【このテーマの目的・ねらい】
目的:
死の迎え方について考えていただきます。
ねらい:
(スミマセン)必要な方はその準備をしていただきましょう。
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これも學士会会報(2015年Ⅵ号)の掲載原稿のご紹介です。
著者は、大井 玄東大名誉教授医学博士です。
以下太字はその引用です。
この論文の副題は「いのちのバトンタッチ」です。
現在人類はかなりの死に至る病を克服してきた。
その結果、かなりの延命が行われている。
日本では国民皆保険制度が施行され、
健康保険証さえあれば、どこの医療機関をも受診できる。
アメリカから見ると、信じられないほど安価に、
優れた医療の恩恵に与ることができるようになった。
2006年、世界保健機構(WHO)の評価では、
日本の医療は、
その公平性、効率、費用、患者などへの配慮などを総合して
世界一であった。
へー、そうなんですね。
頻繁に医療過誤問題が報じられていますが、
それは、全体から見ればほんの些細なことなのでしょうね。
第2次世界大戦後、人が亡くなる場所は自宅が8割で、
病院での死亡は2割に過ぎなかったが、
それは現在では完全に逆転している。
しかし、
それが望ましい終末期医療を実現しているかどうかは疑わしい。
青木新門著「納棺夫日記」にはその状景の記述がある。
今日、事故死や自殺以外は、ほとんど病院死亡である。
昔は口から食べ物が取れない状態になったら、
枯れ木のようにやせ細っていくしかなかったが、
今では点滴で栄養が補給されるため、
以前のように極端に痩せ細った状態にならない。
点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体が、
時には喉や下腹部から管などをぶら下げたまま、
病院から運び出される。
どう見ても、生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。
晩秋に枯葉が散るような、そんな自然な感じを与えないのである。
それどころか今日の医療機関は、
死について考える余地さえ与えない。
周りを取り巻いているのは、生命維持装置であり、
延命思想の医師団であり、生に執着する親族たちである。
「生命を救う」という絶対的な大義名分に支えられた「生」の思想が、
現代医学を我がもの顔ではびこらせ、
過去に人間が最も大切にしてきたものを、
その死の瞬間においても奪い去ってゆこうとする。
美しい死にかたどころではないのである。
昭和60年代、
筆者たちは終末期医療について考慮すべき事柄を調査しています。
その結果によるとこうなっています。
1.どこで死を迎えたいか。 「終の場所」
個人としてはできるならば家で死にたいが圧倒的多数だが、
介護の苦労を考えると病院でも仕方がない、
という配慮が見られた。
これは、自宅や老人ホームなどの「終の棲家」に
医療・看護・介護支援を行き届かせるならば、
8割が病院死を遂げる現状を、
「終の棲家」での看取りに相当部分転換させるのが可能
なことを示唆する。
医療側の9割が「家庭に帰したい病名の終末期患者」として
末期がんを挙げていることも、この解釈を支持する。
→そのとおりでしょう。
2.「病名告知」
「どのような病気でも告知してもらいたい」が大多数である。
3.治らない段階での治療方針(「延命努力」対「除苦痛」)
住民、患者、医師看護師の区別なく、圧倒的多数が
「苦痛を除く」ことを望んでいた。
その後、類似の調査知見を概観しても、
ほぼ似たような結果が報告されている。
昭和60年代に比べ、現在、「病気の告知」については、
それががんであろうと認知症であろうと、
医療側は以前よりはるかに率直になったことが印象的である。
医師側の思惑では、
率直な告知を行うのは危機管理の一種であり、
「クレーマー」と彼らが呼ぶ、
うるさい患者に対する用心である部分が大きい。
なるほど、そういう受け身思考なのでしょうね。
同時に、医療倫理的用語を使うならば、
「患者の自己決定権」を尊重することが、
「家父長的温情」をかけることよりも尊重されることを意味する。
ここに、アメリカの医療倫理の影響を見ることは容易であろう。
中略
しかし、多くの日本人では
自己は周囲の人々と切り離しようがなくつながっているという、
深層意識的理解がある。
このような自己観を筆者は「つながりの自己観」と呼んだ。
看取りの医師として言えるのは、
