2021年2月22日月曜日

「雨月物語」のおそろしさ!「野の古典」のご紹介3

【このテーマの目的・ねらい】
目的」:
 「野の古典」の内容紹介第3弾「怪談」編です。
ねらい:
 関心持たれましたら、他のものもお読みください。
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これまで2回「野の古典」を取り上げてきましたが、
全体構成をご紹介していませんでしたので以下に示します。
約400頁の超大作です。それでも定価は1800円です。

「野の古典」の構成

テーマ

対象古典

1

神話の大便、扇と夏の恋

古事記、藤原定家

2

お正月と罪と生贄

古事記

3

歌の世界へ

万葉集

4

アダルト小説的

御伽草紙、風土記

5

論語はすごい

論語

6

誠を極める

中庸

7

ゲス不倫どころではない

伊勢物語

8

源氏物語ごっこ

源氏物語

9

魂を鎮める

源氏物語、能「葵上」

10

呪詩としての和歌

古今和歌集、新古今和歌集

11

音の文学

平家物語

12

闇の文学

平家物語

13

眠りの芸術

能「黒塚(安達原)」

14

初心忘るべからず

風姿花伝

15

随筆なう

方丈記、徒然草

16

優雅な貧乏生活

鶉衣

17

カネとオンナ

好色一代男、日本永代蔵

18

野の賢者

松尾芭蕉

19

ゆっくり歩く

おくのほそ道

20

きわどいベストセラー

東海道中膝栗毛

21

怪談、怨霊、鎮魂

死霊解脱物語聞書、雨月物語

22

漢文と日本人

詩経、笑府ほか

23

声に出して読みたくなる

南総里見八犬伝

24

わたしたちは何者か

武士道


今回は、
「野の古典」の第21講「怪談、怨霊、鎮魂」の中からのご紹介です。

西行と崇徳院
さて、江戸時代の怪談といえば上田秋声の「雨月物語」
(1768年成立)も外せません。
(注:この前段で「四谷怪談」「皿屋敷」「牡丹灯籠」「累が淵」
が紹介されています)

正確にいえば「雨月物語」は怪談ではなく、
中国や日本の古典を元にした九つの怪異小説が収められている
翻案小説集です。
(そうなのですね)

同書に収録されているなかでも「浅茅が宿」や「蛇性の淫」は
よく映画や舞台の題材にされる話なのですが、
今回は冒頭に収められている
「白峯」という作品を紹介したいと思います。

この作品は、西行が崇徳院の怨霊を鎮魂するお話です。
さて、まずはこの二人の主人公について
簡単に説明しておきましょう。

西行は平安末期の歌人、僧侶。
鳥羽上皇に武士として仕えていましたが、
23歳のときに出家します。
歌枕を巡る旅をしながら歌を詠むという彼の旅のスタイルは、
伊勢物語を踏襲し、
さらに能や松尾芭蕉にも大きな影響を与えました。
(23歳で「転職」は、やはり偉い人ですね)

一方の崇徳院は、第75代の天皇です。
退位後の上皇時代に皇位継承で後白河天皇と争い、
1156年の保元の乱で敗れて讃岐(現香川県)に配流され、
その地で没しました。

そしてなんといってもこの崇徳院、
日本の3大怨霊(他の2名は菅原道真と平将門)の中でも
日本史上最大の怨霊とされている人物なのです。

ではここで「白峯」のあらすじを見てみましょう。

「白峯」
西国への歌枕を訪れる旅に出た西行は、讃岐に着くと、
生前に縁のあった崇徳院のお墓(白峯御陵)に向かいます。

しかしそのお墓のうらぶれた姿を目にした西行は
暗澹として涙を流し、
夜通しで供養するべく読経しながら一首の詩を詠むと、
崇徳院の亡霊が現れて返歌してきました。

成仏できない崇徳院の抱える怨念に慄いた西行は、
何とか成仏してもらおうと崇徳院の非を諫めるのですが、
崇徳院は理をもってそれに応戦する。
そんな問答の果てに、
西行は崇徳院による数々の復讐の経過と
これからの復讐予定を知ります。

崇徳院の魔道の浅ましいありさまに西行はまた涙を流して
一首の歌を詠むと、崇徳院の顔が和らぎ、
ともに現れた鬼火も怪鳥もどこかに去っていきます。

西行はさらに金剛経を一巻供養して山を下ったのですが、
その13年後、崇徳院の予言どおりに
平家の一門は屋島、壇ノ浦の海の藻屑と消えました。
やがて崇徳院のお墓は美しく造営され、
この土地を訪れる人が
必ず供物を捧げて拝む神様として祀られたのです。

崇徳院の怨霊とは
これが「白峯」の物語です。
こちらはあくまでも
「保元物語」などを翻案してまとめた怪異小説ですから、
フィクションです。

しかし、崇徳院は実際に怨霊として恐れられていました。
どのような怨霊だったか、それもお話ししておきましょう。
上皇だった崇徳院は、
讃岐に配流されてからは「讃岐院」として呼ばれていました。

讃岐院が亡くなった約10年後の1176年。
保元の乱で院の敵だった後白河院周辺の4人が
相次いで若死にしました。
「これは亡き院の怨霊の仕業では」と騒がれ、
怨霊説のきっかけとなりました。

そしてその翌年の1177年には、
比叡山のお神輿に矢が射たてられて何人かが射殺される事件が起こり、
その直後に京都中心部を襲った大火(太郎焼亡)で
数千人が亡くなりました。

一連の災厄を受けて、院の怨霊であることがはっきりしたために、
この怨霊を鎮めるべく、
同年にまずは「崇徳院」の称号が贈られて名誉回復がはかられ、
国家的祈祷がなされ、讃岐の白峯御陵も整備・供養され、
と対策が取られていったのです。

それによって崇徳院の怨霊は静まりましたが、
しかし怨霊はいつまた出現するかわかりません。
大事な節目には相応の鎮魂がなされます。

たとえば、それから700年を経た1868年、
明治天皇が即位する直前に、
崇徳院の神霊を讃岐から京都に迎えています。

政府は、白峯御陵で式典を挙行し、
京都に新しく建立した白峯神宮への神霊還遷を終えてから、
その2日後に明治への改元しました。

また、ちょうど没後800年の年に開催された
1964年の東京オリンピックの際にも、
昭和天皇が白峯御陵に勅使を派遣して、
800年式祭が執り行われています。
(こういうことは皇室に引き継ぎ書があるのでしょうか?
気になりますね)

800年を経ても崇め恐れられている崇徳院の怨霊、
その凄まじい存在感たるや。


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