目的:
日本人の起源の最新学説を知っていただきます。
ねらい:
「日本人とは日本国に住んでいる人」
ということになっていくのでしょう。
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日本人の起源についてどう思っていましたか。
「昔」の人は天孫降臨・万世一系の日本人であると教わってきたでしょう。
少し前にはこうなりました。
もともと大陸からやってきた縄文人が住んでいた。
その後稲作文化を持った弥生人がこれも大陸から九州に渡ってきて
土着の縄文人と混血しながら日本全土に広まった。
現日本人はほとんどが混血である。
アイヌ人と沖縄琉球人は縄文人がそのまま残ったものである。
ところがこの説では縄文人の正体が分かっていなかったのです。
DNA分析によると現日本人のDNAは蒙古人のDNAと近いので
その辺が縄文人の起源ではないか、などと言われていました。
ところが、
最近の本格的DNA分析により考古学の進歩は目覚ましいのです。
現時点の学説をご紹介します。
この際ですから、日本人の起源を大きく捉え、
生物の歴史から整理してみました。
その前に,DNA分析なるものについて、
學士会会報2016-Ⅵ号に掲載された
篠田謙一国立科学博物館人類研究部長の解説をご紹介します。
この記事は講演要旨なのですが、
講演要旨は最新であるのと、エッセンスだけを話されるので、
初心者が知らないことを理解するにはたいへん便利です。
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90年代には古代人のゲノム研究がスタートしました。
当初はミトコンドリアDNAの研究でしたが、
2006年以降、膨大な遺伝情報を解析できるようになると、
核ゲノムの分析が主流となっています。
人体は約27兆個の細胞で構成されます。
細胞の中には核があり、
核の中には22対(計44本)の常染色体と
一対(計2本)の性染色体が納められています。
これらは両親から23本ずつ、均等に受け継いだものです。
性染色体にはX染色体とY染色体があり、XXで揃うと女性、
XYだと男性になります。
つまり、Y染色体は父から息子へと受け継がれます。
染色体の中に、核DNAが折り畳まれています。
核DNAは二重らせん構造で、約31億個の塩基対を持ちます。
この塩基の配列が、「人体の設計図」なのです。
一方、細胞質の中にミトコンドリアがあります。
ミトコンドリアは16,569個の塩基対からなる環状のDNAを持ちます。
卵子のミトコンドリアが子どもに伝わるので、
そのDNAは、母から子に受け継がれます。
つまり、ミトコンドリアDNAを調べれば母系を辿ることができ、
Y染色体を調べれば父系を辿ることができることになります。
Y染色体以外の核DNAは両親から伝わりますから、
混血の有無なども知ることができます。
今日では、あらゆる遺伝子解析が簡便化したので、
私どもはこれらのDNAを調査し、
人類がどのように展開してきたのか研究しています。
2000年、世界の様々な地域に出自を持つ53人を選び、
彼らのミトコンドリアDNAの塩基配列を比較する研究が行われました。
その結果、アジアやヨーロッパに住む人類(ホモ・サピエンス)の
ミトコンドリアDNAは比較的似通っているのに対し、
アフリカに住む人同士のミトコンドリアDNAは、
大きな違いを持っていることがわかりました。
この事実から、人類が生まれたのはアフリカだと判断できます。
ミトコンドリアDNAは母から子に伝わるうち、
稀に突然変異を起こします。
だから個人ごとのミトコンドリアDNAの配列は異なっているのです。
その違いが最も大きい地域こそ、時間と共に蓄積する突然変異が
人々の間に最も多く存在しており、
最も昔から人類が住んでいたと考えられるからです。
さらに突然変異の起きる確率を元に計算したところ、
人類の持つミトコンドリアDNAは、
15万~20万年前のひとりの女性の持つタイプに収斂する
こともわかりました。
つまり現生人類の誕生はその頃ということになります。
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なお、国立科学博物館は今年7月に3万年前の航海を再現する
プロジェクトを遂行しました。
ヒメガマという草で船を作って島を渡る実験です。
残念ながら成功しませんでした。
昔の人類のチャレンジ精神はは偉いですね。
1.生物の歴史
その1 古代の生物史