私たちは生を受けて育つときに、1人では生き延びられないように
死に至る過程においても、
周囲とつながりながら死んでいくという事実である。
自宅や老人ホームのような「終の棲家」で
看取られながら終焉を迎えるときは、
子や孫、ひ孫に何かを伝えているのが判る。
というよりも、
遺されるものが死にゆく者から何かを受け取っているのだ。
死ぬことは、教育的事業である。
それは、青木新門氏が例えたように、
「いのちのバトンタッチ」というのがふさわしいだろう。
機械に繋がれ、点滴の柱に囲まれて死ぬことは、
このいのちのつながりを作る機会を奪っているのではないか。
このような考え方は、今では一般的になってきました。
私の父は39年前に69歳で、
母は10年前に91歳で亡くなりました。
その時のことをご紹介します。
父は、「劇症肝炎」で短い闘病生活の末に
病院で亡くなりました。
当時はC型肝炎が認知されていませんでしたので、
父の肝炎は、「ノンA、ノンB」(A型でもB型でもない肝炎)
という言われ方をしていました。
父は法医学者で血液を材料にした実験を数多くしていました。
注意がマンネリになって素手で血液を扱って
感染したようでした。
発病して2-3時間で意識混濁になるほどの急激な症状でした。
私はアメリカに出張中でしたが、急遽帰国しました。
その時は意識がありませんでした。
その後、
妹の主人やお弟子さんなど数多くのお医者さんが
懸命・献身的な治療にあたってくださり、
当時実験段階だった人口肝臓機器も使いました。
その成果があっていったん意識回復しました。
私とも会話をすることができました。
肝機能が不全になると血液中の毒素が全身に回り、
脳も破壊されてしまいます。
回復した段階では脳は会話ができる程度ではあったのです。
しかし再び意識不明の状態になってしまいました。
家族も付ききりで点滴や人工肝臓の機能の稼動をフォロしていました。
何とか回復してほしいと願っていました。
しかし先生方が漏らした言葉では、
「ここで回復しても脳の働きは戻らず学者としての活動はムリ」
ということでした。
それを聞いて、
それなら単に生き返っても父も嬉しくないのではないか、
と家族たちもだんだん諦めていきました。
看病は家族が交代でつとめていましたが、
体力的にも限界に近付いていました。
発病から2週間経った夕方
意識のないまま静かにいってしまいました。
握りしめた手にも力は返ってきませんでした。
それでもお別れはできたのです。
父の死を諦めるのに2週間必要だったということです。
この時に、意識がなくなっでも看病・治療するのは
意識が回復するかもしれないという望みがあるからです。
奇跡的に何年かの眠りから覚醒した事例が
報告されていますものね。
しかしまったく意識回復する可能性がないのなら
本人にとっても家族にとっても延命している意味はありません。
意識がなくなった状態では本人は、
生死の意思表示をできませんから、
事前にその意思を書いて残していないとなりません。
そういう人も増えているようですがまだ一般的ではありません。
母は、
父の死後約30年間子ども家族と一緒に暮らしていました。
90歳まで、
ほとんど病気らしい病気をしたことがない超健康人でした。
父が病院で死んだこともあり、大の病院嫌いでもありました。
そのために、大腸がんの発見が遅れ、手遅れでした。
治癒の可能性がないと分かりましたので
本人の希望で入院しませんでした。
自宅で子供たちが交代で看病しました。
鎮痛剤は服んでいました。
3か月くらい寝ていましたが、
これも看病の限界になりつつあったときに
静かに本当に静かに息を引き取ってしまいました。
その時に付いていた者が、
その死に気が付かなかったくらいでした。
母は自宅で息を引き取ることができて幸せだったと思います。
自宅で死を迎えることの問題点は、不審死扱いになり、
警察の鑑識結果がないと葬儀ができないことです。
そこで懇意の先生にお願いしておいて、
主治医であり先生が常に往診をして看取ってくださった
という証明(死亡診断書)を発行していただきました。
そういうことがありますから、
自宅での死には何らかの対応が必要です。
以上の経験からも、
不必要な延命治療は行わずに
自宅で死を迎えるのが理想ですね。
28日のテレビでも自宅で死を迎えることをテーマにした
ドキュメンタリー番組をやっていました。
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