2022年7月6日水曜日

住友林業元社長矢野龍さんもすごい方です!!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 住友林業を大会社にされた矢野元社長・会長の
 「私の履歴書」をご紹介します。
ねらい:
 こういう方がたくさんおられたら、
 日本は「ユデガエル」になりませんね。
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2022年6月の日経新聞「私の履歴書」は、
住友林業㈱元社長・会長、矢野龍最高顧問でした。
凄い方で、まさに同社再興の祖と言っていい方です。

要点をご紹介します。

1.育ち
1940年満洲生まれ。
父親は地元の百貨店に勤めていたが、住んでいたのは、
日本人の居住地域にある周りを大きな塀で囲まれた洋式建築の広い家で
1人の子供に3人の子守りが付く裕福な暮らしだった。
(注:同じころ、
北京大学に勤めていた父一家の私たちが住んでいたのも
まったく同じような環境で懐かしいです)

父は出征で戦死。
敗戦後、母が兄弟3人を連れてやっとの思いで帰国。
父の実家や、山口県の田舎の母の実家で苦しい生活をした。
小学校に通う頃には、板の間一つの水車小屋で
1枚のせんべい布団に4人がくるまって寝る生活だった。

母親は教員資格を取得し小学校の先生になった。
それでも生活は貧しく、まともな食事はできなかった。
イモは当然で、トンボやイナゴ、野草なども食べていた。

秋のお祭りに相撲大会があった。
立ち合いのときに低く出て相手の足の間に入り持ち上げて倒す戦法を
編み出して優勝し、賞金稼ぎをした。

小学校5年のときに、
あからさまに特定の生徒を贔屓にする先生に我慢できず、
母親に頼んで別の学校に転校させてもらった。
そうしたらその学校に、
相撲大会で負けて恨みに思っているガキ大将がいて喧嘩を売られた。
相手は大勢だったので逃げた。

(注:競技はルールがあるので、それを利用すれば勝てますが
喧嘩はそうはいきません。
私は大学時代に空手の試合で全国ベスト8になったことがあります。
一瞬のタイミングで「一発」入れることができれば勝ちです。
しかし、練習試合となるとそうはいきません。
体力に勝る者の勝ちです)

運動や遊びが好きだったので、高校も大学もギリギリ合格だった。
大学は、まともなところは歯が立たず、
比較的新設の北九州大学の米英科に入った。
英語は母親に英語の歌を教えてもらったりして親近感があった。

「運がある」のです。この進学が矢野氏の活躍の元となっています。

2.住友林業入社の経緯
大学では英会話研究会の部長をしたりして、
多少英会話になじんでいた。
住友林業が「海外駐在員枠」ということでの募集があったので
大学の厚生課員の奨めで応募したら合格した。
応募者は8人いた。その時面接で、当時の植村社長に
「あなたはお父さんを戦争で亡くされて、お母さんがお一人ですが、
海外に赴任しても大丈夫ですか」と聞かれたので、
「母は小学校の先生をしていて大丈夫です」と答えた。
植村社長の「戦死者への思いやり」で決まったのではないか
と想像した。

「ご縁」ですね。

3.若い時の経験
入社当時、住友林業は売上高100億円、従業員600人程度であった。
3年の勉強期間を終え、シアトル駐在になった。
そこを拠点に木材の買い付けで広い地域をヘリコプターで走り回った。
木材のブローカーを外して森林所有会社との直接取引に取り組んだ。
森林会社のキーマンに体当たりで臨み、
一部のキーマンとは家族ぐるみの付き合いもした。
中堅の船会社に保証をして専用船を5隻作ってもらったりもした。
6年間のシアトル駐在期間に住友林業は米材輸入のトップクラスになった。
広島支店の4年の勤務の後、シアトルに米国住友林業の社長として赴任。

4.正義感・闘争心
しかし、国際的木材価格の暴落が起きた。
東京の本社から、それまでの買い付け契約をすべて見直せ、
という指示がでた。
そこで、トラック7台分20万ドルの契約を地元の業者と契約していたのを
納得ずくで解約した。
しかしある事情があり、
いわくつきの弁護士が付いた相手と訴訟になってしまった。
本社は「和解しろ」と言ってきたが、
こちらに非はないと思っていたので、
会社に損害を与えるわけに行かないと受けて立つことにした。
本社は方針を曲げないので、訴訟費用を自腹で持つ覚悟で臨んだ。

結局裁判では負けたが、法廷で自ら奮戦した効果もあってか
補償金額は20万ドルの範囲ですんだ。
(補償額の支払いをどうしたかは記載がありません)
だらしのない会社に愛想をつかして、
シアトル勤務終了して帰国した際に社長に辞表を出した。

しかし、社長が3年待てと言われた。
海外事業を好きにやってよいと言われたので、
当時低迷していた海外事業立て直しに身を粉にして奮戦した。
結果、業績が回復し、住宅事業の赤字を埋めるまでになった。

5.専務・社長になられてからの実績
専務になっていた1998年、
業界誌に「住宅業界の負け犬」と評される記事が載った。
そこで取締役会に、「こんなことを書かれて悔しくないのか」
とはっぱをかけた。
そうしたら、じきに住宅本部長を拝命してしまった。

11か月間で1日も休まず300か所あまりの展示場を視察した。
慣習となっていた社内での「本部長接待」もやめさせた。
最前線の展示場の営業の不勉強も是正した。
ポケットサイズの木の材料集を2種類作って配付した。

住宅の製法の革新にも取り組んだ。
精度と強度に優れた集成材の利用促進と原材料の安定供給のため、
仕入先の拡大もおこなった。
コールセンターも作り、365日24時間対応を始めた。
東京で戸建て住宅ナンバー1を目指すという目標も掲げた
(これはその後実現した)

社長になって、
人事採用の方針変更(縁故採用廃止など)、
総務部門の運営方針変更(「サービス部門である」)のほか
2時間ルール(重大な情報は発生してから2時間以内に社長に上げる)
の設定などを行った。
「すぐやる、すぐ済む」をモットーにした。

住友家の家祖の「自利利他公私一如」
を具体化した経営理念と行動指針を制定した。
自分の利益だけを追求することはしないということで、
投資案件等に際してこの原点に立ち返って適用している。

リーマンショックで一時停滞したときがあったが、
米国・豪州での住宅事業をM&Aも使い拡大している。
今や住友林業の利益の7割を米豪の事業が稼いでいる。


2007年に初めて長期経営計画を作った。
売上高1兆6000億円、経常利益800億円
「世界一の森林会社」という目標も掲げた。
(2021年12月期に
売上1兆4000億円、経常1378億円を実現しています)

2004年に遅ればせながら女性の総合職採用を始め、
女性の活躍を推進している
(これは自分が育った環境(母親、女姉妹)も影響している)。

住友林業は、
四国、九州、和歌山、北海道などに4万8000ヘクタール、
国土の約800分の1の山林を保有している。
山林の手入れには大変な手間がかかり、単独で見ると採算は厳しい。
現在の脱CO2の時代に高く評価されている。

以上ですが、住友林業の事業は地味なので、
あまり世間の注目を集めてきませんでしたが、
矢野氏の貢献は大変なものです。
「自分の取りえは闘争心と体力と実用英語だ」とのことです。
それプラス、幼少時の逆境、運、縁にも恵まれています。
これだけ波乱万丈の人生を過ごされる方はおられないでしょうね。

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