【このテーマの目的・ねらい】
目的:
古井由吉さんを偲びます。
ビジネス文書と文学作品は書き方が違うことと
案外共通点もあることを再認識します。
ねらい:
何を学びましょうか。
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2月27日の日経新聞に、次の記事が載っていました。
「『内向の世代』の作家、古井由吉さん死去
日常の深部を掘り下げる筆致は「魔術的」とも評され、---
主な作品に、中年の男と複数の女性の交情を描いた「槿(あさがお)」
(谷崎潤一郎賞)のほか、---」
社会人になってから、小説はほとんど読んでいないのですが、
なぜか気になって「槿(あさがお)」を買ってみました。
帯にはこう書いてありました。
男の暴力性を誘発してしまう己の生理におびえる伊子(よしこ)。
20年も前の性の記憶と現実の狭間でたゆたう國子。
分別ある中年男杉尾と二人の偶然の関係は、
女達の紡ぎだす妄想を磁場にして互いに絡み合い、
恋ともつかず性愛ともつかず、
「愛」の既成概念を果てしなく逸脱していく。
濃密な文体で、関係の不可能性と、
荒野のごときエロスの風景を描き切った長編。
谷崎潤一郎賞受賞。
古井さんのことを、これまでまったく知りませんでしたが、
東大の文学部出身なのです。
生年月日を見ますと、私と同学年のようでした。
当時の東京都1番の日比谷高校から現役で東大に入られてますから、
非常に優秀な方だったのです。
この記事に惹かれたというのは、何か感じたのでしょうか。
本書の書名である槿という字はむくげであって、
あさがおとは読みません。
本書の中で、主人公が知人に
「朝顔と槿は似ているけれど、関係あるのだろうか」と問い、
「朝顔は草で、槿は木で、まったく違います」と言われています。
それでも敢えて
この字をあさがおと読ませる意図は何なのでしょうか。
主人公は槿は苦手と仕立てているところにも興が湧きます。
「木槿の花に二日酔いの身を悩まされた。
あれは体が衰えるとなかなかつらい花だ、
と目をそむけそむけしていた」とあります。
同感です。すごく生命力があって迫ってきますからね。
因みに、槿は韓国の国花です。
本書はいわゆる私小説「風」で、
すべては主人公杉尾の主語で語られます。
杉尾が会っていない第3者の言動は相手からの伝聞で語られます。
書き出しはこうなっています。
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腹をくだして朝顔の花を眺めた。10歳を越した頃だった。厠の外に咲いていたのではない。
寝冷えをしたのか、明け方近くにうなされて目を開いた。膝が汗ばんでいた。親たちの床の間から足音を忍ばせ暗い廊下を伝って幾度も厠に通った。ただ渋るばかりになり困りはて長いこと布団の中で息をひそめていた。そのうちに夜が白んで疼きも間遠に、心地よい萎えに変わり、うつらとしかけたとき、何を苦しがってか雨戸を1枚だけあけて庭へ出た。
薄霧がこめて地にしっとりと露が降りていた。濡れた草のにおいが線香のにおいと似ていると思った。縁先の鉢植の前に尻を垂れて初めは花を見てもいなかった。ただ腹の内を測っていた。おさまっているのがかえってあやうく感じられた。小児にとって夏場の死はまず腹の内にあった。熱っぽい素肌に朝じめりの涼けさがつらいほどに快い。その快さがまた疫痢か何かを誘う身の毒と戒められていた。
やがてぽっかりと白い、あまりにもみずみずしくて刻々と腐れていくような花の輪に引き込まれた。それだけの記憶だ。しばらくは立ちあがれず、萎えた膝の上に薄くなった腹を押しつけて眺めていた。
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先に事実が来て、そのあとにその前の説明が来る、
という時間軸を逆転させる記述に気をひかされます。
「魔術的」の一部なのでしょうか。
あらためて読みなおしてみると、
このように「結論を先に述べて後から詳細を述べる」
という方法は、大事な区切りのところで度々登場します。
この方法は、ビジネス文書の作成方法で勧められている
「結論を先に述べよ」に通ずるものがあるのだと気付きました。
相手の関心を引き付けておいて、細部を述べるのです。
次の文は、こういう状況でした。
献血のときにたまたま一緒だった女性が
連絡先の入った献血カードを主人公に渡してくれましたので、
3か月後の献血の際に思い出して電話をしました。
そうしたらやってきて一緒に飲み、彼女は酔いつぶれてしまいました。
仕方なく負ぶって家まで送ろうとするときのことです。
ここでも時間軸が動きます。
彼女が帯の紹介の伊子です。
「あの、おたずねしますが」そのうちに背中から、往来で人に物を訪ねる声がした。
「女が眠っているうちに、犯されて、あとで知らない、というようなことは、あるものでしょうか」
杉尾は呆気に取られた。しかし驚きは驚きとして、女の声の響きから、遠い記憶を呼びさまされた。烈しかった空襲の夜が白み始め、避難者の姿もまばらになった大通りを、焦げ臭い薄靄の中から、鈍い怯えを腫れた目に溜めた女が寄ってきて、近くにいる年配の男の腕を捕まえ、あの、おたずねしますが、女のからだを腐らす毒ガスが投下されたという噂を聞きましたが、本当でしょうか、と洞(うつ)ろに上ずった声でたずねた。
「知りません、僕は男ですから」思わず邪険な、防御の口調になった。「少なくとも、さっき道でひっくりかえっていた間は、何もされてません。それとも、もう妊娠したとでもいうんですか」