出典「人類進化の秘密が分かる本」Gakken
生物の始まりは35億年前です。
その2 哺乳類 類人猿の登場まで
出典「人類進化の秘密が分かる本」Gakken
哺乳類の始まりは3億年前です。
2.類人猿の歴史
類人猿が分かれた順番は、
オランウータン(遠い)、ゴリラ、チンパンジー(近い)です。
著者の注:
類人猿の系統樹を地質年代に対応させて示す。
中新世にはアフリカとユーラシアにきわめて多様な類人猿
(プロコンスルやその子孫)が生きていたが、
この年代の終わりごろに
熱帯の大森林が縮小すると大半が死に絶えた。
黒表示は現生属、グレー表示は絶滅属を示す。
波線は確証のない類縁性(たとえば、ヒト科に対する初期ホミニン、
サヘラントロプス、オロリン、アルディピテクスの位置」)
3.人類の歴史
その1 人類の系統樹
出典「人類進化の謎を解き明かす」ロビン・ダンバー著
著者の注:
600万年にわたる人類の進化を、
主な種とそれぞれの存続期間について示す。
人類進化の大半の時期をとおして、
同時に存続していた数種のホミニンがいた。
最初期の種はいずれもアウストラロピテクス類で、
約200万年前に頑丈型アウストラロピテクスと、
現生人類に繋がる系統に分岐した。
ネアンデルタール人を含む何種かの人種が絶滅しているというのは
脅威ですね。
その2 人類の世界拡散の経路
出典:「古代ゲノムで解明する日本人の成立」篠田謙一(前掲)
學士会会報2016-Ⅵ
人類の祖先がアメリカ大陸を縦断して大陸南端まで到達した
ということは感嘆です。
ある人の説明では、1年に2キロメートル移動すれば
5千年で南端に到達できるというのです。
たしかに狩猟採集民ならありえますね。
4.日本人の歴史
その1 原日本人はどこから来たのか
これについては、「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋刊)で
海部洋介氏が非常に興味深い研究成果を発表されています。
これまでは、日本人はどこから渡って来たのかが中心テーマでしたが、
海部氏は、
その人たちがスタート地点のアフリカからどうやって日本まで来たのか
について解明しているのです。
人類の遺跡地図
これらを基に、人類のアフリカから東アジアまでのルートは、
ヒマラヤ北ルートとヒマラヤ南ルートがあったと推定しています。
そうして、中国の東端または当時陸続きだった日本で
両ルートの人類が合流した、というのです。
その2 現日本人はどこから来たのか
その1も含み、今の日本人がどこから来たのかについては、
冒頭ご紹介した2段階説(または2重構造説)に対して
以下のように見直し論が出ています。
1)斎藤成也国立遺伝学研究所教授の3段階渡来モデル
出典:「日本列島人の歴史」2015年8月岩波ジュニア新書
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・第一段階……約4万年~約4千年前(ヤポネシア時代の大部分)
第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、
日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきました。
主要な要素は、現在の東ユーランアに住んでいる人々とは
大きく異なる系統の人々でした。
日本列島中央部の北側では、5千年前ごろに大きな人口増が
ありましたが、日本列島中央部の南側では、
九州を除けば人口がきわめて低い状態が続きました。
・第二段階……約4千年~約2千年前(ヤポネシア時代末期)
日本列島の中央部に第二の渡来民の波がありました。
彼らの起源の地ははっきりしませんが、
朝鮮半島、遼東半島、山東半島に囲まれた沿岸域およびその周辺だった
可能性があります。
第二波渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、
第一波渡来民の子孫と混血しながら、
すこしずつ人口が増えてゆきました。
一方、日本列島中央部の北側と日本列島の北部および南部では、
第二波の渡来民の影響は、ほとんどありませんでした。
・第三段階前半……約2000年~約1500年前
(ハカタ時代とヤマト時代前半)。
ハカ夕時代に入ると、朝鮮半島を中心としたユーランア大陸から、
第三波渡来民と遺伝的に近いながら若千異なる第二波の渡来民が
日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入しました。
