
ねらい:
 裁判を他人事でなく、関心を持つようにしましょう。
 できれば、「正しい」裁判の実現に力を出したいですね。
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「法医学者の使命」は、
元東大法医学教室教授である𠮷田謙一名誉教授の書かれたものです。


実は、亡父上野正吉は東大法医学教室の4代目教授でした。
𠮷田教授(以下、𠮷田先生)は8代目の教授でいらっしゃいます。

昨今は、事件ものテレビ劇で再々登場する法医学ですが、
本書は派手な表舞台を取りあげているのではありません。
岩波新書なのですが、その帯にはこう書かれています。
 法医学者は訴える
  突然死はどのような場合に起こるか
  死因を誤り、犯罪死を見逃さないために、どこに気をつけるべきか
  日本の刑事司法のどこが問題か、
  死因究明制度はどうあるべきか
この文言に嘘偽りや誇大表示はございません。
さすが岩波新書です。

本書の「はじめに」では、
𠮷田先生は出版意図をこのように書かれています。
1.なぜ死因の判定を誤るのか 
  警察官の見落とし、鑑定医の誤判断、等々
2.突然死はどのように発生し、何をもたらすか
  暴行等によらずに起きる突然死をどう見分けるか
3.医療事故と刑事裁判
  昨今増加している医療事故の刑事裁判における法医学の課題
4.どうすれば、冤罪を防止できるか
  法医学者と刑事司法がどのように連携すればよいのか

そして、以下のことばが述べられています。
読者に、法医学、刑事司法、刑事裁判の実情を理解していただき、
事故・犯罪の見逃しと冤罪を防止し、
事故・事件の再発防止と国民の人権の擁護のため、
死因究明がいかに重要かを理解していただけると幸いである。

そのとおりです!!それは大変重要なことです。
本書では、
59件の実際に発生したケースを取りあげて具体的に解説がされています。
また、𠮷田先生の医科学的知見は極めて豊富であり、
未知のことを積極的に学んで鑑定に活かそうという姿勢ともども、
素晴らしいものです。

因みに、𠮷田先生は、東大卒でなくて法医学教授になられた初の方です。
おそらく東大医学部全体でも稀なことなのではないでしょうか。
僭越な表現ですが、それだけ優秀な方なのです。

以下に重要な論点をご紹介します。

1.裁判官の判断の不当性
以下に本書の内容の一部をご紹介します。
医学的判断が、そのまま法的判断につながらないことがあるが、
検察官は、遺族の処罰感情、被疑者の反省等の事情を考慮して、
起訴にも、不起訴にもできる裁量権を持つ。
いっぽう、裁判官は、判決内容は、専門家が鑑定書に示す医学的判断に
縛られなくてよいと考えている。
しかし、次のケース8のように、裁判官に自らの医学的判断(鑑定)を
軽視された法的判断には、鑑定医は納得できない。

ケース8 暴行と心臓突然死
小料理屋が看板となり、女将が中年男性客に帰宅を促したが、
どうしても帰らないので、内縁の夫が説得していたところ、
客は憤激のあまり夫の襟首をつかんで床に引き倒し、
その直後、夫が突然死した。
東大法医学の上野正吉教授(当時)は、
「死因は慢性虚血性心疾患である。その病変は高度であり、
引き倒されなかったとしても突然死した可能性があるから、
暴行と死との間に因果関係は認められない」(趣旨)と鑑定した。
ところが、最高裁は、
病死とはいえ、引き倒しと死亡の間に因果関係はある、
と判示した(最高裁昭和36年11月21日判決)。

上野教授が、この判決を強く批判した随筆を読んだ。
ケース7・8の解剖所見は、ほぼ同様であったが、
私のケース7では、被害者が受けた殴打は、通常人であれば、
外因死しても当然なほど強く執拗であった上、
被害者が抵抗しなかったことも考慮した上で、
裁判官は、暴行と死の因果関係を認めたと考えられる。

