2021年4月11日日曜日

三島由紀夫の「恋文」が見つかったのですって!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 三島由紀夫の天才性の再確認をいたします。
ねらい:
 あらためて三島作品を読んでみられますか?
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このタイトルは何かと思われるでしょう?
これまで埋没していた三島由紀夫の作品が見つかったという記事が
4月9日付の日経新聞に載っていました。
1949年10月30日付の朝日新聞大阪版・東京西部版に掲載された
三島作品なのですが、
これまで三島さんの全集や単行本には収録されずに埋没していたのだそうです。

その「恋文」が雑誌「新潮」に掲載されましたので読んでみました。
こういう小文です。
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 酒がこぼれたのでハンカチを出そうとして
知らない間に入っていた封筒にさわった。
 堅人一方の藝なしザルの支店長は、この怪文書を一座にひろうして、
宴会の座興に代えた。
 匿名の恋文である。拍手がおこる。
「明日5時PX前でお待ちします。X子」
 艶福家扱いをされて支店長はにやにやしている。
家に帰って最愛の夫人にみせた。
 夫人は冷艶な美人である。
そんなはずはないという微笑が会心の微笑に変った。
「ご覧あそばせ。安子の字ですわ」ーー十三の長女がうなだれた。
怒ることも出来ずに、
「あきれた悪戯だ。おやじをからかるにも程がある。何故したんだね」
ーー長女はぼんやり宙を見ながら答える。
「お父さまが可哀そうだから」
 夫人のまゆが一寸険しくなった。良人は気がつかない。
長女は家の中のことを何もかも知っていて、父を憐れんでいたのである。
父にも恋人が一人ぐらいあってもよいと思われるのだった。
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     出典:「新潮」4月7日号 
    脚注に三島由紀夫の字が間違えていることが書かれています。

お分かりのように、現代風かなづかいで難しい漢字は使っていません。
この作品を「再発見」した斎藤理正大阪大学教授の解説によると
以下のように解釈されています(「新潮」掲載)。

「恋文」は、長女による父への「悪戯」を思わせた手紙が、
父不在時の家庭の状況を浮かび上がらせる構成になっている。
母に複数の恋人がいること、
13歳で家庭の状況をすべて知った長女の想い、
この後に一家が直面しそうな問題などが、終盤に暗示されてゆく。

こういう解説も載っていました。
作中のPXはPost Exchangeの略。ここでは進駐軍の売店を指す。
占領下では、東京銀座の服部時計店や松屋デパート、
大阪心斎橋のそごうなど、都市を代表する店舗が接収され、
主にアメリカ兵やその家族向けの売店にされた。
一般の日本人はPXには立入禁止であった。

街の中心にあるPXを、遠巻きに眺めるしかない日本人。
自分の家で何が行われているか知らない父と、
知りながら介入できない長女。
この家庭の状況は、占領下の日本を表しているように読める。

長女の虚ろな視線と父へのあわれみ、
父がわざわざ「支店長」と書かれていることなども象徴的である。
あえて待ち合わせ場所が「PX」にされたのは、
単なる一家庭の危機の話ではないことを、読者に気づかせようという、
作家の目配せだったのではないか。

普通の読者はそこまで読めるのですかね?
特に「母に複数の恋人がいること」
「この後に一家が直面しそうな問題」

「ニブイ」私はそこまで読めませんでしたね。
皆さまはいかがでしたか。

斎藤教授の解説によると、
三島は2か月後に発表した評論「極く短かい小説の効用」で
「長編小説と等しい質量をもたない掌編は無意味である」
「掌編小説は、水の上に現れた氷山の一部分である」
と述べている。

たしかに、
この掌編小説「恋文」はそのような奥行きを持っているのです。
このような内容を考えつくというのは素晴らしい才能です。
やはり三島由紀夫は天才だったのですね。

因みに、掌編小説はこういう位置づけのようです。
長い順で
長編、中編、短編、ショートショート(短い短編)、掌編、で
掌編は一般的に数百字以内とされています。
この言葉は1920年代に作られたようです。
 川端康成「掌篇小説の流行」(文藝春秋 1926年1月号に掲載)


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