2020年8月17日月曜日

「稽古の思想」

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 「稽古」の本質を再確認していただきます。
 その本質は、一言でいえば「守破離」なのです。
ねらい:
 身の回りの「お稽古事」を振り返ってみてください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このテーマ名は、西平直京都大学教育学研究科教授の著書名です。
著者は、信州大学、東京都立大学、東京大学に学び、
立教大学、東京大学に勤務の後、現職という「渡り鳥」系の方です。

私は、この著書を、
自分が大学時代に空手の稽古をしたことから関心を持ち、
購入しました。
しかし、ぱらぱらと見たところ、
期待していたものと違っていましたので
しばらく机上に放置していました。

今回夏休みで改めて読んでみました。
著者の意図は「はじめに」によく書かれていますので、
そのままをご紹介します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(前略)
実は、大学の教師になりたての頃、
たくさんの学生の前で話をすることがとても苦痛だった。
どうすればよい授業ができるのか。
その手掛かりを求めて、あれこれ彷徨った挙句、
最後に「稽古の思想」に辿りついた。

正確には、世阿弥の伝書に出会い、授業を「舞台」と見立て、
「無心に舞う」ように授業をしたいと、
まるで滑稽なことをひとり考えていた。
それほど、追い詰められていたのである。

その意味では、「稽古の思想」はすべて自分の問題であり、
我が事であった。
武道・芸道など、ジャンルは関係なかった。
あるいは、
「稽古」の範囲も超え(修行も修養もレッスンやトレーニングも)
すべて関連しそうな話は「稽古の思想」として読んだ。
そしてたくさんの知恵を授かり、
同じだけ、たくさんの疑問を持った。

師匠はいなかった。
尊敬する方には何人もお目に掛かったが、
ある一人の師匠から教えを受け継ぐという仕方で
学んだことはなかった。
その意味では初めから「稽古」の原則を逸脱していたことになる。

稽古の「王道」は一人の師匠の下でその流派の技芸を学ぶ。
稽古はその流派の技芸と密接に結びつき、
他のジャンルとは交流しない。
他と交わらぬ純粋な継承関係が理想とされてきた
(縦の系列・師資相承)。

その伝でいえば、この本は「王道」から外れた者が、
道に残された言葉を頼りに、
その内側に秘められた知恵を尋ね歩いた
無謀な試みといういことになる。

稽古の言葉は現場の言葉である。
具体的な「わざ」に即し、
具体的な相手に向けて語られた(文脈依存性の高い)言葉であって、
その現場から切り離し、
言葉だけ相手にしてもその本当の意味は分からない。

あるいは、
それらの言葉はしばしば「反転」する仕掛けを秘めている。
それは聞き手に「気づき」を促し、聞き手の内側に
新たな地平を切り開いてゆくための仕掛けであって、
言葉だけ単独に検討しても、生きた知恵は伝わらない。

そうした理屈を痛いほど感じながら、
しかしその理屈をもって内向きになり、他領域との交流を避け、
秘伝として神話化しようとする傾向はもったいないと思われた。

あるいは逆に、そうした言葉を、
見栄えのするキャッチコピーとともに
「商品」として売り出そうとする傾向には、
どうしても馴染むことができなかった。

そうではなくて、声を荒げることなく、静かに検討する。
その語りの構図を整理し、
その内側に秘められた知恵の位相を慎重に確定する。
そうした地道な作業を願ったのである。

「稽古」などという古めかしい話には縁がなかった方々に、
その知恵の一端をご覧いただく機会になるのであれば、
こんな嬉しいことはない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本書の章構成は、若干ランダム(「人文科学系」)ですので、
私なりに以下のように整理してみました。
そうしてみますと、著者はずいぶん苦労されているようなのですが、
その極意は「守破離」なのです。

