目的:
中道態というわけの分からないものを研究してみました。
大昔は、能動態も受動態もなく中道態だけだったのです。
中道態という言葉は使っていませんが、
その概念は一般に意識されていることが判明しました。
ねらい:
中道態などという言葉は
専門家以外は使わなくていいのではないでしょうか。
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私は、ある機会に「中動態」という言葉を知り、
これは何だろう?と思って1冊の本を入手してみました。
国分功一郎・熊谷晋一朗著「責任の生成―中動態と当事者研究」です。
430頁の大著です。
何だかわけのわからない書名ですが「中動態」のことを簡潔に知るには
適切な書ではありませんでした。
苦労して解析してみました。
1.中動態とは何でしょうか。
本書ではこういう紹介をされています。
能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立として
描き出すことができます。
これは行為や動作の方向性に依拠する定義です。
矢印が自分から外に向かえば能動だし、
矢印が自分に向かえば受動となるわけです。
では能動態と中道態の対立ではどうだったか。
フランスの言語学者エミール・バンヴェニストは
これを次のように定義しています。
「能動では、動詞は主語から出発して、
主語の外で完遂する過程を指し示している。
これに対する態である中道では、
動詞は主語がその座となるような過程を表している。
つまり、主語は過程の内部にある」
ひとことで言うと、能動態と中道態の対立においては、
「する」か「される」かではなくて
「外」か「内」かが問題になっているということです。
主語が動詞によって名指される過程の内部にあるときには
中動態が用いられ、
その過程が主語の外で終るときには能動態が用いられた。
Iwantは能動ではなく中道である。
2.中動態に関する「国分功一郎理論」のご紹介
本書にこういう記述があります。
なお、本書は著者2人の対談形式をとっていますので、
通常の書籍の表現とは異なっています。
能動態で「Ishow」は、中道態だと「Iappear」、
受動態だと「Iam shown」であるが、ギリシャ語では
これらをファイノーという一つの言葉で表現していた。
ギリシャ語のファイノーは、英語の表現で言うと、
1)中動態表現 自動詞 「Iappear」
2)能動態表現 他動詞 「Ishow」
3)再帰表現 「Ishow myself]
の三つを併せ持っている。
それが能動と受動に分かれたことにはいかなる効果があったのか、
「Iappear」と「Iam shown」を区別する
ことでもたらされる効果について、
僕はこんな仮説を抱いています。
この区別は、私が自分で現れているのか、
それとも現れることを強制されているのか、
それをはっきりさせたいのです。
つまり、「お前は自分で、自分の意志で現れたのか?
それとも誰かに引っ張り出されて、現れることを誰かに強制されたのか、
どっちなんだ?はっきりしろ」というわけです。
能動と受動を対立させる言語は、
行為における意志を問題にするようになったのではないか
と思うのです。
そうすると同じ現象であっても、自分の意志で現れたのか、
それとも現れることを強制されたのか、区別しなければならない。
「自分の意志でやったのか?そうではないのか?」
と強く尋ねてくるこの言語を「尋問する言語」と僕は呼んでいます。
中動態が消滅した後に現れたのは、
そのような言語だったのではないか。
つまり、
中動態の消滅と意志概念の勃興には並行性があるのではないか
というのが僕の仮説なのです。
(上野揚げ足取り:ある言語表現が消滅して、その後で他のものが生まれる
ということはあり得ません。変わっていくのです)
3.中動態上野説
私は、中動態についてこう整理しました。
国分氏の前掲図の上に、中動態だけの時代があったとします。
ギリシャ時代には「意志」はなかった
(ギリシャ哲学には意志という概念はない)のだそうです。
自然現象には能動も受動もありません。
人間もその自然の中で生かされていたのです。
自然との共生は、自分の意志ではないのです。
中道態しかなかったのです。
それがある時から
自分の意志を明確に意識するようになりました。
意志の概念を発見したのはキリスト教哲学だという説が、
本書で紹介されていました。
「汝姦淫するなかれ」と言われて、
姦淫する意志、姦淫しない意志を自覚したというのです。
その後、責任概念が芽生え、受動態が誕生しました。
自分の責任なのかそうでないのか、というわけです。
その結果、行為に関しては能動か受動かになり、
中道はどこかに追いやられてしまいました。
しかし、
人間が生きている世界に存在する非常に多くのもの・ことは
中道態なのです。
中道態が脇へ押し寄せられた世界はおかしなものです。
人間の行動を能動か受動化の2元論で整理しようとしたのが、
この偏見の基です。
自然に生きる中道態を重視すべきでしょう。
しかし、中動態という言葉は良くないですね。
能動と受動の中間という感じなのですが、
そうではなく、根元を示すような言葉の方がいいと思います。
自然態などもいいのではないでしょうか。
「気負わず自然体でいく」という感じの言葉です。
4.日本語の中動態対応
日本語の最大の特色は、
主語を示さないことだと言われています。
主語が示されなければ能動も受動もありません。
主語がない文章は、中道的な表現になっているのです。
「ご機嫌はいかがですか?」(「あなた」の省略)
「なかなかいいですね」(「私」の省略)
「今日は何がいいですか?」(「あなた」の省略))
自然と共生していた日本民族の言葉が、
中動態表現であるというのは納得できることです。
作者不明なのですが、
「日本語はもともと中動態の言語ではないだろうか?」
というネット記事で、
国分理論が日本語について触れていない不備を指摘しています。
5.中動態の効用
中動態重視概念の治療法だと、
自分の積極的意志の結果で生じているのではない事象に対して
責任を追及しない、のです。
身体障害、精神障害、アル中、盗癖、肥満、等々、です。
その人の責任を追及するのではなく、
そこに至った原因を追究し解決しようとします。
罪を憎んで人を憎まずの精神です。
「ダメではないか、やめろ」
というよりも効果が挙がっているそうです。
そのことが、
分かりにくい本書のもう一つのテーマである「当事者研究」として
示されていました。
6.「目的・ねらい」概念との関連
今回の中動態の研究で以下のことが判明しました。
システム企画研修社の提唱する「価値目標思考」では、
何かを企画または行動する際には「目的・ねらい」を明確にせよ、
と言っています。
「目的・ねらい」は「目的」と「ねらい」に分かれます。
「目的」は、その案件の中で実現しようとする成果です。
「ねらい」は、その結果で得られる嬉しい成果です。
「目的」は自分の意志で実現しようとするのですから能動態です。
「○○する」という表現を用います。
運動する、ダイエットする、などです。
「ねらい」は、能動の行為の結果生まれる中道態の「こと」です。
「○○になる」という表現を用います。
健康になる。美形になる、などです。
これは能動ではありません。
受動でもありません(「健康にさせられる」わけではないですから)。
「健康になる」の主体に自分がいるのです。
つまり「主語がその座となるような過程を表している」のです(中道)。
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