目的:
帝人時代の同期生道本正毅さんの遺作をご紹介します。
心から道本正毅さんのご冥福をお祈りします。
ねらい:
ご希望の方にこの作品のデータをお送りします。
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以下に道本正毅さんの作品「六丁川心中」の
冒頭の部と締めくくりの部を示します。
冒頭の部では、心中の当事者となる麻衣子とトメ子、
このword版は当ブログにも2度ほど寄稿いただいている
心中の巻き添えになる主人公僕(幹夫)、
脇役数人のうちの代表格寛太が登場しています。
この後、小学6年生、中学時代、高校時代と進みます。
数多くの大小さまざまな事件や
二人の「別嬪」の生い立ちやぞ立ちの秘密を絡めたストーリ展開は、
読む人をその世界に引き込んでいきます。
事件の描写は、これは実際にあった事件ではないのか、
と思わせるほどの生々しさです。
作品名に心中とついていますので、読者に不吉な予感を与えますが、
直前まではそれらしき状況は登場しません。
痛ましい最後が突然訪れるのです。高校3年生のときです。
そしてその締めくくりの文章がきます。
寛太の言葉になっています。
「うら(自分)にさせてくれんで超別嬪が二人もなくなってしまった。
ああ、あったらもんな(もったいない)!!」
若者の気持ちがよく出ています。
我々の気持ちは、
「芥川賞を取れる可能性のある、前途有為な道本君が逝ってしまった。
ああもったいない!!」です。
こんな抜群な構想力・表現力豊かな物語を作れた
道本さんの死を心から悼むものです。
正直のところまだ信じられないくらいです。
彼とは、
帝人の新入社員のときに三原工場で実習をして以来の縁です。
人懐っこく、ニヤニヤと人の顔を覗き込む
彼の仕草が思い出されます。
残念でしかたありません。
この作品は出版されていませんので、
ぜひ買ってお読みくださいと言えないのが残念です。
でもご希望があれば、47頁のword版をお送りします。
お申し出ください。
やはり帝人入社同期の米野忠男さんが整理してくださったものです。
米野さんはこう言っています。
米野さんはこう言っています。
彼は作品をメールで送ってくれたが,
横A4に縦書きで中央部にスペースをとり,二つ折りにして袋綴じすれば
A5の本になるように工夫していた。
会話文「・・・」は通常の小説のように文頭にくるようになっている。
私はプリントしてゆっくり読みたいが,原文のままだとページ数が増えるので,
常に横書きに変え文字を小さくして行間を詰めるなどして
半分以下のページ数に圧縮した。
勿論内容は100%原文と同じだが,会話文も詰めて続けたので,
読みやすくするために原文とは異なる段落にした。
読みやすくするために原文とは異なる段落にした。
残念ながら原文が私のパソコンに残っていないので、
私が勝手に 変えた文体になっていることをご了解ください。
このブログにも寄稿いただいている米野さんは、
「この作品は、世に知られていれば芥川賞をとってもおかしくない」
と言っています。私もそう思います。
少しでも多くの人がこれを読んで感激されれば
道本さんも喜んでくれるでしょう。
【冒頭の文章】
トメ子が、転校して来たのは、僕たちが5年生の時だった。
男の子は、
「何で、この娑婆から別嬪が二人一緒になくならんといかんがや。
疎開もんは、でかとおったけど、日本が戦争に負けると、
いつの間にか一人一人とおらんがになってしもうた。
それで僕達は何となく寂しい思いをしていたのだ。
ちょうどそんなときにトメ子が疎開してきたのだ。
戦争が、終わってから疎開してくるなんて一体どうしたんやろか
と僕たちは思ったものだった。