これに対して、上野教授のケース8では、暴行とはいえ、
数分間の言葉のやりとりの後、襟をつかんで引き倒しただけに留まる。
私は、上野教授が、裁判官に憤慨する気持ちがよく理解できる。
法律家に聞くと、ケース7・8のような事例においては、
裁判官は、暴行と死亡の因果関係は認めるけれど、
外因死(上野注:暴行死等)と比べると、量刑を軽くするという。

この件の参考情報として、虚血性心疾患を含む「異状死」のデータが
掲載されていましたので、転載いたします。
異状死の総数は年間1万3千件、
虚血性心疾患は異常死の過半を占める病死の約半数になっているのです。
因みに、自殺は11%です。














2.あるべき医療事故の原因究明方法
まず本書では幾つかの医療事故が紹介されています。

事件名

その概要

48

都立広尾病院事件

看護師が術後の患者に薬剤の代わりに消毒薬を注射した結果、患者が死亡した。その医療過誤を遺族に伝えず、警察への届けも、医師法21条の規定「異状死は24時間以内に所轄警察署に届けなければならない」に反し、11日後であった。主治医・病院長は「業務上過失致死」および「異状死届出義務違反」で起訴された。

49

子宮がん手術中出血例

子宮摘出手術中に動脈を傷つけ出血した。しかし依頼された麻酔医の輸血開始が遅れ死亡した、という。しかしその真偽が不明。

50

産婦人科処置時の医療事故

複数人が医療過誤に関わった事故で、不起訴となった。

51

福島県立大野病院事件

帝王切開中に胎盤剥離に手間取り妊婦が死に至った事件で、その処置は妥当かどうかが争われたが検察側証人医は経験不足で誤った判断をしていた。著者は、裁判官が「科学的証拠」を求めた好例と評価している。

52

手術後死亡における当事者判断の是非

胆管結石症の中年男性に対して、内視鏡により十二指腸の乳頭部を切開して結石を除去した。止血剤を与え止血を確認した(という)あとに一般病棟に入れた。翌日トイレで大量下血して死亡した。病理解剖の結果、切開創周囲に出血がなく小腸・大腸に出血があったので、死因は脳出血であるとした。この判断は司法解剖の結果誤りであることが判明した。

53

インプラント事件

歯科医がインプラント手術で下顎にドリルで穴を開ける際に「オトガイ下動脈」を損傷して口腔底膨張による窒息死を起こした。歯科医がこのリスクを知っていたかどうかが争われた。因みに、この歯科医は同種事故を再々起こしていた。


日本法医学界では、1994年に異常死の適切な究明を進めるために
「異状死ガイドライン」を公表しました。
異状死は直ちに警察に届けなさい、というものです。
その中に、以下のような項目も含まれています。
【4】診療行為に関連した予期しない死亡、およびその疑いがあるもの
 注射・麻酔・手術・検査・分娩などあらゆる診療行為中、
 または診療行為の比較的直後における予期しない死亡。
 診療行為自体が関与している可能性のある死亡。
 診療行為中または比較的直後の急死で、死因が不明の場合。
 診療行為の過誤や過失の有無を問わない。

ところが、この条項は、臨床医から猛反発を受けました。
その理由はこうでした。
医師が、診療関連死を警察に届け出ると、
1)医師は専門知識のない警察から被疑者扱いされ、取り調べを受ける。
2)一方、刑事訴訟法47条により、
  刑事裁判が始まるまで司法解剖の情報が開示できないため、
  遺族対応ができない。
つまり、医師は警察からも遺族からも激しく追及される、
極めて不安定な立場に立たされる、というものであった。

筆者の意見はこうです。
英米法圏諸国のように、診療中の容態急変で死に至った場合は、
届け出ることとし、
行政官の判断で「法医解剖」し、
病院・遺族に情報を伝えるのに加えて、
第3者専門家の評価を受ける制度が、
公平性、透明性、科学性の観点から必須であると考える。

その際にネックとなる刑事訴訟法47条の
「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。
但し、公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合は
この限りでない」である。
これをクリアしなければならない。