「いえ、そんなことではありません」
女はしかつめらしく答えて、背から身を離して考え込む風だった。しかし降りようともしない。その静かさが、いきなりす様じい重みとなってのしかかってきそうな、そんな恐れに杉尾は取りつかれて歩きつづけた。
そのときは彼女の部屋で、
「一度きり、知らない人に、自分の部屋で、抱かれなくてはならない、避けられないと思ったんです」
言葉とはうらはらに、男の沈黙に押されて、やめて、と哀願する光が目に差した。杉尾は頸を僅かに横へ振った。
ということで何もありませんでした。
次の文は、その次の時の2回戦目のときのことです。
そのあと、3回戦もありました。
肌がはっきりと熱くなり、体内にこもった熱が一度に発散する様子で、汗さえ噴き出して胸の奥が走り、豊かな息が膨らんで、やがて和んだ嗚咽に変わった。隣室から耳を傾ければ、さっきのは声をひそめたもつれあいで、いまようやく心から潤んで抱き合っている、とそう聞こえるだろう、と杉尾はこわばりのひいた薄い背をさすっていた。啜り泣くだけ泣くと井出は男の胸の内にぴった入りこんで小児の温かみとなり、今度は深い寝息を立てはじめた。
杉尾も呆れて眠った。だいぶ立って目をひらくと、井出がまだ胸の内からこちらの顔を珍しそうに眺めていた。なぜ抱かれる気になった、とだしぬけにたずねると、だって初めてのような気がしないんだもの、初めてみられたときから、と答えた。血を採られているときから見ていたのか、と腰に手を回すと、うんあんまり見るんだもの、と唇を合わせて、もう抱かれてしまった気がしたものよ、こうなったらきちんと抱いてもらわなくては恥ずかしいと思ったくらい、と腰を逃がした。
会話を「」付きで記述するのと、このようにべた文の中で記述するのを、
使い分けています。
状況を説明しながら会話を述べるのに後者を使っています。
状況の動きが感じ取れます。
もう一人の女性、國子との文章は省略します。
杉尾が高校生の時に、同級生の妹だった國子と、
送って行った彼女の家の豪邸の門前で体を寄せ合いました
(詳細はあいまいです)。
同級生が自ら命を絶った通夜のときに再会します。
彼女が高校生の頃、誰かが家に侵入し彼女を犯したらしいのです、
それが誰であったか不明なのですが、彼女から杉尾が疑われています。
その謎がサスペンス風です。最後に謎は解けます。
國子とは、ホテルには入り彼女はシャワーに入りましたが、
そこまではいきませんでした。
もう一人、行きつけの女将が登場します。
彼女とは7年ぶりに2回目の逢瀬をしています。
その時のことはあっさりした書きぶりです。
古井さんは、実生活でもこんなに持てたのでしょうか。
羨ましいことです。
そうでなければ、空想だけでこんなに書けないと思われます。
以上で、ご紹介を終わります。
集中して読んでいると、作者の感覚の世界に引き込まれてしまいます。
関心を持たれましたら「魔術」を堪能なさってみてください。
2 件のコメント:
万葉集研究で日本の第一人者である駒澤大学名誉教授小野寛氏から
私宛てに次のメールをいただきました。
私が「槿はむくげであってあさがおとは読まない」と述べたことに対して
『広辞苑』には「槿むくげ」の項に「古くは「あさがお」といった。」
とあるとご指摘をいただいた上で、以下のような情報をくださいました。
(私は一般の国語辞典だけを見て間違ったことを書いたのです。
この場をお借りしてお詫びと訂正を下します)
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メルマガの、槿を「あさがお」とする話には、歴史があります。
万葉集に山上憶良の「秋の野の花を詠む歌」があって、
秋の野に咲く花を数え上げたら七種あったと、
その中に「朝顔の花」を歌っているのです。
いわゆる「朝顔」が薬用として日本に大陸から渡って来たのは平安時代初期らしい。
奈良時代のそれも初め頃に秋の野に「朝顔」が自生することはないのです。
秋の野の花で、「あさがほ」と憶良が歌ったのは何だったか。
今だに諸説があって正解がありません、
その諸説は、歴史上、文献にアサガホと出てくるものは何でも上げています。
平安時代中期に藤原公任が作った『和漢朗詠集』に「槿」の題のところに、
漢詩は白楽天の「松樹千年終に是れ朽ち、槿花一日自ずから栄を為す」を上げ、
和歌は「あさがほ」の歌を2首上げて対照させているのです。
槿の花が1日花で、朝咲いて夕方にはしぼむので、「朝顔」としゃれたのですね。
これが平安時代末期にできた漢和辞書『類聚名義抄』(編者未詳)に
「槿 アサガホ」「蕣 キバチス、アサガホ」とあるのです。
白楽天の詩から「槿花一日の栄」とか「槿花一朝の夢」とかいいます。
その花が「あさがお」みたいなのです。
これをご覧いただいた小野氏から
5月8日次のメールをいただきました。
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小野寛より
「槿はあさがおとは読まない」というのは正しいです。
近現代の国語辞典ではよみません。
平安時代に「槿はあさがおである」と言っているということです。
「槿」の字を「あさがほ」と読むということではありません。
槿の花は朝に開いて1日で萎むから「あさがお」だというのと、
「槿」を「あさがお」と読むというのは別のことです。
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