著者は、
その「守」「破」「離」の流れで解説されていれば、
より極意の奥深さが分かりやすく解説できたのではないか
と思いました。

また、私の空手での稽古の経験からみると、
著者がご自身で稽古を経験されていれば、もう少し苦労しないで
今の結論に到達されたのではないかとも思いました。

稽古の本質の結論だけでなく、以下の記述内容の詳細にご関心のある方は
是非本書をお読みください。

「稽古の思想」要約
【関連用語】
稽古
歴史的に明確な用語法が確立しているわけではない。稽古はそれを通して精神を鍛え、内面的な向上を目指すものとされている。練習が本舞台(試合)を目指した事前準備であるのに対して、稽古はそのつど本番である。稽古は常に全力で行われる。
稽古には師が必須であるが師は直接答えを教えない。その点が練習と異なる。修行は近い用語であるが、修練、鍛錬、研鑽、錬成、修行、修養、など類語・周辺語がある。
練習
基本的には、スキルの習得と理解されている。
しつけ
稽古と同じく、良いと悪いの区別を身に付けさせるが、しつけには技が含まれない。
力を抜く
力を抜くのは、力が入っているからで、はじめから力が入ってなければ「力を抜く」とは言わない。(なるほど!)
稽古の対象は、先人が創った、茶道、華道、武道、柔道、剣道、空手道、などの道である。音楽は道と言わない、俳句や和歌は日本の文化であるが道にはなっていない。
道場
稽古を行う場と言うことが多いが、仏法修行の場も道場と言われる。
道を修する場と限定せずに、「道が顕れる場」と理解すると、特定の場所に限定せずに日々の暮らしの場がすべて道場となる。
スキル
何かができる能力を言う。技術やテクニックを習得して実現する。
アート
スキルを身に付けた上で、スキルから離れて自然体で動ける状態をいう。アートを直接学ぶことはできない。
稽古のプロセス
似する、似せぬ、似得る
世阿弥。「似する」は、物まね(真似る、学ぶ)である。真似ができるようになったら、次の意図して真似ようとしないでできる「似せぬ」(離れる・明け渡す)になる。最後に「似得る」(自然に生じてくる)
状態に到達できる。
上野注:これは弁証法の「正反合」と同じ構図です。

守破離
守破離の元祖は千利休のようである。離は、型を使うこともできるし、使わないこともできる、自在に使いこなす状態を言う。
世阿弥は型と言わず形木と言った。型がないと習うことができない。
型は、からだの内側の動きを促すための土台であり、その道の先人質が様々な経験を重ねる中で最も基本とした「からだの流れ」である。
型を守り、型を破り、型から離れるのである。
「型があっての型破り、型がなければ形無し」という無著成恭の言葉もある(上野)
【稽古の到達点】
心身一如
道元禅師は心身脱落(しんじんとつらく)と言う。心は無心の境地となり体も無体となった上で一つになる状態を指す。
からだが自然に動く
稽古はからだで行う。からだの動作の反復が稽古の基本である。稽古が進むと考えなくても、からだが自然に動くようになる。
(上野注)スポーツはすべてこうなっている。考えて体を動かしていたら間に合わない。野球でもサッカーでもボクシングでもそのことは容易に理解ができる。芸事も同じである。
離見の見
世阿弥、自分の目で見ることを我見、他社の目で見ることを離見と呼ぶ。離見の見は他社の目で自分を見ることである。そうすることによって「からだの内側がおのずから動き出す」。ある面で無心の境地である。
修証一等
道元禅師、修行と証(悟り)一体で悟りを目指して修行してはならない。「悟っているから修行し恵みを受けられる」
平常心
禅ではこれを「びょうじょうしん」と言う。逆境にも順境にも動じることなく、ゆったりと悠々と自然にしたがって生きることである。現代の「へいじょうしん」は、普段通りの平静な心を保つこととして軽くとらえて使っている。
成就
世阿弥はこれを落居と言う。「然るべき過程を踏んだ後に、落ち着くべきところに落ち着いた」という納得・満足感である。
会得、悟り、解脱、心眼
上野意見:これらの言葉は、稽古・修行の到達点を表現する言葉であると思われますが、なぜか本書に登場しません。






0 件のコメント: