2021年7月10日土曜日

三島由紀夫氏著「青の時代」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 三島由紀夫氏の「青の時代」を読んでみたご報告です。
 わが畏友が撮影した、
  この物語に登場する木更津「周辺」の写真をご紹介します。
ねらい:
 木更津や東京湾近辺を再認識してください。
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日経新聞の毎週土曜日の夕刊に
「文学周遊」というコラムがあります。
6月26日は三島由紀夫氏著「青の時代」が題材でした。

以下の紹介がありました。
書名の「青」には、青春、青写真の意味があるそうです。
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(記者の言葉)
細い坂道が夏空へのびる。上れば、雲に届きそうだ。
港にかかる高さ27メートルの橋。潮風が床を揺らす。
宙に浮かんだようで足が涼しい。真下を高速ボートが走り抜けていく。
光る波の先に、富士がある。
欄干から鳥居崎海岸が見下ろせる。
冒頭、後の悲劇を暗示する事件が起きる場所だ。

主人公の誠は戦前、小学校に入るころ、一家で泳ぎに行く。
途中、父に巨大な鉛筆の模型(文房具店の看板)を買ってもらう。
だが、すぐ海に捨てられる。ふくらんだニセの現実はたちまち消えた。
中略
江戸以来の港町は、海軍航空基地ができたことで栄えるが、
空襲も受けたという。戦後は米軍が進駐。
今は自衛隊が駐屯している。

小説は「光クラブ事件」を起こした現役東大生をモデルにした。
昭和23年に興したヤミ金融会社が急成長する。
世間の注目を集めたが、法令違反で逮捕される。
(上野注:江副浩正さん、ホリエモンも同類ですね)
巨額の負債を返せず、自裁した。

占領下で頻発した「アプレゲール犯罪」の典型だった。
戦死を覚悟し、絶望から再出発した世代だ。
混乱と不安の中で、国や社会への怒りを抱えつつ、
未来を切望した。

作家(三島)も起死回生の心境にいた。
妹の死など虚無感に襲われながらも、書くことで生き抜こうとしていた。
ニセの英雄を描く本作には、同世代への共感、悼みがにじむ。

作家、河野多恵子は、三島作品の中で「最も魅力に富んだ優れたもの」
と書いている。
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私は、文学作品は大学時代以後は、ほとんど読んでいません。
ですが、今回は興味を惹かれて「青の時代」を読みました。
興味を惹かれた理由はこうです。
帝人時代のヨット部仲間(というより先生ですね)羽山泰夫氏が木更津に住んでいます。
最近は写真に凝っていて素晴らしい写真を送ってくれています。
その写真と日経新聞記載の写真が重なり合って目に焼き付いたからです。

羽山氏は、実は2002年に単独太平洋横断をした何人目かの偉人なのです。
1人目は1962年に世界初のヨット(エンジンなし)による
単独無寄港太平洋横断で有名になった堀江謙一さんです。
羽山氏の航海記は「貿易風を突っ走れ」として刊行されています。

以下に、上野お気に入りの羽山氏撮影写真集をご紹介します。
これらの写真は「青の時代」ではなく、「海の時代」ですね。

  館山湾です。館山湾の船形側(東京より)からの眺望です。
洲埼灯台と遠くは伊豆の大島です。

上と同所からの眺望です。
太房の鼻とその先に浮かぶ雀島。雀島の先は伊豆の天城山。
雀島は関東大震災時に上端が崩れ落ちて
上方に向いて突端が2つになりました。

同じ地点からのものです。ズームを望遠側にしています。


同じ地点(但し、浜辺に降りて)から館山方向の眺望。
(以下羽山氏解説)城山(遠く里見時代の城跡。戦時中は高射砲陣地=米軍艦載機の攻撃を受けた時は応戦した。今はコンクリート製城が建っている)や海上自衛隊基地(昔は海軍館山航空隊基地)、東京海洋大学館山実習場もある(実習場専用桟橋に皇太子時代の上皇が立たれて寒中水泳をご観覧された)。
  左側に見える小さな平らな島は平島という。
私が新制中学校3年生の時に1年生が父親と夜釣り(鯖)に行き(遊びではない実業=学校に行かず) 時化の暗夜に平島に乗り上げて親子共に亡くなった。
それから島に灯台が設置された。

保田漁港です。向こう岸は三浦半島の久里浜~剣崎方向です。   
保田漁港で、保田漁協が便宜供与で設置している浮桟橋にもやうヨットです。





話は戻りまして、私の「青の時代」の感想はこういうモノです。

常識的見解ですが、三島由紀夫氏は、やはり天才!
こういうストーリを作れる構想力もさることながら、
以下のような表現には、
よくもこういうふうに考えられるものだと感心しました。
よほどの理解力と感受性がないと理解できませんね。

その1 結婚を長い間待ち望んでいた彼女を自室に呼び込んだとき
それにもかかわらず、輝子が何の構えもしらずに、
恐怖に蒼ざめ、羞恥に苛まれ、
受け入れることと拒むこととが殆ど同じ意味しか持たぬほどに、
精神の緊張と自失の堺の、
東雲の空の陶酔に似たものに犯されてゆくさまは、
美しいというよりは、むしろ聖らかであった。
それは吝嗇の聖らかさ、修女の聖らかさ、
閉ざされた部屋に堆積した埃の聖らかさ、
水底の石にまとわりついた苔の聖らかさ、
聖者の衣服にたまった垢の聖らかさである。
清潔は必ずしも神聖さの条件ではないからである。

その2 そのあとの行為の表現
とまれここには一個の儀式が、一個の音楽があったのである。
この理不尽に進行した破綻の多い行為の下に、ある照応が、
ある抑制と調和が溌溂と目ざめていた。
輝子は純潔な、火のような裸になった。
あらゆるものを苦痛と嫌悪で表現することを片時も忘れずに、
輝子の眉と頬と唇と手は、凍った、硬い、
いたましい苦渋の表情を浮かべたまま、汗の中に溺れようとしていた。
そこには彼女が心をつくして表明しようとしている苦痛によってしか
与えられない慰藉の静けさが見られたのである。
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読後、分析屋の根性で考えました。
この濡れ場には背景があります。
主人公誠は、大秀才で理屈が仮面を被って歩いているような人間です。
その誠がある縁で彼女を知り、結婚願望でした。
彼女は、「誠が自由になるお金が50万円になったら結婚を考えてあげる」
と言っていました。
誠は、そのためにお金を稼ぐことを始めたのです。
そして、「彼女を失っても生きていける自信がついたら彼女に手を出そう」
と決心していました(上野:なんという理屈!!)。
ところが、この濡れ場の前に、誠は彼女の身辺調査を探偵に依頼して、
「彼女が、下っ端税務署員と付き合っていて妊娠3か月である」
ことを知りました。

この濡れ場では、誠がそれを知っていることを彼女には隠しています。
彼女は、誠が自分のことを処女だと思っていることを信じています。

そういう前提だったのですが、その隠し事をお互い相手に気づかれずに、
行為を遂行できるものでしょうか。
特に、かなりの経験を積んでいる女性が、
本能が優先する行為の中で、処女でないことが見破られないようにする、
そして前掲のような素晴らしい描写をされることは、
どんな演技者でも無理ではないかと思われます。

これに対して、作家はどう考えていたのだろう、という疑問が湧きました。
その答えの一つは、
「それはムリだ」と判断できるまでの経験・知識がなかった、ということ。
もう一つは、分かっていて、この矛盾・ムリを見抜けるのかと、
読者に意地悪に投げかけたのではないか、ということ。
どうなのでしょうか??

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