これがクリアされれば、上掲臨床医の反発の2)は解消されます。

医療事故究明の本質は因果関係の証明ですが、
以下のような明らかなミス以外は因果関係の判断は微妙です。
 手術器具を体内に置いたまま縫合してしまった。
 投与医薬の内容・量を間違えた。
原死因(そもそも初めに何を起こしたか)と
誘発死因(上野のことば、原死因に引き起こされて最終死因になった症状)
との因果関係は、蓋然性の判断であり絶対ではないということがあります。

したがって、多くの有識者が集まって判断を下すことは、
結論に対する納得性を高めることができるのです。
(上掲、英米法圏での対応方法)

【医療過誤削減の抜本対策】
少し寄り道です。
原因究明はそういうことで前進するのでしょうが、
もう一歩進んで、そのような医療過誤を起こさない対策は
どうなるのでしょう。

以下は上野私見です。
対策その1:医学部における学習の強化
正しい診療法の学習に加えて、医療過誤の学習を行います。
どういう医療過誤が起きうるのかを多数の事例で学びます。
そういう知識を持って医療に当たれば、
結果は違ってくると思われます。

対策その2:適性の判断
外科医は、内科医とは異なる資質が必要です。
外科医に要求される資質は、以下の4点であると思われます。
 視力(目が良くなければ、大事な兆候を見落とします)
 注意力(注意力がなければ、やはり見落とします)
 即断力(異常を発見したら直ちに対応法を決めなければなりません)
 手先の器用さ(的確な手術には必須です)
医学部で履修中に進路を決める際に、この適性検査を実施します。
このいずれか一つがダメでも外科医は失格です。
内科医か基礎医学系になっていただきます。

因みに𠮷田先生は、医学部の学生時代に、
指導教官から「君は患者と話ができないから、医者向きでない」
といわれ、法医学の道に進むことになったことが
本書に記載されています。結果は大正解でした。

3.どうして冤罪が起きているか
𠮷田先生が、特に社会にアピールしたかったのは、
第10章の「冤罪事件はこうして起こる」だと思われます。
こういう記述があります。

1979年に起きた大崎事件に関するものです。
大崎事件は、
鹿児島県の農村地帯で日頃から酒浸りの中年男性が死亡した事件です。
起訴状では、この男性の兄嫁が
知的障害のある親族2名と共謀して絞殺したとされています。
この犯行を全面否定する兄嫁が再審請求を起こしました。
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第1次再審において、当時解剖を担当したベテラン法医学者は、
自らの解剖と鑑定が不適切であったことを後悔し、
深刻な病気を押して出廷し、
「頚椎体前出血は、頸部圧迫の根拠であり、死因は窒息死である」
とする元の鑑定を訂正して、
「頚椎体前出血は、事故による頸部過伸展を示す所見であって、
頸部圧迫の所見ではない」と訂正した。

ところが、裁判所は、解剖医自身が、真摯に自らの誤りを訂正したのに、
事故の可能性(上野注:前段で説明されている農道からの転落)
について検証しないばかりか、
無実の可能性の高い兄嫁の必死の訴えを黙殺し続けたのである。

科学者の職業倫理は、
研究上、自分の誤りに気づけば、訂正と公表を厳しく求める。
また、医療者の職業倫理は、
第3者を含めた関係者が真相を究明した上で、
関係者への謝罪・説明と再発防止を求める。

しかしながら、裁判官は、しばしば、科学や合理性や根拠を無視して、
自らの「心証」に合わせて自由に「事実」をつくり、
あるいは、警察官・検察官の「事実認定の誤り」を認めても正すことをせず、
誰にも批判されることはない。

本書の冒頭、国連拷問禁止委員会で、
日本の刑事司法の人権軽視が批判されたことを紹介したが
(上野注:「日本の刑事司法は中世並みである」と言われた)
その時に指摘した「事実認定に関する前近代性」を克服するためには、
裁判官に科学に対するリスペクト、
根拠に基づく判断、合理的な説明が求められる。
いっぽう、再審裁判の非公開原則も、
裁判官の不作為、刑事司法の闇を隠す利しかない。