僕の学年は、もともと45人しかいなかったうえ、
メロンコ(女の子)が26人もいた。
そこへ、6人来た疎開もんのうち5人がメロンコやったから、
まるでメロンコのクラスのようになってしもうたがや。
僕たちは疎開もんをまるでよその世界から来た
僕たちは疎開もんをまるでよその世界から来た
珍しい動物のように思っていた。
第一、みんな可愛らしかった。こぎれいにしていた。
みんな白いというか青白い顔をしていた。
そして何か土地もんのメロンコとは違った体臭があった。
それは何だかかび臭い匂いだった。そして例外なく痩せていた。
もちろん僕たちも痩せていた。
終戦後の食糧難は農村も決して例外じゃなかったがやった。
僕達の知らない言葉をしゃべるのが珍しかった。
それで僕たちは彼らを何か異星人のように思ってしまったのだろう。
僕達は、当時国民学校と呼ばれていた小学校に入学した時から
僕達は、当時国民学校と呼ばれていた小学校に入学した時から
男女七歳ニシテ席ヲ同ウスベカラズという
教育というか躾を受けていたので
土地もんのメロンコには近づかないことにしていたが、
疎開もんには、その戒律が適用されないと思ったものか、
一生懸命に異星人である彼女たちの関心を引きたがった。
しかし、彼女たちに話しかけるにはとても勇気が要った。
第一言葉が出て来ない。
それで女の子に話しかけるのに臆病な僕たちは
他愛もない悪戯を仕掛けるだけだった。
一番よくやったのは、彼女たちの持ち物を隠してしまうことだった。
教科書やノート、防空頭巾や習字の時に使う硯などを隠して、
僕たちは喜んでいた。
僕は級長だった。それで僕は担任の北出先生に注意された。
僕は級長だった。それで僕は担任の北出先生に注意された。
教壇の傍まで呼び出されてみんなの前で叱られた。
佐々木級長、わやそういう悪戯は辞めさせなければだちゃかんがに、
自分から率先してやるとは何事やというのである。
大体男が女をいじめるというのは何事であるか。
男は女を守らんといかんがやとみんなに向かって言った。
そのあとで先生はみんなに〈ま白き富士の気高さを……〉を歌わせた。
北出先生はこの歌が好きで、何かあるとみんなに歌わせた。
先生は生徒たちがこの歌を歌いだすと気を付けの姿勢になり、
涙を浮かべるのだった。
僕は
僕は
母が家で流しをしながらいつもこの歌を歌っていたのですぐに歌えた。
それで北出先生にさすが級長やと言って誉められた。
女の先生だったけれど僕たちは先生が怖かった。
戦争中は、女の先生も実に怖かった。
男の先生ほどの事はなかったけど、頭や顔を殴られ、足をけられた。
戦争が終わって、疎開もんが順番にいなくなって
戦争が終わって、疎開もんが順番にいなくなって
僕たちはつまらない思いをしていた。
戦争が終わって、防空演習はなくなったけれど、
食べ物もなくなって来て、学校では相変わらず授業時間中に運動場を耕してサツマイモを植えた。
運動場の土はうちの畑と違って岩よりも固くて、
クワを使うとすぐに掌にマメができて、そのマメが潰れて血が出た。
衛生室で赤チンだったかヨーチンを塗って貰って包帯を巻いて貰ったが
〈戦地の兵隊さんのことを思うたら、我慢せんといかんがいね〉
ということは衛生の先生ももう言わんようになっていた。
(中略)
担任の坂本先生がトメ子と連れてきて、
(中略)
担任の坂本先生がトメ子と連れてきて、
真ん中の一番後ろの机に座らせて、みんなに紹介し出て行った。
一人になったトメ子は、すぐにみんなの餌食になった。
というのは、トメ子はいろんな意味で、
僕らの知っている疎開もんとは違っていたのだ。
まず第一に柄が大きかった。教室の誰よりも上背があった。
そして彼女は実に汚かった。異臭がした。小便の匂いがした。