彼らとその子孫は、
日本列島中央部の東西軸にもっぱら沿って
居住域を拡大し、急速に人口が増えてゆきました。
ヤマト時代になると、
中国からも少数ながら渡来民が来るようになりました。
日本列島中央部の東西軸の周辺では、
第二派の渡来民およびその子孫との混血の程度が少なく、
第二波の渡来民のDNAがより濃く残ってゆきました。
日本列島の北部と南部および東北地方では、
第二波渡来民の影響はほとんどありませんでした。
・第三段階後半……約1500年前~現在(ヤマト時代後半以降)。
第三波の波来民が、
ひき続き朝鮮半島を中心としたユーランア大陸から移住しました。
それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、
6世紀前後に大部分が北海道に移ってゆきました。
その空白を埋めるようにして、
第二波渡来民の子孫を中心とする人々が
東北地方に居住してゆきました。
日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州から
第二波の渡来民の子孫を中心としたヤマト人が多数移住し、
さらに江戸東京時代には第三波の渡来民系の人々も加わって、
現在のオキナワ人が形成されました。
日本列島北部では、
ヤマト時代後半から平安京時代の初頭にかけて、
北海道の北部に渡来したオホーツク人と
第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、
アイヌ人が形成されました。
平安京時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進みました。
日本列島人の形成に関するこの三段階渡来モデルの概略を、
以下の図5-5に示しました。
日本列島人を大きくとらえると、北部のアイヌ人と南部のオキナワ人には、
ヤマト人と異なる共通性が残っており、
この部分は、第1章で紹介した、新・旧ふたつの渡来の波で
日本列島人の成立を説明しようとした「二重構造説」と同一です。
図5-5のモデルが新しいのは、
二重構造モデルでひとつに考えていた新しい渡来民を、
第二段階と第三段階に分けたところです。
この新しいモデルでは、第三段階のところで大小の楕円が
示されているので、日本列島中央部に限っていえば、
「内なる二重構造モデル」とでもよべるでしょう。★
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2)篠田謙一氏の2重構造説再考―複眼的アプローチの必要性
出典:前掲
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二重構造説再考~複限的アプローチの必要性
二重構造説は、中央には進んだ文化が流入する一方で
周辺は取り残されて在来の集団が残る、
という中央に視点を持つ日本人成立論です。
しかし、北海道の地域集団の成立過程などを見ると、
列島集団の成立を記載するためには、
この単一の視点では不十分であることは明らかです。
更に、二重構造説は最初に日本列島に人類が到達した
4万年前~縄文前期については何も説明していません。
これらの点を見直すことから日本人の成立を考える必要があります。
4万年前以降の旧石器時代、地球は水河期で、
海水面は最大で今より120mほど下降していました(図8で網掛け部分)。
そのため、地理的な環境は現在とは大きく異なっていましたし、
当時の北海道は寒帯~冷温帯、本州の北半分は冷温帯で
南半分は温帯、沖縄は亜熱帯でした。
同じ日本列島でも地域によって環境が大きく異なっていたことは、
人々の広範な交流を妨げていたと考えられます。
均一な縄文人の成立は難しかったはずですし、
DNAの分析もそれを示唆しています。
これらのことを考えれば、日本列島集団の成立の歴史を正確に記載
するためには、少なくとも列島を北と本土日本、南の地域に分け、
旧石器~縄文前期までを視野に入れた複眼的なアプローチが必要でしょう。
今後構築される新たな日本人起源論はそこから
スタートすることになるはずです。
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それこそ日進月歩で真実が分かってくるのでしょう。
楽しみです。
あらためてこうしてみると、日本人はまさに「人種のるつぼ」ですね。
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