大崎事件の第3次再審請求を審理した福岡高裁の裁判官は、
私の鑑定意見を読み込んで理解し、
明確な根拠を示して事故死と判断、再審を認めた。

しかし、2019年6月、最高裁判所は再審決定を取り消した。
最高裁の判事たちは、男性が事故による出血性ショック死だとすると、
自宅の堆肥の山に埋めたのは
救助者2名の犯行によるものと考えざるを得ないが、
それは不合理であるという「心証」から事故死を否定した。

そして、結論を合理化するため、頸椎体前出血と死斑の欠如が、
鑑定書の記載内容と写真に明示されているのに、
これらの所見が示す事実を認定することを避けた。

英連邦諸国のコロナ―が一つ一つ事実を認定し、
事実に基づいて公に死因を決めることを求められているのに対して、
日本の刑事裁判官は、見えないところで、見立て(心証)に合わせて、
事実とは無関係に死因を決めることができる上、
見立てに会わない事実は無視できるのである。
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いかに日本の刑事裁判が、裁判官の恣意に左右される
いい加減なものであるかが指摘されているのです。

4.公平・客観的な裁判を実現し、冤罪を防ぐ対策
第8章の「日本の死因究明制度の問題点」
以下の解説がされています。
英米法圏諸国では、コロナ―(検視官)という制度がある。
コロナ―は、司法試験に合格し、法曹実務を5年程度経験した、
終身職で死因究明専従の法曹である。
コロナ―は、捜査官や医療専門家の力も借りて判断する。
死因究明に関する情報は原則、開示される。
オースとラリアのコロナ―制度では、再発防止対策も検討されている。

米国では、裁判の公平性・客観性維持が裁判実施上の最優先原則で、
そのためには、プライバシーの開示も行われるということを知って、
ビックリしたことを以下のブログで述べました。
若い女性が酔った状態で強姦未遂に遭った事件ですが、
警察沙汰になったために、その場の状況の写真はもちろん
身体中の陰部まで含めた写真を裁判の際、陪審員に公開されたのです。

日本の捜査・裁判情報の公開は、
一部開示が認められるようになってきたようですが
著者の言われるように、まだまだです。
「裁判官の恣意を許す」ことにつながる制限は、
徹底的に排除すべきです。
 再審裁判の非公開原則も、
 裁判官の不作為、刑事司法の闇を隠す利しかない。
のです。

本項冒頭に登場した、父上野正吉は、常々こう言っていました。
「予断を持って鑑定をしてはいけない、
 鑑定対象の物件だけから判断すべきだ」
そのことは、
鑑定だけでなく、捜査、裁判においても貫かれるべき大原則です。

【冤罪を防ぐ抜本対策】 上野私案
その1:司法修習生の学習内容強化
恣意ではなく、無知からくる誤判決を削減するためには、
司法修習生の履修内容として、法医学的知識をかなり強化する
ことが必要である、と思われます。
その際、本書も極めて有効な教材になりえます。

その2:裁判官の適性検査実施
記憶力がよくて司法試験に受かった人が、
そのまま裁判官になるのは問題です。
むかし、鬼頭史郎判事が世間を騒がせました。
彼は狂人に近いのです。

裁判官になるには以下の適性検査を実施し、
合格した者だけが裁判官になれるようにします。
裁判官に必要な適性項目は以下のとおりであると思われます。
 倫理観
 社会的使命感
 公平性
 探求心
 常識的判断力
 他人の意見を聞き入れる能力(頑固でない)
この制度の実現は難しそうですね。

おわりに
本書の「おわりに」でも紹介された木谷明弁護士(上野学友)は、
冤罪と戦っている弁護士として著名です。
(9月12日のNHK2チャンネル「こころの時代」という番組で
氏の活動が1時間に亘って紹介されました)
是非、𠮷田先生とお二人で力を合わせて、
不当な冤罪が発生しない社会づくりに貢献していただければ、
と強く願います。

なお、日本の裁判の不当性については、
以下のブログでも取り上げています。ご参考まで。
2015.3.28
木谷さんの著書のご紹介はこれです。
2013.10.17


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