彼女は和服を着ていたが、破れたところが繕うてないために、
綿が、それも黒く変色したやつが中からはみ出ていた。
袖だけではなくていたるところが鼻汁や泥で光っていた。
髪の毛はぼさぼさでシラミだらけだった。
髪の毛はぼさぼさでシラミだらけだった。
つまり彼女は、都会の戦災浮浪児さながらの恰好だったがや。
(注:後ほど、その「恰好」は、母親が考えて、
同級生たちにいじめられないよう嫌がって近づかないようにさせる
ためにわざとしたものだったことが分かります)
トメ子は、僕たちのような地のもんでもなく
僕たちの知っている疎開もんとも全く違うとったんや。
彼女一人だけが、土地のもんともほかの疎開もんとも違うた
孤立した異端者のような立場におかれたのだった。
最初の日、メロンコどもは、
最初の日、メロンコどもは、
普段するような転校生に対するあからさまな好奇心と好意を
露骨に示すことはなかった。
彼女たちは、むしろ彼女に向かって明らかなる嫌悪感を隠すことはなかったのである。
メロンコどもは、彼女を一目見て仲間はずれにしたがや。
男の子は、
そんなメロンコどもをみて彼女たちの関心を得たいと思ったのだろう。
彼女に向かって罵声を浴びせ、小突いた。
寛太が先頭に立った。彼女に近づいては殴ったりした。
トメ子は大きな目に一杯の恐怖を浮かべ大きな声で泣き出した。
その時、あんたら、何するがやと
トメ子の前に立ち塞がったのは麻衣子だった。
「この子は、わてらの同級生やろ。
そしたら親切にしてあげないかんやろ。
こら寛太、あんたは、餓鬼大将やろ。
男のくせに女をいじめるのはおかしいやろ。
餓鬼大将だったら餓鬼大将らしくしまっし。
坂本先生に言いつけてやる。
それから幹夫、わや級長やろ。なんで寛太を止めんがや。
わて、先生を呼んでくる。」
そう言って麻衣子は教室を出て行った。
そう言って麻衣子は教室を出て行った。
ガヤガヤしていた教室がいっぺんに静かになった。
麻衣子は、僕の在所で一番大きい茶碗の問屋の娘だった。
養女だという噂があったが、クラスで一番の美人だった。
金持ちの娘らしく、
いつも洗濯や手入れの行き届いた小ざっぱりした格好をしていた。
面長で濃い眉をしていた。いつもキラキラした目をしていた。
疎開もんがおったときは、いつも疎開もんの味方だった。
強い正義感の持ち主でいつも弱い者の味方やったがや。
男の子とでも平気で喧嘩し、取っ組み合いをした。
男の子と喧嘩するときは、彼女は必ずところ嫌わず噛んだ。
それも力いっぱい噛むものだから、男の子の誰もが彼女に一目置いた。
喧嘩しるのを嫌がった。彼女はクラスの女王だった。
寛太はクラス一番の力持ちで、体は僕の二倍はあった。
寛太はクラス一番の力持ちで、体は僕の二倍はあった。
おやまの大将だったが、初めて麻衣子と喧嘩した時、
耳たぶをかみ切られた。
その時に麻衣子が言った捨て台詞がすごかった。
とても二年生のメロンコのいう台詞じゃない。
「何度でも掛ってきまっし。相手になってやるさかい。
そやけど、今度は必ずわりのチンポを食い千切ってやる。覚えとくまっし。」
寛太の顔色がいっぺんに変わった。
寛太の顔色が恐怖で真っ青になったのをクラスの全員が見ていた。
あの暴れん坊の寛太の顔色が変わったのだった。
唇も真っ青になったがや。それは本当に見ものやった。
それ以来寛太は麻衣子の家来になってしもうたがや。
【締めくくりの文章】
何日か経って、騒ぎがひとまず終息したある夜、
寛太は、一人水車小屋を訪ねた。
水車小屋の中に入って、
あの夜3人がしたであろうことについていろいろ想像を廻らせた。
もちろん寛太は、警察の公式発表を、全く信用していなかった。
幹夫と麻衣子の間に性行為があったに違いないと思っていた。
彼らは、死ぬ前ここに集まったに違いない。
そして、3人でやりまくったんや。
寛太には、その手のことについては、天性の勘というものがあった。
寛太は大声で「麻衣子とトメ子のダラケー(馬鹿)。」と叫んだ。
「何で、この娑婆から別嬪が二人一緒になくならんといかんがや。
それも特別の別嬪や。あったらもんな(もったいない)。
死ぬがやったら何でうらにさせてから死なんだがや。あったらもんな。
この娑婆で、こんあったらもんな話がほかにあるやろか。
どこを探いても絶対にねーわ。」
寛太は愚痴とも恨みともつかぬ独り言をぶつぶつと続けた。
幹夫を背負われて引きずるように麻衣子の家に運ばれた
遠い遠い昔の時のことを寛太は今でもよく覚えていた。
そうか考えてみりゃ、うらはあん時、死んどったがや。
あんたにとって、幹夫は命の恩人や、忘れたらだちかんがやぞ、
そう言った時の麻衣子の生意気な顔を今でもはっきりと思い出すことが出来た。
また寛太は、小学校六年生になって、背がすらっと伸びて、
真っ白な長い手足と、何やよう判らんがやけど、
なんとなく瞳が青味を帯びて外国人みたいになっていった
トメ子の面影も完璧に思い出すことが出来たんや。
彼は、あったらもんな(もったいない)を繰り返した。
彼は、あったらもんな(もったいない)を繰り返した。
四人が一緒だった広川小学校の5年、6年の時を思い出してさめざめと泣いた。
あん時が、うらの今までの人生で最高やったな、
あとは、付録で生きとるようなもんやと思ったりした。
そして寛太には全く似合わないことやったけど、深くため息をついた。
そして、まぁ、うらの代わりに、幹夫がしたんや、
そして、まぁ、うらの代わりに、幹夫がしたんや、
いやしてくれたんやと思えばええがや、寛太は苦悩の末にそう結論付けた。
他のもんやったら絶対堪忍出来んがやけど、
幹夫やったらしょうがないと思わんといかんやろ。
何しろ幹夫は命の恩人やったからな。寛太にしては上出来の納得の仕方やった。
寛太は、幹夫の上にも思いを馳せた。
寛太は、幹夫の上にも思いを馳せた。
幹夫はうらの生まれて初めての親友やった。
在所でいちばん勉強が出来たけど、威張らんかった。
うらみたいに勉強の嫌いなもんでもメトにせんかった。
早う死んだけど、その代わりトメ子と麻衣子としたがいや。
こればっかりは、うらが百まで生きても 出来んがや。あぁ、けなるい。
3人の命を呑み込んだ3月の六丁川の水は、寛太の悲痛な叫びに何も答えなかった。
ただ、せわしなくさらさらと流れるだけだった。
今は止まっている水車が時々ギーと声を立てた。
白山おろしが、川面を吹いてやまぬ。蕭蕭と吹いてやまぬ。
ときどき隙間から吹き込んでくる。
こんな寒いところでしたんか、寛太は身震いをした。
まぁ、今からは、極楽のぬくいところで、何回もやってくれ。
しかし、待てよ。蓮の葉の上は、考えみりゃゆらゆらとして、
やりにくいんやなかろうか。極楽ちゅう所は、
他に楽しみがようけ有って誰もそんなことするもんがおらんがやろか。
とにかくうらは、娑婆で、指をくわえて見とるわ。
水車小屋に吹き入る風が冷たく、寛太は何度も何度も身震いをした。
1 件のコメント:
疎開先の地元の子供たちが、疎開っ子に対して感じていた様子を巧まぬ方言で表現して居り、なるほどと思いました。
空襲による火の台風の中を逃げ惑いようやく生き延びて、疎開した地方ののんびりした田園風景と人達に違和感を感じていた私でした。疎開の立場など思いも及ばぬ当時でした。
今でも、大形機が上空を通り過ぎると、空一杯のB29を思い出します。
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